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「ブラーフマンに到達しようとする者とその対象について解説されているから個我とは異なる」/シャンカラ註解『ブラフマ・スートラ』(1.2.4)


はじめに

現代の心理学は、個我の心理状態について研究しているので、どこに行き着くのかについては明らかにされていないのではないでしょうか?

とはいえ、三組の瞑想について以前の記述からすると、個我の性質について、つまり、あーでもないこうでもないというゴチャゴチャした心理を調べて整理してから、どこに持っていきたいのかという目的についてヴェーダーンタ哲学ははっきりと言及しています。

何千年来も東洋の心理学とは、個我のゴチャゴチャした性質を熟考により整理し、純粋な形に持っていくために攪拌し、また、きれいにして、不必要なゴミは捨てて、ブラーフマンに持っていくということになりますので

少しずつの小出しで申し訳ございませんが、続けてお読みくださればと思います。

シャンカラ註解『ブラフマ・スートラ』第一篇第二章四節

4節 そして、目的(the object)と主体(subject)への言及があるからである。

肉体化された存在は、「心と同一視される」というような性質を持つものではない。というのも、この理由から、「ここから去って、私はこのお方に到達する」(Ch.III.xiv.4)という文の中に、対象と主体(すなわち、到達される何かとそれを到達しようとする誰か)の主張があるからだ。「このお方」という言葉によって、瞑想されるべき自己は、心と同一視される性質を持つものとして、到達すべき対象として言及されている。Abhisambhavitasmiは「私は達成する」という意味で、肉体化された存在、瞑想者を達成の主体として指している。より合理的な立場が可能な場合、同じ実在を主体とも対象(the object)とも呼ぶのは適切ではない。同様に、瞑想される対象と瞑想する主体との関係は、差異に基づいている。この理由からも、肉体化された存在は、「心と同一視される」といったような性質を持つものではない。

最後に

今回の第一篇第二章四節にて引用されているウパニシャッドを以下にてご参考ください。

ここから去った後は、私はこのもの(ブラーフマン)に達する。

(Ch.III.xiv.4)

今回の四節を要約すると

前回の格言に引き続いて、なぜ、ブラーフマンと個我とが異なるのは、ブラーフマンに到達しようとしている者と到達される存在について『チャーンドギァ・ウパニシャッド』に解説されているからだ。

としていて、五節の格言の解説に続きます。

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