『オールド・クロック・カフェ』6杯め「はじまりの時計」(5)
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* * * Lost Memory * * *
「ほんで、期末テストはどないやったん?」
南座の二階席でうつむきながら玉子サンドをもぞもぞとかじっている桂子に母が訊く。
幕間で観客席はざわついていた。席を立つ人、弁当を広げる人、雑多な音がせわしなく不協和音を立てる。隣席の母の声がそれに混じる。
あのころ桂子は何を食べても味がせず、うまく咀嚼できずにいた。顔をあげて母の横顔を見る。六年生から急に伸びはじめた背は母に追いつき、座ると同じ高さによく似た顔が並んだ。
(今なら言えるかもしれない)
向かいあうと言えないことも、顔を合わせず前を向いてなら言えるかも。桂子は唾を呑みこむ。
「お母さん……あのね」
隣の年配の女性客たちが演技がどうのこうのとうるさい。桂子の声がよく聞こえず、万季は文句を言ってやろうと右隣を向きかけて視線が一点に吸いつき止まった。
南座の二階最前列は二十八席だけの特別席だ。二階席は一階に張り出すようになっていて真正面から舞台を見下ろすため人気が高い。チケットを取るのも至難といわれる特等席の、それも舞台真正面の席から男性が立ちあがり後ろを振り向いた。アイボリーのタートルネックに黒いジャケットをはおっている。その顔に万季の視線が貼りついた。
「学校に……」
桂子は次の言葉がでない。ひと言発しただけなのに喉がひりひりと乾く。声帯の震わせ方がわからない。チューニングの合っていないギターみたいに掠れる。
「……行きたく……」
上唇で下唇を巻きこむ。紅茶のペットボトルは強く握られへこむ。
「行きたく……な、い」
無理にしぼり出した声は音量調整がうまくいかず、最後の二文字だけ甲高く響いた。もがく心の弦が誤ってはじけたようだった。
「なんで?」
万季は隣の年配客にあいそ笑いをしながら口だけで尋ねる。
「クラスの、女子から……無視されてる」
桂子はうつむいたままペットボトルに向かって、またミュートしかけの声で答える。
「いじめ?」
万季はようやく桂子のほうを向く。
入学式のクラス発表で茫然とした。六年生のときの同じクラスの女子がひとりもいなかったのだ。人見知りがちな桂子は、すでにいくつもできあがっている友だちの輪におじけづいた。それを察したのかどうか。母は「友だちは選ばなあかんよ。なるべく勉強のできる子とつきあいなさい」とクラス表を眺めながら告げた。
そのころの桂子にとって母の言葉は指針だった。
だから隣の席の安田さんではなく、授業でよく発言する川本さんに勇気をふるって話しかけにいった。桂子は廊下から二列目の一番後ろ、川本さんは窓際の前から二席目。対角線ぐらい離れていた。それがどんなに不自然な行為にみえるか。友だちはそんなふうにして作るものではない。その嘘くささを少女らは嗅ぎ分けていた。
引き金は初めての中間テストの成績だった。国語の土屋先生は細かなことにうるさい学年主任だ。いつもぴりぴりとした不機嫌を眉間にぶら下げていた。だがその日はテストの束を脇に抱え、満面の笑みで「このクラスに学年一位がいます」と高らかに発表した。教室が鎮まる。生徒の関心を掌握したことに満足すると「樫本さんです」と告げ高らかに拍手する。クラスじゅうの視線がさっと桂子に集まった。先生の拍手だけが乾いた空気にむなしく響く。「いい気になって」棘のあるささやきが細波のように押し寄せた。
その日を境に桂子はクラスで浮いた。
「頭のええ人はえらそうや」とか「えこひいきされてる人はええねえ」とか、冷やりとした言葉の針が雑音に紛れこむ。息苦しくなって休み時間は教室から逃げた。
ドラマのように暴力を振るわれたり、机に落書きされたり、物を盗まれたり、目に見える形で何かをされたわけではない。桂子が近づくと透明なシャッターのようなものが無音で降ろされ、通り過ぎるとひそひそ声がねっとりと絡まりながら追いかけてくる。冷水機で水を飲む、手を洗う、体操服に着替える、廊下を歩く、息をする。何をしても記号の言葉でひそひそと噂されている気がした。桂子のまわりの空気だけピリピリして、肌がかさかさして、喉が渇いた。
「無視……されてるだけ」
桂子にはそれ以上に適当な言葉が見つからなかった。
「そんな子らには、勉強で勝ったらええのよ」
母はナイフで切って捨てるように言い放った。そんな簡単なことを、とでも言うように。桂子は驚いて顔をあげる。
視線がぶつかる――と思ったのに。そこに母のまなざしはなく、あったのは左の耳たぶだった。母は右に顔をかしげ舞台中央の方角を凝視していた。
私の苦しみは、お母さんには取るに足らないことだったのか。
お母さんなら、この沼のような苦しみから抜け出す道を示してくれるかも。縋るような期待が胸にあった。
それが……一瞬にして瓦解した。
ひとつだと信じていた世界にひびが入る。すぱっと切り裂かれた痛みに思考が凍りつく。指先が冷たくなる。
隣にいるはずの母が遠くかすんでいく。
劇場のざわめきも後退していく。
意識が薄い膜につつまれたまま視線を膝に落とすと、入学祝いに祖父から贈られた腕時計が目に入った。短針と長針が縦に開いて十二時三十分を指し、文字盤の円を二分している。それはたちまちに真円をふたつに分かつ裂け目となり深い溝が穿たれた。だが、真二つに折れることはなく中途半端につながったままゆがむ。視界が縁から閉じていく。
ぼーん、ぼーん、ぼーん。
意識の奥のほうで時を刻む音が響く。すれちがったまま重ねた時を数えるように、右に左に振り子が揺れうずくまる心をゆさぶっていた。
(to be continued)
第6話に続く。
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