統合失調症とウツ病(2大精神疾患)に関する雑記
今日のような現実を生きてますと
メンタルもやられやすいですよね。
私事になっちゃうんですけど
僕は、受験で2浪(宅浪)して
まぁ、「医学部に入れないと、死ぬしかない」みたいな昨日の事件の高校生のようなプレッシャーこそなかったものの、2浪目の19歳のときに、早くも神経科のお世話になるという展開になり
そのおかげで、統合失調症とウツ病には人生の早い時期から関心がありました。
精神疾患って、特殊なものを除けば、社会と個人の齟齬から発生します。
でも、社会との齟齬なんて、まともな(?)健常者にもあるでしょう?
いや、まぁ、そうだと思いますけど
そこで、その齟齬が、日常生活を営むのにかなりの支障をきたしているのが明らかな場合に発症ということに一応なるでしょう。
で、今日は、その統合失調症とウツ病に関する考えがちょっと進展したんで、それを書き留めたいと思います。
このふたつの疾患についてよく知らない人が読んでも、多少は「ふ~ん、そんなもんか」と思える内容にしたいと思ってます。
まず、統合失調症からです。
この病(?)は、出方に関する不器用というか「あべこべ」となって問題が表面化されやすいと考えます。
次の一手がスムーズでなく、将棋をやってるわけでもないのに、次の一手にもごもごして時間がかかり、悩んだ挙句、まわりの人からみれば(おかしな)出方となって次の一手が表現される(顕れる)のです。
疾患者は、まず世界観に混乱があります。
ベイトソンという有名な学者が、これに「ダブルバインド理論」というのを提唱しました。
何か?というと
かいつまんで言うと、
親が幼子に対して、「愛情」と「拒絶」という矛盾する情報を与えてしまうことが一因とベイトソンは考えました。
大人になってみると、親も神ではないことが分かってくるので、このような矛盾や、ある種の気まぐれも理解されるのですが
子供にとっては大問題です。
「愛情」ならば「喜び」と「融合」を
「拒絶」ならば「敵機接近」のアラートを出して迎撃態勢を整えなければなりません。
どちらだか分からない場合は、子供は適切な反応の能力に大なり小なり欠損を生じてしまいます。
つまり、複雑な(コンプレックスな)パーソナリティーになります。
この複雑なパーソナリティーが結果として社会と融和すれば別ですが、あべこべな反応として、まわりと不調和をきたしたときは発症の可能性が高まります。
つまり、患者(疾患者)は、その空間で適切な(?)次の一手がなかなか決まらないのです。
統合失調症はこういったかたちで、その問題が顕在化しやすいと言えましょう。
しかし、大人になってくると、親が子供に、こういう世界観の分裂を引き起こす矛盾するメッセージを送ってしまった事情なりなんなりは見えてくるので、親に対する「神幻想」とでもいうものが崩れた以降をどう生きるのかが、この疾患を抱えた人の基本人生戦略になるのかもしれません。
さて、統合失調症については、今日はこのぐらいにして
次は、ウツ病です。
ウツ病は、これは僕の考えるところでは
単一目標的なコンプッレクス(埋める試み)「世界的ミュージシャンになりたい」とか、がムリゲーと自覚され、しかし、その戦略を何らかの理由で放棄できず、ムリゲーなんだから「あんたは人の10倍頑張りなさい!」というメッセージが自己内部の、フロイドの言う「超自我」のようなものに責め立てられているときに起こる、押しつぶされたような感情失調です。
分かりにくかったかな?
たとえば、「医者になれなければ人生おしまいだ!」と考えてる個人がいたとします。
医者になるという人生戦略が、どうもムリゲーと自覚されたとき、フツーは「逃げたい!」と思うでしょう。
しかし、その一方で「ムリゲーなら、他の人の5倍頑張れ!」というメッセージも聞えてきます。
これは、親とかまわりの人がそう激励するからでは必ずしもありません。
その人が「医者になれない限り人生はおしまいだ」と考えてる限り、親やまわりの人がいくら「頑張るな!」とか他の選択肢をすすめてくれても、本人の同意が得られなければどうしようもありません。
つまり、ウツ(病)というのは、自分の卑小さ(目標を達成できない卑小な)に捉われてる時間が多すぎて、しかもそこからテキトーに逃げられないときに発症するのかもしれません。
また、ウツ病になりやすい人は、総じて「楽しみ」を自分に許しません。
「医者になるという大目標に遠いところにいるのだから、楽しむなどもっての他」と「楽しみ」を禁じてしまいます。
「医者になる」という大目標が未達成なのですから、「楽しんだり」することは罪のように感じられます。
これも、まわりの人がどうにかするのが難しい案件です。
むしろ、どうにかしようとするとこじれるかもしれませんし
放っておいて、突然、警察沙汰を引き起こしたとなると厄介です。
「逃げる」という方策の利点も強調されますが
「電通」みたいなところに勤めてれば、そこから逃げて、次の職場が「コンビニでもいいよ」っていうわけには中々いかないでしょうし
「医者」という大目標も、中々代わりのものが見つかりにくいかもしれません。
結婚して、子供ができると失踪する男性もたまにいますが、逃げられた女性のほうより、逃げた男性の人生の方がよりこじれてしまうことも考えられるので
辛ければ逃げろ!が正解かどうかは、ケースバイケースなのかもしれません。
「受験」にしろ「仕事」にしろ「夢」にせよ「恋愛」にせよ
少なくとも一度は挫折をしてからが人生の勝負なのかもしれませんが
メディアを見ると、野球の大谷選手や将棋の藤井棋士を始め、まったく挫折を経験していない(ように見える)スーパーマンのようなイメージの人も増える一方です(イメージでしかないのかもしれませんが)
一方、ネットでもインスタを始め、まったく挫折をしてない(なさそうな)イメージの人ばかりがいるように見えます。
かといって、挫折経験をウリにすると、お涙ちょうだいムードが漂ってしまいスマートではありません。
はなしがそれましたが
「受験」にせよ「恋愛」にせよ「仕事」や「夢」にせよ
その大目標がムリゲー気味になって、しかもそれを相対視(逃げたり下方修正することで)できず、自己の卑小さが痛感されて、前に進めなくなっている……
ウツ病というのはこんなイメージかもしれません。
なんとなくでも「ふ~ん」と思っていただければさいわいです。
こういったジレンマは疾患者でなくとも、大なり小なりフツーの人にも散見されるのかもしれません。
ただ、発症には至らないというだけなのかもしれません。
以上、統合失調症とウツ病に関する雑記でした。
もし、これを読まれた方の、それまでの知見に何か新しいものがひとつでも加わりましたなら「スキ」を押していただけると嬉しいです。
御一読どうもでした。
(あとがき)
やっぱり、昨日の東大の試験会場で起こったニュースに軽いショックを受け、何故か翌日の今日、2大精神疾患について思いをめぐらせていました。
その高校生が精神疾患だというのではありません。
ある葛藤に対して「人を刺す」「殺す」という解決策がとれるなら、精神疾患ではどちらかといえばないと個人的に考えます(絶対ではありませんが)
しかし、犯罪者という形をとるにせよ、精神疾患と言う形をとるにせよ、共通しているのは社会と個人の齟齬によるジレンマのなのかもしれません。
といってこの文で、社会を直接糾弾しようというわけでもありません。
何がいいたいのかわからくなりそうなので、この辺で締めます。
それがきっかけで、こんなことを書いたというわけです。
(製作データー)
書き始め:2022年1月16日午前10時14分