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日日自炊自足【1月16日の夕食 と 一長一短】
夫なし。子は独立。
自炊の習慣で自分の必要をみたす、50代ひとり暮らし。アレルギー対策に 油をやめ(家にある油はラー油のみ)、お肉、乳製品、卵、小麦粉、お米や砂糖をなるべく減らした(い)食生活。
「家族のためのご飯」を卒業した献立の記録 と 自分を観察する日記。
残りの
・お弁当の残りのスープに がんもどき を足したもの
・さつまいも の甘煮(味付:塩 砂糖 酒 みりん)
and
・生牡蠣(味付:ポン酢 醤油)
・稲荷寿司(テイクアウト)
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最近始めたこと・・
「なにを」ということはさておくとして
それは長らく苦手と認識して避けてきたことゆえ、全く進んでいないのだけど、そのわりに続いている・・というには細いどころか点線みたいに途切れ途切れの状態ではあるし
すすみゃーもどり、もどってはもどり
まーーーぜんぜん前進が見られない上に
この先ぱったりやめてしまう可能性も大いにあるのだけど
最近、目的とは全く別の効果があったことに気が付いた。
夫はなく、子は独立。
己の世話だけでは持て余す、夕食から眠るまでの数時間。
また、予定なくダラダラと過ごす休日。
わたしにとって誰とも会わずどこへも行かない「暇」はぜっっっったいに必要な時間である反面
行き過ぎるとぐるぐると不安がまとわりついたり、もやもやと嫌な記憶を巡らせてしまう不快な時間にもなる。
「だから」
と明確な前提があったわけではないけれど、何かひとりでできる趣味を・・ということは長らく考えており
文字や絵をかいてみたり、毛糸を買ってみたり、コロナのころにはウクレレを買ってみたりした。
そういう道具が押し入れに増えても、どれもしっくりどころかまず続かず、それがまた不安やもやもやの材料になって、自分を責めてしまう時間がつらい。
しかし昨年から始めた「なにか」
苦手だと認識していたまさかの「なにか」により、気付けばぐるぐると不安がまとわりついたり、もやもやと嫌な記憶を巡らせてしまう時間が大いに減った・・気がしているのである。
わーいっわいっ!
昨日書いた
2025年 ibitsu のテーマは 「健やか」は
そういう経緯により浮かび上がったのでは、と推測する。
何せ、高HSP気質だった数年前のわたしなら・・主に精神面での健やかなど宝くじの一等が当たるくらい、今世では縁のないことだと思っていたのです。
思い返せば紆余曲折、己で己の実験を重ねながら
はーーーーーーー、ここまできたか!
と唸る。
不安が少ない。
もやもやと嫌な記憶が巡らない。
それがなければ自分を責めることもない。
なんと楽なのだろう。
でもこれはある日突然「あれ、今日なんか楽!!」となったわけではない。
ではどうやってそのことに気づけたかというと・・
近頃このnoteに何を書くか・・に悩む日が増えたのである。
わたしは止まらぬ思考を「書く」ということでいろいろな角度から眺め、整理整頓や掃除をしてきた。
「明日はこれを書こう」と思うことが常に複数ある状態で、どちらを選ぶかで困るくらいだった。
それが近頃「何を書こう」で長らく止まってしまう。
思考の部屋に、言葉が見つからないのである。
SNSの発信は「常に愚痴を書く人」「誰かを攻撃してばかりいる人」「嬉しかったことを書く人」「仕事の事だけを書く人」
というように、傾向があるように思う。
それはそれぞれの思考の部屋の偏りでもある。
(もちろん無理にポジティブを演出する人もいるので、絶対ではないけれど・・それもまた見せかけの偏りであると思う)
わたしはネガティブと思われる事柄について、より思考が動く・・動きやすいという癖があり、主にそんなことを軸にいろいろなことを書いてきた。
だから今、楽な反面
変わってきた思考の癖に少し戸惑いを感じている。
でもこれも慣れ。
今のわたしで何を書くことができるのか、実験してみよう。
そして今日もわたしは
「あーーーーやりたくないー。やるかなーやらないかなー。」と思いながら「あれ」をやる(やらない)、かもしれない。