「スムリティ聖典からもブラーフマンと個我とは異なるのだ」/シャンカラ註解『ブラフマ・スートラ』(1.2.6)
はじめに
『ブラフマ・スートラ』をシャンカラ師が解説する体裁となっていますが、実際には、私は先生から解説の解説という講義を受講していました。
当時は、それでもさっぱりわかりませんでした。
ですので、今回は、「最後に」で少しだけ補足をいたしますので、よろしければお目をお通しください。
シャンカラ註解『ブラフマ・スートラ』第一篇第二章六節
6節 スムリティからも(これは導かれます。)
肉体化された魂と至高の自己は、スムリティでも異なる形で示されている。「アルジュナよ、主はすべての生きとし生けるものの心に宿り、そのマーヤによってすべての生きとし生けるものを、(あたかも)機械に搭載されたように回転させる」(Gita,XVIII.61)
ここで反相手はこう言う:「個々の魂(個我)は確かに言及されないが、それは性質がそれに適合しないからである」(I.ii.3)などという格言によって否定されている至高の自己とは異なる肉体化された魂と呼ばれるこの存在は何なのか?実のところ、ヴェーダのテキストは、例えば「彼以外に証人はいない」(Br.III.vii.23)のように、至高の自己以外のいかなる自己も否定している。スムリティのテキストも、例えば、「バーラタの子孫よ、汝もまた、すべてのクシェートラ(すなわち肉体)を知る者であることを知るであろう」(GitaXIII.2)と同様である。
ヴェーダンティン:これに対して我々はこう言う。肉体、感覚、心、知性など、条件づけられた要素によって区切られた(限定された)至高の自己そのものが、無智な人々によって、肉体化された魂として遠回しに語られるのは、まったくその通り真実である。このケースは、空間が分割されていないにもかかわらず、鍋や壺などの条件付けによって分割されているかのように見えるのと似ている。そして、「それは汝である」(Ch.VI.viii.7)のような自己の統一性についての教えを得る前に、その観点から、主体と対象(objects)によって暗示されるような違いについて語ることは、何ら不自然なことではない。しかし、ひとたび自己の統一が受け入れられれば、束縛や解脱などの概念を含む経験的な取引はすべて終わるに違いない。
最後に
今回の第一篇第二章六節にて引用されているウパニシャッドとバガヴァッド・ギータを以下にてご参考ください。
今回の六節を要約すると
スムリティ聖典(バガヴァッド・ギータ)からもブラーフマンと個我は異なるのだ。
となる。
この『バガヴァッド・ギータ』では、イーシュヴァラとしていますがプルシャと同じ意味なのですが、この心臓内に宿るプルシャが「万物をからくり台に乗せられた物のように回転させる」、つまり、輪廻転生させる。
本当は、プルシャつまり神様は、そうはしていないのですが、輪廻転生させているかのように知覚していることが迷妄(マーヤ)という力だとしています。
たとえば、土地(クシェートラ)と呼ばれる肉体を研究室だとすると、この研究室を知っているのは科学者であり、この科学者はその研究室を特定の目的のために使用する。
科学者ならば科学の理論を理解した上で、この研究室で科学上の発見をすることになるのだが、しかし、科学の理論を知らずに働いているのならば科学者とは言えず単なる技師となってしまう。
ヴェーダーンタ哲学的に言うならば、もしも、ある人が肉体を支配する法則と肉体内に宿るアートマン(至高なる自己)について無智だとすると、迷妄(マーヤ)という力によって輪廻転生する死んだ魂のままに留まっていることになるので
土地(クシェートラ)と呼ばれる肉体を研究室として、土地(肉体)を被観照者と土地を知る者(至高なる自己)という区別する智慧をもって、つまり、科学の理論を理解した科学者のように、研究するならば
ブラーフマンと個我(肉体化した魂)とは異なる、としているのかな、と推論できます。
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?