「目に内在するブラーフマンを熟考することは聖典に記されている」/シャンカラ註解『ブラフマ・スートラ』(1.2.14)
はじめに
『チー地球の運動についてー』というアニメの台詞に以下のものがある。
インドにおいて、文字化するという文化がなかった時代をも含めると、約五千年の歴史が何世代にわたって、そして、幾人もの聖なる口伝により伝わっている「真理」を私たちは現代の“note”を通じて、その智慧を共有し導かれている。
「天動説」から「地動説」への転換をはるかに超える真理へと挑もうとしているそのプロセスは、「地動説」という仮説を天体の観測を通じて理論構築し証明するのと同様である。そして、瞑想を通じて行うための約五千年かけて積み重ねられた叡智を教説という形で教えてくださっているシャンカラ師に感謝を捧げます。
しかし、私たちにとっていまだ「仮説」である故に、継続するこの積み重ねは無駄に終わるかもしれないし、無意味かもしれないけれど
もしそうならば、五千年もかけて続くわけがないことも事実となります。
少なくとも、という表現は適切ではないのですが、お師匠様から伝えられたこの真理を継続している先生のお姿からも信頼できると思っているからこそこのようにシェアしています。
このことからも、この道には「師」が必須です!
シャンカラ註解『ブラフマ・スートラ』第一篇第二章十四節
14節 そして、場所の言及などから(このことは導かれる)。
空間のように遍在するブラーフマンが、目のような小さな座(所在地)を持つことが、またどうして論理的なのでしょうか?
これについて、この非論理性は、もしそれがブラーフマンのために示された唯一の場所であったなら、そこにあっただろうと言われている。しかし、実のところ、大地のような場所は他にもあり、それらは「大地に住む者、しかしその中にいる者」(Br.III.vii.3)というテキストによって、ブラーフマンのために示されている。これらの場所の中には目も含まれている。「目に宿り、その内にある者」(Br.III.vii.18)などで「場所などの言及」の「など」の使用によって格言に暗示されていることは、ブラーフマンに対する場所の言及だけが相容れることができないというわけではない。
他に何が相容れることができないのか?
名前と形など ブラーフマンは名前も形もないが、「その名はウド」(Ch.I.vi.7)、「そのひげは黄金」(Ch.I.vi.6)など、そのようなものがブラフマンに与えられている。すでに述べたように、ブラーフマンは性質を持たないが、それでも瞑想のために、それぞれの場所で名前と形に関連する特性を持つ、条件づけされた実在(a qualified entity)として示されている。また、遍在するブラーフマンであっても、ヴィシュヌのためのS alagrama(石のシンボル)のように、瞑想のための特定の特別な場所を持つことは、何ら不自然なことではないとも述べられています。
最後に
今回の第一篇第二章十四節にて引用されている『ブリハッド・アーラニャカ・ウパニシャッド』と『チャーンドギヤ・ウパニシャッド』を以下にてご参考ください。
今回の十四節を要約すると
ブラーフマンの居所などの名称や形態は、ブラーフマンを熟考するために、他の聖典においてもブラーフマンについて記されているからだ。
表題の目の中にいる人への教説は次の十五節から十八節へと続きます。