主体概念の変遷 「モノ」から「はたらき」へ
言葉には手垢がつく。言葉は繰り返しの使用を経て、本来もっていた古い意味が失われたり、もっていなかった新たな意味が付与されたりする。こうした事態を陳腐化・形骸化とみるかはさておき、言葉の手垢とは一種の歴史性であるといえるだろう。今回読んだのは自我についての本なのだが、自我というのも歴史の手垢にまみれた言葉であるように思う。
酒井潔著『自我の哲学史』(講談社現代新書)を読んだ。本書の主題は「自我とは西洋近世哲学という特殊な背景から生まれた概念である」というものである。裏を返せば、これは疑いえぬ確固たるものとしての自我概念への疑義でもある。
本書は二部構成で書かれている。第Ⅰ部は自我を巡る哲学史の話であり、近世哲学から生まれた自我の概念が哲学の歴史の中でどのように考えられてきたのかを明らかにする。ボリュームとしてはデカルトとカントの話が大きい。
第Ⅱ部では日本における自我概念の受容が分析され、西洋近世哲学の所産である自我概念の相対化が試みられている。ここでは宮沢賢治と夏目漱石の自我観に対する分析が特に目を引く。
1.予備的な確認
本書の議論を参考にしながら、本稿では自我概念の考究に先立つ問題として「主体」という言葉の整理をしてみようと思う。まずはなぜ自我の問題が主体の問題となるのかという話から始めよう。
酒井は通念としての自我概念を以下のように説明する。
自我について考えるとき、まず前提されているのは自己同一性、つまり「私は私に等しい」ということである。同時にそこには自他の区別が含まれる。つまり「私は私でないものと等しくない」ということである。要は同一律と矛盾律だ。
このとき「私の等しさ」は私の記憶に基づいている。それは「一年前の自分と今の自分とが別人ではない」という認識であり、記憶とは私という存在が過去から現在に至るまでの自分の連続性の保証とみなされている。
だが一年前から現在までの自分が連続的であるからといって、たとえば一年前と現在とでは髪型が変わったり、体重が変わったりすることもあるだろう。しかしそうした身体的な変化によって「私が私ではなくなった」とは通常みなさない。
変化とは物理的な面においても、精神的な面においても見出すことのできる概念であるが、それでも「私が私に等しい」ということを認めるのなら、そうした変化の“下”にある存在を何かしら認めなければならない。これが主体ないしは基体と呼ばれる概念である。
なお同一性、連続性、主体性という三つの概念を用いたが、これらは取りも直さず近世哲学における自我概念の根本要素である。そして自我概念のこうした性格は近世以降におけるデカルトの批判者たちにも密やかに(無自覚に?)継承されており、ある意味で西洋哲学の根本的動向を示しているともいえよう。
さて、話が冒頭に戻るが主体というのも手垢のついた言葉である。主体という語を単に客体の対義語と捉えれば、そこに価値判断の入る余地はないように思える。だがたとえば、「主体的な学び」だとか「主体性のある人」などというとき、主体とは肯定的な意味で使われている。逆に「主体性のない人」という場合にはそこに非難の色が窺える。端的にいえば、今日における主体性とは能動性の意である。
こうした手垢を削り落していき、そもそも主体とは如何なる意味をもつのかを整理することは『自我の哲学史』を読むうえでも役に立つだろう。
2.アリストテレスのhypokeimenon
では早速、主体という言葉の由来を調べるところから始めよう。主体という言葉は英語でいえばsubjectであり、これはラテン語のsubjectumに由来する。そしてsubjectumは古典ギリシア語のhypokeimenonに由来する。
hypokeimenonとは字義的には「下に(hypo)置かれたもの(keimenon)」という意味であり、アリストテレスの哲学用語として知られる。少々厄介なのだが、アリストテレスはこの言葉を二義的に用いている。出隆によるとhypokeimenonとは「文法的には常に主語ではあるが他のなにものの述語ともならず、事実的・客観的には常に自らは基体であって他のなにものの属性でもない主体的存在の意である」とされる(『アリストテレス哲学入門』岩波書店、三章六節注4〔135頁〕)。簡単に言えば、hypokeimenonには主語と基体との二義があるということだ。
説明を補足しよう。hypokeimenonとは「下に置かれたもの」の意であると述べたが、何の「下に」あるのかというとsymbebēkosの下である。symbebēkosとは字義的には「共に(sym)来るもの(bebēkos)」という意味であり、属性(付帯性)、偶然性と訳されることが多い。
たとえば「ソクラテスは白い」というとき、「白さ」とはそれ自体として存在するものではなく、あくまで「ソクラテスの白さ」として存在している。これに対して「ソクラテス」は別に白くなくとも存在することができる。ゆえに「白さ」とは「ソクラテス」というそれ自体としてあるもの(実体〔ousia〕)に付随する・共に来るという仕方で存在している。このような「共に来る」存在の仕方をアリストテレスはsymbebēkosという言葉で説明しており、日本語では属性(付帯性)と訳される。
このときhypokeimenonは述語「白い」に対する主語であり、また「白い」という属性を支える下に(基に)あるものという意味で基体である。hypokeimenonにおける主語と基体との二義はこのように理解されよう。
3.デカルトのres cogitans
hypokeimenonの二義は中世において主語の意がsubjectum、基体の意がsubstratumとしてラテン語に訳されていく。他にもsubstantiaやsuppositumなどの訳語があるが、実際のところこれらの用法は流動的であるように思え、使い方の厳密な区別を説明することは私には難しい。確かなことは、これらアリストテレス哲学の所産を用いながらスコラ学派はその存在論(特殊形而上学としての神学)を発展させたということである。
近世に入りこの枠組みを更新したのがデカルトである。それではデカルトは何をどのように更新したというのか。アリストテレスの存在論における第一義的な意味での存在者とはそれ自体としてあるもの(実体〔ousia〕)であり、属性に対する基体であった。このとき、基体とは「ソクラテス」のような具体的に名指せるような個別的存在者のことである。
しかしデカルトの場合、「ソクラテスが存在する」という事態は「ソクラテスが存在するのを“私が認識する”」という事態であり、このとき認識対象としてのソクラテスの存在は疑いうるものである。これに対して“私が認識する”ということ自体は疑いえないものであり、認識主体としての「私」の存在が疑いえぬものとして導出される。
ここで何が起こっているのかというと、第一義的な意味での存在者が客体の側から主体の側に移ったということである。アリストテレス的存在論において、属性とは区別されるようなそれ自体として存在するもの(下に置かれたもの=hypokeimenon)が第一義的な存在者であり、これは人間の認識能力とは関係のないという意味では客観的存在者である。これに対してデカルト的存在論において、客観的存在者とは認識対象として疑われうるものであるが、疑っている認識主体(私、自我)はまさにその疑うこと、思惟するはたらきによって第一義的な存在者として認められる。換言すれば、存在の根拠が個物の自存性から自我の思惟作用に移行したといえよう。
注目すべきは「自我の思惟作用」というときの“作用”についてである。作用とは「はたらき」のことであるが、たとえば「私はXについて考える」というとき、「私」は「はたらきかける」側であり「X」は「はたらきかけられる」側である。これは能動と受動との区別であるが、このとき「私」は主語であり、はたらきの主体である。作用という観点に立つとき、主語・基体の意味に留まっていたhypokeimenonの概念(『省察』では“subjectum”が用いられる)に、作用者としての主体の意味が拡張されていることに注意したい。
デカルトも実体の意でsubstantia(原義的には“下に立つもの”)という語を用いており、部分的にはアリストテレス的存在論の伝統を継承している。しかしこのsubstantiaは作用主体としての意味が強く、その作用の内実とは思惟である。端的に言えば、substatiaとは思惟するもの(res cogitans)である。
4.カントのtranszendentale Apperzeption
デカルト哲学における自我とは「思惟するもの」(res cogitans)としての作用主体であった。そしてこのデカルト的な自我概念を批判的に継承し、自我を作用主体から思惟作用そのものに純化させたのがカントである。
デカルトの自我概念に関して、カントは自我の二重化を問題にしている。自我の二重化とは簡単に言えば「自我像」と「自我」との二重化である。デカルト哲学において自我とは自我の思惟作用によって存在を認められるものであった。だがこのとき、「我あり」と認められた自我とは自我そのものではなく自己意識(イメージとしての自我像)である。換言すれば思惟対象として「はたらきかけられた」自我の観念である。この自我の観念を根拠付けているのが「我思う」の自我、思惟作用の主体、「はたらきかける」自我である。
自我の二重化に関して、カントは経験的心理学的自我と超越論的自我という区別を設けてこの問題を考える。前者はそのつど実際に意識されている自分、たとえば身体の感覚や、心の動き、あるいは過去や未来の自分への思い、そうした意識活動における自我である。そして後者の自我はそれ自体として意識されることはないが、経験的心理学的自我に先立ちこれを制約するものであると考えられている。
超越論的自我について、難しいので説明を補足しよう。超越論的(transzendental)という言葉をひどく簡単に言えば「経験の条件・前提に関わっている」という意味である。ゆえに、超越論的自我というのは日常的な我々の感覚でも、思索でも、そうした経験的で多様な意識のはたらきの前提になっているような自我であり、一切の経験・認識の根拠でもある。
この意識のはたらきの前提としての自我を超越論的統覚(transzendentale Apperzeption)とカントは呼んでいる。これに関しての説明を引用しよう。
経験的統覚とは何かを感じたり、考えたりする私への意識(内感)であり、それらは表象としての多様性をもっている。こうした多なる対象認識をアプリオリに統一するはたらきとして超越論的統覚が考えられているのだが、そのはたらきとは如何なるものか。それはカテゴリー(純粋悟性概念)を介した論理的制約であるといえよう。
たとえば「私は寒くて風邪をひいた」というとき、「私」は原因の概念を意識せずとも用いている。このとき「私は寒くて風邪をひいた」という自己意識(経験的統覚)は、原因というカテゴリーを用いるという仕方で制約を受けている。この意識せずともカテゴリーを媒介としながら経験的統覚を制約しているはたらきが超越論的統覚である。
より根源的な自我の働きとして考えられていた超越論的統覚であるが、それが認識対象をもった作用主体でもなく、無論「誰」と指し示せるような個別的存在者でもないということに注目したい。超越論的統覚とはもはやモノ性から隔絶した論理的機能であり、対象をもった思惟作用を支えてはいるがそれ自体としては無対象的な(透明とでも言うべきか?)思惟作用そのものである。
主体の意味の整理を目標として掲げた本稿であったが、以上のように主体の実在性を喪失する結果となった。もはや手垢を云々できる次元ではない。
考究を振り返ると、主体の由来ともいえるアリストテレスが考えたhypokeimenonは属性に対する基体(述語に対する主語)であり、これは個的に自存する存在者であった。次にデカルトの考えたsubjectumないしはsubstantiaは自存的存在者の意味に思惟するもの(res cogitans)としての作用者の意味が加わっている。そしてカントの超越論的統覚においては存在者や作用者といったときの「者」の部分が捨象され、超越論的な制約としての思惟作用、純粋な思惟の「はたらき」が残った。このように本稿を結論付ける。
――――――――
……やっぱり長いな、これは。もっとお気楽な話がしたかったのに。
本稿の議論で、デカルトとカントに関する話は『自我の哲学史』第Ⅰ部第二章の内容に考察を加えたものである。第Ⅰ部は全体として哲学史の勉強がしたい人にお勧めの内容だ。
本書の第Ⅱ部について本稿では触れられなかった。結論部分を要約すると「自我概念は日本人にとって重荷であるが、もはやそれなしで現代を生きることはできないのでうまく付き合っていくしかない」といった感じである。こちらは「日本の近代化」というテーマに関心のある人にお勧めである。
この記事が参加している募集
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?