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哲学的探究のデッドライン 『アウグスティヌス <私>のはじまり』by 富松 保文 レビュー
Reviewed in Japan on August 8, 2004 Amazon(一部改変)
筆者は、それがいつかはわからないが、物心ついたときに見た鏡の中の「自分の顔」へのこだわりを、無意識の中で哲学的な問いかけとして熟成してきた。ふとした機会に、何とはなしに違和感を覚える鏡の中の顔が、「本当に自分の顔なのか?」という他者性(根源的〈私〉性)への問いとなって本書を生んだ。
本書において、筆者は、鏡の中の「自分」の顔に対する日常的な感覚を、「毎朝、毎夕、鏡を前にして、おでこにニキビができたとか、もっと目がぱっちりしていたらとか、そこに映し出された顔にさまざまな思いを抱くことはあっても、それが自分の顔であることに疑いを抱くことはまずない」と例示し、しかしそこからいつしか自明性が失われ、「自明どころか(略)、とても奇妙なこと」、まさに「無気味さ」(フロイトが参照されている)へと変貌してしまうことを述べる。ただ、このフロイトの「無気味さ」へのリンケージは不可欠ではなかった(必ずしも必要ではなかった)と思われる。これは問題系の整合性の問題であり、読者の各自が判断すべきだろう。
もう随分昔(19才頃)のことだが、筆者が「もっと目が大きかったらな」と鏡を見ながら独り呟くのを目の前で聞いたことがある。そのとき彼は、完全に「自分だけの空間」にいた。多分筆者には、自分の顔に対する物心ついた頃からの違和感、受容しきれない自分自身の他者性の感覚があり、その感覚をずっと持ち続けて私という謎(哲学の問い)へと熟成していったのだろう。このように、本書では、鏡の中の顔と、物自体のように到達不可能な自分の顔との間の解消できない隔たりが、恐らくはその隔たりそれ自体として、アウグステイヌスの〈神の顔〉への問いかけへと架橋される。本書の末尾では、アウグスティヌスの『告白』における神への愛の賛歌は、自分の顔と鏡の中の顔との隔たりにおいて垣間見られる他者(性)を介して、他者との間で生成する愛するということへの問いへと展開していく。
だが、ここで、哲学の言葉は、ついに語りえない欲望の他者性というラカン的な(但しここでラカンを持ち出すことは必ずしも必要ではない)問題系に辿り着く。すなわち、自己分析の根源的な不可能性。その意味で、ウィトゲンシュタインの営みにも似て、ここには哲学的探究のデッドライン(行き止まり線=袋小路)が記されている。そこから《現実界》という「絶対の外部」(とされるもの)――あるいは〈享楽〉(のさらにその先)――へと(記述レベルで)飛び越えても、筆者の問いに答えることにはならないだろう。
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