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「神が私たちのように幸不幸を体験するのか?の答え」/シャンカラ註解『ブラフマ・スートラ』(1.2.8)


はじめに

今回は、「神様が私たちと同じように幸福感や悲しみを体験するのか?」という誰しも一度は考えたことがある問いに対して、答える形をとりながらブラーフマンと個我との違いをシャンカラ師は教えています。

シャンカラ註解『ブラフマ・スートラ』第一篇第二章八節

8節 もし神が(一体性の結果としての幸福と悲しみの)経験を受ける(被る)だろうと反論されるならば、私たちはそうではないと言います。なぜなら、そこには違いがあるからです。 

反論相手:ブラーフマンは、空間のような遍在性によってすべての生き物の心臓とつながっており、また、意識という性質によって肉体化された魂とは区別がないから、ブラーフマンも他の生き物と同じように喜びや悲しみを経験するという結論が導き出されるだろう。そして、一体性があるからこそに違いない。というのも、「彼以外に証人はいない」(Br.III.vii.23)といったヴェーダのテキストで否定されているように、至高の自己を離れては、輪廻転生する魂は存在しないからである。それゆえ、輪廻転生するのは至高の自己そのものである。

ヴェーダンティン:いいえ、「違いがあるから」だ。説明しょう。ブラーフマンがすべての存在の心臓と何らかの関係があるからといって、ブラーフマンが肉体化された魂と同じように喜びや悲しみを経験するわけではない。ちがいがあるからだ。というのも、肉体化された魂と至高の神には違いがあるからです。一方は行為者(an agent)であり、(幸福と悲しみの)体験者であり、功罪の源であり、幸福と悲しみを持っているが、もう一方はその反対で、罪からの解放などの性質を持っています。この両者の区別のために、一方には経験があるが、他方にはない。近接しているという事実だけから、物事の本質的な性質に何ら言及することなく、ある効果との因果関係が仮定されるなら、例えば空間は、(火と結びついていることで)焼かれることもあり得る。そして、この反論は、魂は多数であり、すべてに遍在しているという見解を保持するすべての人々によって等しく満たされ、反論されなければならない。

ブラーフマンは非二元的な存在であるため、他の自己は存在できないという議論があった。それゆえ、ある自己が何らかの経験をするとき、ブラーフマンもその経験をする可能性がある。これに対する反論として、私たちはこう言う。「神々のお気に入り」(すなわち愚か者)であるあなたが、どうして他の魂は存在しないという見解に固執するのか?

反対者: 「汝はそれである」(Ch.VI.viii.7)、「我はブラフマンである」(Br.I.iv.10)、「彼以外に証人はいない」(Br.III.vii.23) などの聖句を根拠とする。

ヴェーダンティン:その場合、聖典の意味はそのように解釈されるべきであり、ここで、片方が若く(もう片方が老いて(*7))いる老婆のようなものになぞらえることはできません。さて、「汝はそれである」という聖典のテキストは、罪からの自由などの性質を持つブラーフマンが、肉体化された存在の自己であると教える一方で、それによって肉体化された自己そのものの経験を否定しています。では、肉体化された自己の経験からブラーフマンに生じる経験など、どうしてあり得るのでしょうか?

(*7)old:ヴェーダのテキストを信じるなら、最後までそれに従うべきです。中途半端なことはあり得ません。

逆に、求道者(aspirant)が肉体化された自己とブラーフマンとの一体性を理解していない限り、肉体化された存在による幸福や悲しみの体験は偽りの無智の結果であり、最高の実在であるブラーフマンに触れることはできない。なぜなら、空は実際には、無智な者がそれに空想するような表面(すなわち凹み)を持ったり、泥などで汚れたりしないからである。その事実は、「違いがあるからそうではない」と述べられている。一体性という事実のため、ブラーフマンは肉体化された魂が被った(undergone)いかなる経験によっても影響を受けない。なぜなら、真の智識が偽りの無智と異なるように、そこには違いがあるからである。幸福の経験などは偽りの無智によって作り上げられる(でっち上げられる)が、一体性は真の智識によって見られる。そして、真の智識によって知覚されたものが、偽りの無智のもとでのいかなる経験によっても影響を受けるということは決して事実ではない。したがって、神における幸福や悲しみの経験をほんの少しでも空想することはできない。

最後に

今回の第一篇第二章八節にて引用されているウパニシャッドとバガヴァッド・ギータを以下にてご参考ください。

...すなわち、それ(内制者)は、他から見られることなく見る者であり、他から聴かれることなく聴く者であり、他から思考されることなく思考する者であり、他から認識されることなく認識する者であります。それ以外に見る者はなく、それ以外に聴く者はなく、それ以外に思う者なく、それ以外に認識する者はありません。それがあなたのアートマンであり、不死の、内部の抑制者であります。それ以外のものは苦悩にゆだねられております。...

(Br.III.vii.23)岩本裕訳

この一切は(全宇宙)は、それを本性とするものである。それは真実である。それはアートマンである。それは汝である。...

(Ch.VI.viii.7)岩本裕訳

実に、ここには最初ブラマンが存在していた。それは、「わたくしはブラフマンである」とこのように自己自身だけを知った。...

(Br.I.iv.10)湯田豊訳

今回の八節を要約すると

もしも、神様が幸不幸を体験するのだと主張するならば、私たちはそうでもないと言いたい。というのは、そうなると、唯一絶対ではない二つの性質が存在するということになってしまうからである。

このような問題が生じるのは、七節において、内側に神様を見つけようとした時に、三組の瞑想でいえば個我を調べる時に、たとえば、私たちが幸せな気持ちになったり、悲しんだりすることに関して、こういった幸不幸の気持ちも私たちと同じく神様の性質だと考える人がいるかも知れないが

ヴェーダーンタ学派である私たちは、そうではないと言うとしています。

というのは、私たちが嬉しさのあまりに舞い上がったり不遇に際し落ち込んだりするということが神様にも生じるということになれば、神様にも二つの性質が存在することになります。

これは聖典に書かれている唯一絶対なる性質ということになりませんし、普遍でありかつ不変であり常に絶対的であるとするブラーフマンに他者はいないというものなので、私たちが心の中で感じる幸せに感じるとか悲しみを感じるという体験をするというのは、神様の性質ではないと理解して欲しいとシャンカラ師は伝えていると推論できます。

…片方が若く(もう片方が老いて)いる老婆のようなもの…

本文引用

この喩えは、現代風に言うならば、「ちょっと妊娠する」や「半分だけ妊娠する」ということはできないので、「妊娠する」のか「妊娠していない」のかのどちらかになる。肉体化された魂と至高の神には違いがあるのですが、この識別がしっかりしていないと「現在地」と「目的地」が混ざってしまい「目的地」への道があやふやになってしまいます!

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