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”ファスト教養”と、無知の知?


以前、書店で見かけたときから気になっていた『ファスト教養 10分で答えが欲しい人たち』という本を読みました。

サブタイトルは、「10分で答えが欲しい人たち」。

…なんだか、思い当たる節があります。

というのも近頃の私が、「気になるけど、買って読むのもなぁ〜」という本(ビジネス本・翻訳本など)は、その内容を紹介をしているYouTube動画を聴いて済ませることが多くなっているからです。

(正確かどうかはさておき)動画では本の要点が上手に紹介されており、読んだ気分になれるんです。まさに、"コスパがいい"ですよね。

「ファスト教養」とは?

そもそも「ファスト教養」の定義については、次のように紹介されています。

「楽しいから」「気分転換できるから」ではなく「ビジネスに役立てられるから(つまり、お金儲けに役立つから)」という動機でいろいろな文化に触れる。その際自分自身がそれを好きかどうかは大事ではないし、だからこそ何かに深く没入するよりは大雑把に「全体」を知ればよい。そうやって手広い知識を持ってビジネスシーンをうまく渡り歩く人こそ、「現代における教養あるビジネスパーソン」である。着実に勢力を広げつつあるそんな考え方を、筆者は「ファスト教養」という言葉で定義する。

同書p21

確かに数年前から、書店に行くと「教養としての〇〇」や「1日1ページ、読むだけで身につく〇〇の教養」といった書籍をよく目にします。

なおこの本の著者は、日本のポップカルチャーを主に扱ったライターさんだそうです。失礼ながら名前に聞き覚えがなく、期待半分で読み始めました。

ところが実際に読んでみると、そのような近年の「教養ブーム」について、かなりしっかりとした分析・考察が展開されていたのです。

そこで以下、私が特に印象的だった箇所とそれについての感想をいくつかご紹介します。

本記事は、「この本の要点は〇〇だ!」といったものではありません。それこそ、ファスト教養の片棒を担いでしまいかねませんから。笑

内容紹介と感想

①ファスト教養は「教養」か?

まず著者は、ファスト教養を支える社会的・時代的背景を分析することで、それが一部の人たちに限られたものではないと指摘します。

キーワードは「自己責任」「スキルアップ」、そして「公共との乖離」。小泉内閣の構造改革路線に合わせてとくに叫ばれ始めた「自己責任」という概念とリンクするタイミングで、自らの力で旧来の社会システムを変えようとする新たなプレーヤーたちが注目を集めるようになった。彼らの動きはやがて公に対する意識からは切り離された個々人のスキルアップの文脈に回収され、最終的にはそういった流れの中での差別化ツールとして教養が祭り上げられる。  ファスト教養とは、「ネット上で目立つ一部の文化」ではない。社会全体の大きな風潮とつながっているのである。

p64

たしかに、最近の"教養"を売りにした書籍やYouTubeなどからは、「競争社会で脱落したくない人は教養を学びましょう!」という、半ば強制的な雰囲気を感じます。

そこには、"教養"という言葉が本来持つはずの"豊かさ"は感じられません。

②学習は「塗り絵」?

本来「学び」というものは「知れば知るほどわからないことが増える」という状態になるのが常であるにもかかわらず、ファスト教養を取り巻く場所においてはどうしてもそういった空気を感じづらい。『勉強が死ぬほど面白くなる独学の教科書』における中田敦彦と YouTubeチャンネル「予備校のノリで学ぶ『大学の数学・物理』(ヨビノリ)」を運営するヨビノリたくみとの対談における中田の反応が象徴的である。中田:今、わからないことは全体の何パーセントくらいあるんですか? たくみ:感覚的にいうと、わかっていることが 0・ 001パーセントぐらいだと思います。 中田:え?  少ない……。もっとわかっているような印象を持っていました。  知識を得ることで全能感を持ち、他者に対して優越感を覚えながらサバイブに対する自信を深める学びのあり方は、どうにも幼稚に感じられる。

p98

「知識を得ることで全能感を持ち、他者に対して優越感を覚えながらサバイブに対する自信を深める学びのあり方」は、例えれば学習を"塗り絵"のように捉えているといえます。「あとこの箇所を塗る=学習すれば、この範囲は完成=教養レベルは習得だ」といった具合です。

このような学び方を以下、「塗り絵学習」と呼びたいと思います。

まず私は、塗り絵学習に対して著者のように「幼稚」とまで切り捨てる必要はないと思います。学習することそれ自体、何らかの意味はあるはずです。

ただし塗り絵学習は、客観的なゴール(受験勉強や資格試験など)がある場合にふさわしい学習法です。

一方、本当の意味で「教養」に繋がるような学びとは、"幸福" や"人生を豊かに"といった、主観的なゴールしか持たないはずです。

後者のイメージをするにあたって、大学生の頃に聞いた話を紹介します。
(もう何年も前の話なので、多少のデフォルメはあるかもしれませんがご容赦ください。)

ある教授が、人の学びについて、このような例え話をしてくれました。

知識とは円形のようなものだ。
そして円周は「知らないことだと把握していること」である。
また円の外部は「知らないことだと認識すらできていないこと」であり、その総体=自然は、有限な存在である人間にとって無限だ。
従って、人は知れば知るほどに、知らないことが増えていく。

大学受験という「塗り絵学習」しか知らなかった当時の私にとって、衝撃的な考え方でした。「無知の知」(使い方あってるかな?)を痛感した瞬間でした。

少し長くなってしまったので本文に戻ります。
要するに中田敦彦さんは客観的なゴールを持って学んでいる人、ヨビノリたくみさんは純粋無垢な学びをする人、ということになります。

※繰り返しますが、私は著者のように前者(中田敦彦さん)を否定的にとらえてはいません。それが彼の生業であり、視聴者もそれを求めているということ、それ以上でも以下でもないと思います。

③ファスト教養+結婚=家父長制?


麦がまとうことになったファスト教養の考え方と古いジェンダー観の相性の良さである。麦の発言から垣間見える「金を稼いでいる人こそえらい」というような考え方は、その対極にいる「金を稼いでいない人」を見下すスタンスにつながる。ここまで DaiGoやひろゆきの言動から示してきたとおり、ファスト教養の世界には弱者の社会性を認める、底上げするといった発想は存在しない。そこに結婚という制度がむすびつくと、「自分が稼いでやるから女子どもはそれに従え」という家父長制の家族のあり方、配偶者の自由を尊重しない関係性につながっていく可能性があることをこの映画は示唆している。

p124、「麦」とは二〇二一年に公開された映画『花束みたいな恋をした』の主人公のこと

ここでは、ファスト教養と古いジェンダー観の親和性について分析されています。

古いジェンダー観は一般に、戦前からの家父長制と、戦後の賃労働の広がりに伴う性別分業とが合わさって成立したと考えられています。そしてそのようなジェンダー観は、2000年頃から女性の社会進出・共働き化が進むなかで、"後退"してきました。

ここで"消滅"ではなく"後退"としたのは、家父長制の意識そのものは往々にして残存しているからです。同程度の稼ぎの共働き世帯であっても、家事は女性がしている家庭はいまだに少なくありません。

そうした残存する古いジェンダー観と、今回のテーマであるファスト教養と関連性が高いという点は、とても面白い切り口だと感じました。

ただし後段の「ファスト教養+結婚制度=家父長制」という論理展開については、専門書ではないので仕方ありませんが、少し雑だなとも感じました。

というのも、著者による各種用語の定義が曖昧であることに加え、それぞれの時系列もごっちゃになっているからです。(ファスト教養以前から、古いジェンダー観は存在していました。)

もちろん、ここで私がより精緻な分析を行うことはとてもできませんが、一応の私感だけは述べておきたいと思います。

古いジェンダー観が崩れてきた現代において、ファスト教養が浸透した結果、「稼ぐ人が偉い」という判断基準が採用され、共働き世帯では収入の多い者が、片働き世帯では稼いでくるものが優位に立ちやすくなった。ただしそれは、古いジェンダー観がその家庭にどれほど残っているかも影響する。

といったところでしょうか。

③著者の力量

本章の冒頭で紹介した千葉雅也『勉強の哲学』の「何のために勉強をするのか?  何のために、自己破壊としての勉強などという恐ろしげなことをするのか?  それは、『自由になる』ためです。どういう自由か?  これまでの『ノリ』から自由になるのです」という一節を思い出したい。川喜田が KJ法を通じて提唱する思考プロセス、自らが理解できないものを起点として新たな視座に迫るための手法は、千葉の言う「これまでの『ノリ』から自由になる」こととの親和性が高い。

p166

何もかもを自分でコントロールできるという思い上がりに他ならない。成功も失敗も偶然に左右されるし、そもそも努力できる性向を持っているかということ自体も偶然に左右される。そんなふうに思うことで、失敗した人や成果が出ていない人に対する目線も変わってくるはずである。  マイケル・サンデルは『実力も運のうち』の結びにおいて、「自分の運命が偶然の産物である」と理解することから生まれる謙虚さが「われわれを分断する冷酷な成功の倫理から引き返すきっかけとなる」と述べている。「圧倒的な努力」や「強い意志」とは違うところで動いている「偶然」に心を開く。これこそ、ファスト教養と決別するために求められる視点である。
(中略)
東京工業大学で「利他プロジェクト」に関わっていた、政治学者の中島岳志はこのように記す。  ここで言えるのは、「利他は偶然への認識によって生まれる」ということです。私の存在の偶然性を見つめることで、私たちは「その人であった可能性」へと開かれます。そして、そのことこそが、過剰な「自己責任論」を鎮め、社会的再配分に積極的な姿勢を生み出します。ここに「利他」が共有される土台が築かれます。

p172

1つ目の引用では、『勉強の哲学』で著名な千葉雅也さんと、KJ法で有名な川喜田二郎さんの説から、学習すること=従来の視座から自由になること、と導出しています。

また2つ目の引用では、『これからの「正義」の話をしよう』で有名なマイケル・サンデルさんと、政治学者の中島岳志さんの説から、偶然性の理解が利他へと繋がることを指摘しています。

これら引用は、「生存競争を勝ち抜くためのファスト教養」という価値観を見直すきっかけになる指摘です。と同時に、さまざまなジャンルの論考を繋げて理解する、著者の力量が表れている箇所だとも思いました。

④雑談の効用

こういった思考プロセスをカジュアルな形で自分のものとするためにヒントになるのが、雑談を基調としたコンテンツである。一つの大きなテーマをベースに思い付くままに会話を広げていき、思わぬ場所に着地する。こういった雑談のあり方は、「結論を最初に述べよ」といったビジネスシーンの常識とは相容れないものである。

p169

最後に著者がファスト教養への対抗として挙げたのが、"雑談"の効用です。

たしかに、これまでの私の経験においても、取り留めもない雑談をしている中で新しい考えに辿り着くことは、かなり多かった気がします。

仕事・プライベートともに軽視されがちな雑談ですが、改めてその価値を見直す必要があるかもしれませんね。


本書は全てにおいて十分な考察がなされているとは言えないものの、昨今の教養ブームを社会構造的側面から把握し、その対抗策を構想するといった野心的な作品だと思います。

本書を通じ、いつのまにか"コスパを追い求め"たことによって、様々な"学ぶ機会"を失っていたかもしれないと反省しました。

もちろん各ジャンルの入門書の普及など、教養ブームによって得られたメリットは享受しつつ、真に実りのある学習を意識していきたいですね。

(B,250106re)