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ファスト教養と、知らないことだと知らないこと。

先日、本屋さんで見かけた際に気になっていた『ファスト教養 10分で答えが欲しい人たち』(レジー、2022、集英社新書)を読みました。

「10分で答えが欲しい人たち」…。なんだか思い当たる節があります。気になるけど、買って読むのもなぁ〜という本(話題書や、特有の冗長さが苦手な翻訳本など)は、YouTube動画を流し聴きして、つい読んだ気になることが最近は増えました。なんたって、"コスパがいい"ですよね。

この本の著者は、日本のポップカルチャーを主に扱ったライターさんだそうです。失礼ながら名前に聞き覚えがなく、期待半分で読み始めました。
ところが読んでみると、近年の教養ブームについて、かなりしっかりとした分析・考察が展開されていました。

そもそもファスト教養とは、本書で次のように定義されています。

「楽しいから」「気分転換できるから」ではなく「ビジネスに役立てられるから(つまり、お金儲けに役立つから)」という動機でいろいろな文化に触れる。その際自分自身がそれを好きかどうかは大事ではないし、だからこそ何かに深く没入するよりは大雑把に「全体」を知ればよい。そうやって手広い知識を持ってビジネスシーンをうまく渡り歩く人こそ、「現代における教養あるビジネスパーソン」である。着実に勢力を広げつつあるそんな考え方を、筆者は「ファスト教養」という言葉で定義する。

p21

数年前から、本屋さんに行くと「教養としての〇〇」や「1日1ページ、読むだけで身につく〇〇の教養」といった書籍をよく目にします。かくいう私自身も、「教養を身につけたい!」との思いから、池上彰さんの著書を読み漁った時期があります。
そのような近年の教養ブームについて、この本では批判的な考察が繰り広げられています。

ただし注意したいのは、このnoteで、この本の要点は〇〇だ!なんて書いてしまうと、それこそファスト教養の片棒を担いでしまいかねません。笑
ここからは、特に印象的だった箇所とそれについての感想をいくつかご紹介します。


キーワードは「自己責任」「スキルアップ」、そして「公共との乖離」。小泉内閣の構造改革路線に合わせてとくに叫ばれ始めた「自己責任」という概念とリンクするタイミングで、自らの力で旧来の社会システムを変えようとする新たなプレーヤーたちが注目を集めるようになった。彼らの動きはやがて公に対する意識からは切り離された個々人のスキルアップの文脈に回収され、最終的にはそういった流れの中での差別化ツールとして教養が祭り上げられる。  ファスト教養とは、「ネット上で目立つ一部の文化」ではない。社会全体の大きな風潮とつながっているのである。

p64

著者は、ファスト教養を支える社会的・時代的背景を分析することで、それが一部の人たちに限られたものではないと指摘します。

そこで挙げられたキーワードは、「自己責任」や「スキルアップ」など。たしかに、最近の"教養"を売りにした書籍やYouTubeなどからは、「競争社会で脱落したくない人は教養を学びましょう!」という、半ば強制的な雰囲気を感じます。そこには、"教養"という言葉が本来持つはずの"豊かさ"は感じられません。


本来「学び」というものは「知れば知るほどわからないことが増える」という状態になるのが常であるにもかかわらず、ファスト教養を取り巻く場所においてはどうしてもそういった空気を感じづらい。『勉強が死ぬほど面白くなる独学の教科書』における中田敦彦と YouTubeチャンネル「予備校のノリで学ぶ『大学の数学・物理』(ヨビノリ)」を運営するヨビノリたくみとの対談における中田の反応が象徴的である。中田:今、わからないことは全体の何パーセントくらいあるんですか?たくみ:感覚的にいうと、わかっていることが 0・ 001パーセントぐらいだと思います。中田:え?  少ない……。もっとわかっているような印象を持っていました。  知識を得ることで全能感を持ち、他者に対して優越感を覚えながらサバイブに対する自信を深める学びのあり方は、どうにも幼稚に感じられる。

p98

「知識を得ることで全能感を持ち、他者に対して優越感を覚えながらサバイブに対する自信を深める学びのあり方」は、学習を"塗り絵"のように捉えているのでしょう。「あとこの箇所を塗れば(学習すれば)、この範囲は完成だ(教養レベルは習得だ)」といった具合です。
このような学び方を、以下、「塗り絵学習」と呼びたいと思います。

私は塗り絵学習を、著者のように「幼稚」とまで切り捨てる必要はないと思います。学習することそれ自体に、何らかの意味はあるはずです。
ただし塗り絵学習は、たとえば受験勉強や資格試験など、具体的で客観的なゴールがある場合に限られる学習法なのだと思います。(英単語はいくつ覚えた、過去問はいくつやったなど。)

一方で、「教養」に繋がる学習には、そのような明確なゴールは本来ないはずです。あったとしても、それは"幸福" や"人生を豊かに"といった、抽象的で主観的なものになるのではないでしょうか。

ここで、大学生の頃に講義で聞いた話を紹介します。(もう何年も前の話なので、多少のデフォルメはあるかもしれませんがご容赦ください。)

ある先生が、人の学びについて、このような例え話をされていました。「知識を円形だと仮定すれば、円周は"知らないことだと把握していること"だ。従って、知を広げるほどに、知らないことも増えていく」。
そして「円形の外部は"知らないことだと認識すらできていないこと"であり、その総体がもし有限なのであれば、知の拡大とともにそれは減っていく。しかし、有限な存在である人間にとって、知る対象である自然は無限だ。従って、知れば知るほどに、知らないことは増えていく」。

大学受験という塗り絵学習しか知らなかった、この例え話で言えば、円形の外部を有限だと捉えていた当時の私にとって、目から鱗な考え方でした。
なお、「有限な存在である人間にとって、知る対象である自然は無限だ」という前提がしっくりこない方もいるかもしれませんが、昔には想像もできなかった様々な技術が登場してきたことを考えれば、納得がいくのではないでしょうか。例えば、最近話題のバイオものづくり(遺伝子技術を用いて、微生物などから様々な生産を行う取り組み)もその一つですよね。

思い出話しが長くなりましたが、中田敦彦さんは明確なゴール(この文脈ではお金儲け)を持っている人、ヨビノリたくみさんは純粋無垢な学びをする人を、まさに表しているのだと思います。


麦(※筆者注、二〇二一年に公開された映画『花束みたいな恋をした』の主人公)がまとうことになったファスト教養の考え方と古いジェンダー観の相性の良さである。麦の発言から垣間見える「金を稼いでいる人こそえらい」というような考え方は、その対極にいる「金を稼いでいない人」を見下すスタンスにつながる。ここまで DaiGoやひろゆきの言動から示してきたとおり、ファスト教養の世界には弱者の社会性を認める、底上げするといった発想は存在しない。そこに結婚という制度がむすびつくと、「自分が稼いでやるから女子どもはそれに従え」という家父長制の家族のあり方、配偶者の自由を尊重しない関係性につながっていく可能性があることをこの映画は示唆している。 

p124

ここでは、ファスト教養と古いジェンダー観の親和性について指摘されています。しかし、特に後段の「ファスト教養+結婚制度=家父長制」という論理展開については、少し整理が甘いのではないかと感じました。

まず、ファスト教養は2000年代から広まった価値観です。一方で、古いジェンダー観を「家父長制の家族のあり方、配偶者の自由を尊重しない関係性」だとすれば、それは随分昔から存在したはずです。つまり、ファスト教養以前から、古いジェンダー観は存在していたことになります。

そのような古いジェンダー観は、一般的に、戦前からの家父長制(「家長が偉い」)と、戦後の賃労働の広がりに伴う性別分業(「男は仕事、女は家庭」)とが合わさって成立したと考えられています。もちろん、男性が賃労働に専念できたのは、女性の家事労働があったからなのですが…。
そして、このようなジェンダー観は、2000年以降に女性の社会進出が推し進められ、従って共働き化が進む(要するに性別分業が成り立たなくなる)なかで、むしろ"後退"してきたはずです。(ここで"後退"としたのは、家父長制の意識そのものは、家庭によって残存しているからです。同程度の共働き世帯であっても、家事は女性がしている家庭も多いはずです。いわゆる"二重負担"です。)

従って、現代の状況は「ファスト教養+結婚制度=家父長制」という単純図式では捉えきれず、より詳細な分析が必要だろうと思います。

ここで私が精緻な分析を行うことはとてもできませんが、私感だけ述べておきたいと思います。
古いジェンダー観が崩れてきた現代において、ファスト教養が浸透した結果、「稼ぐ人が偉い」という判断基準が採用され、共働き世帯では収入の多い者が、片働き世帯では稼いでくるものが優位に立ちやすくなった。ただし、古いジェンダー観がその家庭にどれほど残っているかも影響する。
といったところでしょうか。


本章の冒頭で紹介した千葉雅也『勉強の哲学』の「何のために勉強をするのか?  何のために、自己破壊としての勉強などという恐ろしげなことをするのか?  それは、『自由になる』ためです。どういう自由か?  これまでの『ノリ』から自由になるのです」という一節を思い出したい。川喜田が KJ法を通じて提唱する思考プロセス、自らが理解できないものを起点として新たな視座に迫るための手法は、千葉の言う「これまでの『ノリ』から自由になる」こととの親和性が高い。

p166

何もかもを自分でコントロールできるという思い上がりに他ならない。成功も失敗も偶然に左右されるし、そもそも努力できる性向を持っているかということ自体も偶然に左右される。そんなふうに思うことで、失敗した人や成果が出ていない人に対する目線も変わってくるはずである。  マイケル・サンデルは『実力も運のうち』の結びにおいて、「自分の運命が偶然の産物である」と理解することから生まれる謙虚さが「われわれを分断する冷酷な成功の倫理から引き返すきっかけとなる」と述べている。「圧倒的な努力」や「強い意志」とは違うところで動いている「偶然」に心を開く。これこそ、ファスト教養と決別するために求められる視点である。
(中略)
東京工業大学で「利他プロジェクト」に関わっていた、政治学者の中島岳志はこのように記す。  ここで言えるのは、「利他は偶然への認識によって生まれる」ということです。私の存在の偶然性を見つめることで、私たちは「その人であった可能性」へと開かれます。そして、そのことこそが、過剰な「自己責任論」を鎮め、社会的再配分に積極的な姿勢を生み出します。ここに「利他」が共有される土台が築かれます。

p172

1つ目の引用では、『勉強の哲学』で著名な千葉雅也さんと、KJ法で有名な川喜田二郎さんの説から、学習すること=従来の視座から自由になること、と導出しています。

また2つ目の引用では、『これからの「正義」の話をしよう』で有名なマイケル・サンデルさんと、政治学者の中島岳志さんの説から、偶然性の理解が利他へと繋がることを指摘しています。

これらは共に、「生存競争を勝ち抜くためのファスト教養」という価値観を見直すきっかけになる指摘です。と同時にらさまざまなジャンルの論考を繋げて理解する、著者の力量が表れている箇所だと思いました。


こういった思考プロセスをカジュアルな形で自分のものとするためにヒントになるのが、雑談を基調としたコンテンツである。一つの大きなテーマをベースに思い付くままに会話を広げていき、思わぬ場所に着地する。こういった雑談のあり方は、「結論を最初に述べよ」といったビジネスシーンの常識とは相容れないものである。

p169

最後に、著者がファスト教養への対抗として挙げた"雑談"の効用についての引用です。

たしかに、これまでの私の経験上でも、取り留めもない雑談をしている中で新しい考えに辿り着くことは、かなり多かった気がします。軽視されがちな雑談ですが、改めてその価値を見直す必要があるかもしれません。(大学の先生でゼミを好む方は、実はこうした効果を狙っているのかもしれませんね。)


以上、いくつかの引用とともに感想を述べてきました。

本書は全てにおいて十分な考察がなされているとは言えないものの、昨今の教養ブームを社会構造的側面から把握し、その対抗策を構想するといった野心的な作品だと思います。

本書を通じ、いつのまにか"コスパを追い求め"たことによって、様々な"学ぶ機会"を失っていたかもしれないと反省しました。もちろん各ジャンルの入門書の普及など、教養ブームによって得られたメリットは享受しつつ、真に実りのある学習を意識していきたいですね。