『月獅』第2幕「隠された島」 第9章「嵐」<全文>
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第8章「嘆きの山」<全文>は、こちらから、どうぞ。
海面はぴくりとも揺らがないほど平坦に凪いでいた。
張った弦のように空気がひりひりし、海猫の鳴き声もなかった。
あれが予兆だったのかもしれない。
その日は双子の二歳の誕生日でルチルは木イチゴのタルトを作っていた。
お菓子作りはルチルが唯一ディアよりもできることだ。
館にいた頃、料理人のハミルおばさんに何度も何度もお願いしてタルトやクッキーの作り方を教えてもらった。「火や包丁やら危ないものばかりですだ。ここはお嬢様の来るところではねえ」とはじめは追い返された。大人の言いつけにはたいてい素直に従うルチルだったが、このときばかりは諦めなかった。ハミルが季節の果物や木の実を使って作るタルトは、夢のようにおいしかったから。昼食の後片づけが終わる頃あいをみはからって台所をのぞき、お願いを繰り返し続けた。とうとうハミルはひとつ大きなため息をもらすと、二人ぶんはありそうなふくよかな腰に両手をあて、ルチルの背の高さまで上体を傾け目線を合わせた。
「火に近づかねえ。包丁は勝手にさわらねえ。言いつけは守れるだか」
十歳のルチルはこくこくとうなずく。
「じゃあ、明日また、おいでなせえ」
ハミルがでっぷりと太った体を揺らして笑っていた。
島に漂着してはじめてリンゴのタルトを焼いたとき、ひと口食べたディアはテーブルに勢いよく手をついて立ちあがった。
「なに、これ! 甘くておいしい。こんなの食べたことない。ルチルは魔法が使えるの?」
らんらんと目を輝かせている。立ったまま、残りを手でつまんで口いっぱいにほおばる。どうやらケーキやタルトなどの甘い菓子を食べたことがなかったらしい。
「菓子をこしらえるという発想がなかったからなあ」
歓喜する娘をみて、ノアが首筋を掻く。
「おまえたちも、食べてごらん」
ディアはタルトをひと切れ窓辺に置く。またたくまに小鳥たちが群がった。
ディアに与えた衝撃はそうとう大きかったらしく、たびたび作ってくれとせがまれた。双子が生まれてからは忙しく、なかなかタルトを焼く時間を見つけられなかったけれど。クッキーならシチューを煮込むあいだに種を作ることができる。島に流れ着いて半年が過ぎるころには、ルチルもそれくらいの手際は身につけていた。双子たちを寝かせたら、お茶をいれクッキーを皿に盛ってディアをねぎらう。ランプの明かりがテーブルに光の輪を広げる。娘たちのおしゃべりは尽きることがなかった。
双子が生まれて二年。たいへんだったのは最初の一年で、近ごろはずいぶん落ち着き、ルチルにもタルトを焼くゆとりができた。この日のために山で摘んできた木イチゴを瓶詰にしてある。去年の秋に集めたクルミや木の実もくだいた。生地をこねて、窯に火をくべる。ノアは昨日しとめた猪をさばく。ディアは鼻歌を口ずさみながら山羊のミーファの乳をしぼっていた。
二歳といっても六歳相当だから、二人ともたくましく成長していた。ソラは走る、跳ぶ、泳ぐの基本的な運動能力はもちろん、海に潜ってモリで魚をつかまえる腕もずいぶん上達した。まだ弓は扱えないが、縄の先に石の錘をつけた投石具で十回に一度はナキウサギをしとめることができるまでになっていた。一方、シエルは水を怖がり潜ることができない。かわりにマテ貝や二枚貝を掘りあてるのは得意だ。薬草やキノコもよく見つける。穏やかな性格は生きものたちに好かれるらしく、シロイルカや小鳥たちに囲まれシエルの周りはいつも明るくにぎやかだ。ビューもたいていシエルの肩にいた。
あれほど二人で取り合いをしたビューは、少し大きくなったがそれでも鳩ぐらいの丈でしかなく、あいかわらず飛べないため、ソラの興味はしだいに他のものに移り今では見向きもしない。
嘆きの山での一件以来、ギンとヒスイが根気よくビューの飛行指導をしていた。躰が未発達なことが原因なのか、ムササビのように枝から地面への滑空はできるようになったが、翼で風をとらえて自在に飛翔することは一向にできるようにならなかった。
ノアはビューが眠りにつくと、起こさないように止まり木ごと戸外に持ち出す。海を臨む丘まで行き、意識の深淵で潜んでいるビュイックに語りかける。ビューがぐっすり眠っているとビュイックと交代することができるのだ。すると、体躯も成獣のビュイックに戻る。鳩ほどの鳥獣が、みるみるうちに身の丈三ヤードの怪鳥になる。
「ビューの発育を邪魔してるものはなんだ。何があいつに箍をはめてる」
ノアはグリフィンの巨躯に背をもたせかける。翼を折り畳んでいても黒い小山のようだ。
「あの山のせいかもしれん」
「嘆きの山か」
「ああ。俺が飛び立ったからな」
隠された島が白の森から切り離される原因となった五百五十年前のヴェスピオラ山の噴火。それにノアが巻き込まれたと思ったビュイックは、噴火を鎮めるために火口に飛び込んだ。山の怒りと嘆きをなだめながら眠りについていたが、黄金のめざめを感じとり、山から飛び立ったのだった。
「だから、おまえをビューの意識下に抑え込んでいるというのか」
「わからんがな」
「おまえとビューの交代がもっと自由になればいいんだが。そうすりゃあ、おまえを通じて、飛行のコツもつかめるようになるんじゃないか」
ビュイックは無言で黒く鎮まる嘆きの山に顔を向ける。
「完全に意識がぶっ飛んでるときしか交代できないんじゃ、ビューは何も学べんだろ」
「まだこいつの精神は幼い。グリフィンとして黄金を守り抜く覚悟ができていない」
「覚悟か……」
「あの日、ソラの危機に怯えるだけで己がなにもできなかったのは、そうとうショックだったようだ」
「なら、それが箍を外すトリガーには……なんでならなかったんだ」
「神獣としての誇り、悔しさ、無力感。それらがこいつのうちで葛藤してる。だから俺にやすやすと席を譲りわたそうとしない」
「そうか。それはまた……」
と言いながら、ノアはビュイックに預けていた背を立て、くるりと向き直り、はるか頭上にある顔を見あげる。
「みどころがあるな」
「ああ。自らの力で乗り越えようともがいている」
「もがいた魂ほど美しいというからな。力を解放する日が楽しみだ」
漆黒の海原を白い月の光が撫でていた。
「ノア、王宮の船だ!」
ギンが叫びながら蒼天を切り裂いて急降下する。
「レルム・ハンの旗をかかげた船が沖に停まって小舟を降ろしはじめている」
「上陸するつもりか。何隻だ」
「一隻だ」
そうか、と一隻だけであることにノアは強張りを少しほどく。
「天卵の子がいると、知れたのでしょうか」
ルチルが蒼ざめる。
「わからん。一隻だから単なる巡回偵察かもしれんが」
ノアは遠眼鏡で船影を確かめる。双頭の鷲が向き合う王国の旗が帆柱にはためいていた。
「こんな絶海の孤島にものものしい船で乗り込むなど、何か目的があるとしか考えられん。ギン、最近、偵察隊のレイブンカラスの姿は見たか」
傍らのハヤブサに問う。
「ワタリガラスの群れは見た。渡りの季節だから気にも留めなかったが……紛れていたのか」
ギンが己の落ち度だと喉を鳴らす。
「島にとどまるのは危険だ。南の洞窟に船を隠してある。食料や水、衣類など必要なものをまとめて洞窟へ急げ。ギンが案内してくれる」
ノアが矢継ぎ早に指示を出す。
「山羊も二頭だけ連れていこう。ミーファとチチがいいだろう。鶏もな。船で何日放浪することになるかわからん。鶏の卵は貴重なタンパク源になる。頼んだぞ、ギン」
「父さん、ソラがいない」
ディアが慌てる。
「またか。シエル、ソラはどこだ」
シエルが、わからないと首を振る。
「かくれんぼしてた。ぼくが鬼」
ノアが天を仰ぐ。
「ソラぁああ、出ておいでぇ」
「ソラあー、どこー」
ディアが叫ぶ。ルチルも声を張りあげる。
「かくれんぼをしてたんじゃ、呼べばよけいに出て来んだろ、みつかると思って」
ノアが顔をしかめる。
「とにかくおまえたちは急げ。ソラは俺がなんとかする。それからギン」
ノアは傍らに控えるハヤブサを振り返る。
「いつでも出航できるようディアに準備を指示しておいてくれ。ヒスイはソラを探すのを手伝ってほしい」
そこで言葉を切り、「ルチル、ディア」と二人の娘に目を据える。
「ソラを心配する気持ちはわかる。だが、これ以上の混乱は避けねばならん。俺がソラを確保すると同時に船を出す。一刻の遅れが全員の危険につながる。シエルを守って船から一歩も出るな。皆が助かる道はそれしかない。とくにディア、絶対に勝手な行動はするな、わかったな」
父の逼迫した鋭いまなざしに、ディアは大きくうなずく。
「ルチルは服をお願い。あたしは食べ物と水を用意する」
ディアとルチルが山羊と鶏を従えて南の海岸に続く獣道をくだって行くのを見送ると、ノアは空に向かって指笛を吹く。ケツァールのヒスイが緑の翼をたたんで斜線で急降下する。
「見つかったか」
「家のまわりにはいない。山を探す。小鳥たちにも頼んでいる。小舟が七艘、浜に着いたぞ」
「わかった。ギンと手分けして探してくれ。見つけたら洞窟の船に連れて行け。俺のことはかまうな」
翡翠色の翼が陽にきらめき、銀の翼のハヤブサと合流して点になる。太陽の白光に目を眇めながら二羽を見届けるとノアは納屋をめざした。
ソラが家に潜んでいる確率は低いだろう。ルチルとディアが荷造りをしていて見つけられないはずがない。納屋の片隅で着ていた短衣と短袴を脱ぎ捨て長衣に着替える。裾をまくり、右の太腿に短剣を二挺くくりつける。左の腿には槍の穂先を五本さげ、衣の丈を膝下に調節し腰紐を結ぶと納屋を出た。家に戻り、シエルとソラに関わるものを手当たりしだい暖炉にくべる。炎がよろこんで火勢を強める。炉の隅の灰を搔き集め小さな布袋に詰める。それを六個作り細い縄にくくりつけ、首飾りのように首に通して胸もとに隠すと、ノアは戸外に出た。
浜に続く坂道を弓と槍で武装した一団があがってくるのが見えた。念のため丸太小家の床下の暗がりを覗き、「ソラいるか。いるなら出てこい」と声を掛けたが姿も見えなければ、けはいもなかった。
ノアは鎌を持って小麦畑に向かった。黄金に輝く穂が波打ち、収穫のときを待ちわびていた。せっかくの実りだが諦めざるをえない。ソラはどこだ。穂を刈り取っているふうを装いながら、ノアは姿勢を低くして銀髪の子を探した。
「法務省王宮警護部辺境警備長官を兼務される法務大臣ダレン伯閣下である」
金のモールが飾る深紅の儀仗服に勲章を山のようにつけた小太りの男が、兵に守られて坂道をのぼってきた。おそらく辺境警備長官とは名ばかりの名誉職なのだろう。軍の指揮官としての豪壮さも、鋭利さもなかった。王城で美食と権力をむさぼっている輩だ。
「ご尊顔の拝謁、恐悦至極に存じます」
ノアは鎌を足もとに置いて跪拝する。
それを兵の一人がさっと取りあげる。
「このような辺境の小島に何用でございましょうか」
恭しく尋ねながらノアはダレン伯の周囲に目を走らす。
――実質の指揮官はどいつだ。
伯爵の左斜め後ろに腰に太刀をさした隻眼の男がいた。手のしぐさだけで控えていた兵を要所に配置する。こいつだ。
ダレン伯はよほど己を誇示したいのだろう。部下を押さえて自らノアに尋問しだした。
「天卵はどこだ。隠し立てすると、貴様にも罪が及ぶぞ」
「天卵とは……『黎明の書』に伝えられている伝説の卵のことでございましょうか。あれはただの伝説ではございませんか」
「うむ。余もそう思っておった。ところがだ。二年前にエステ村領主の娘が天卵を生んだとの情報がレイブン隊より奏上され、王宮はひっくり返った。天卵は王の御世を乱す凶兆であるからのう。卵のうちに排除すると御前会議で決定した矢先に、娘は卵を抱いたままカーボ岬より身を投げたと、これまたレイブンカラスからの報告があがった。いやはや、皆、胸を撫でおろしたわい。これで一件落着、王の偉大なる治世もご安泰と安堵しておったのじゃ」
ふううっと大きくひとつ息を吐き、床几を持ってまいれ、と命令する。
あれしきの坂道で息切れするとは。戦の指揮などしたことがないのだろう。床几にでっぷりと太った尻を乗せようとして転びそうになり、二人の下僕が背を支える。もう一人がクジャクの羽根扇であおぐ。それを苦々しげに一瞥し、隻眼の男は次々に兵に指示を与えていた。
大きなしわぶきをひとつ吐くとダレン伯は、
「ところがだ」
と前のめりになる。ところがだ、というのが口癖らしい。
「ひと月ほど前じゃったかのう。星夜見の塔がなした卜占に『天は朱の海に漂う』と出たのよ。王宮が震撼したわい。海の藻屑と消えたのではなかったのか、とな。真っ先にレイブン隊が疑われた。当然よのう。すると、カラスどもが星夜見の読み違いであると騒ぎ立てよった。あやつらは、甚だしくうるさい。致し方なく星夜見をやり直したが、同じ卜占が出た」
ふはははは。あのときのカラスどもの顔よ、まっことおもしろかった。
のけ反って笑う背を二人の下僕が支える。
「しかも、その騒動のさいちゅうに投げ文があったのじゃ」
ノアを見つめて、にたりとする。
「天卵は隠された島に秘されている、と記してあったわ」
「閣下はここがその隠された島だと仰せでございますか」
跪拝し叩頭礼で恭しく対峙するノアの言葉使いは慇懃ではあったが、その口調には刃がきらめく。槍をもった兵士がノアの両脇に立っていた。
「ではない……とほざくか」
「このような小さき島に名などあろうはずもございません。昨夜は海が荒れもうした」
わざとそこで口をつぐむ。先は言わずともわかるだろうと、顔をあげ目で脅しをかける。
「航路を誤ったと申すか」
伯爵に代わって隻眼の男がにらむ。
ノアは無言で目を伏せる。
そのときだ。探索に向かっていた兵が一名足早に戻ってきた。
「閣下、裏山に続く道に子どもの足跡が無数にありました」
「山か……。捜索するには人数が必要であるな」
伯爵はちっと指を噛む。隻眼の男がすぐに指令を出す。
「第一隊と第二隊の二十名はここに残って警護にあたれ。残りの第三から第五隊までは全員山に向かって第六隊と合流せよ。娘と幼子だ、そう遠くには行っていまい。草の根分けても探し出せ! 王国の安寧に関わる。見つけ出した者は、王の覚えもめでたくなると心得よ」
「はっ」
これで半数以上が山に入った。あと二十名か。まだ動けない。ノアは跪拝しながら空を見あげる。ギンとヒスイの影はない。まだソラは見つかっていないのか。
「子の足跡をなんと説明する」
「私には娘がおります」
「ほう。で、その娘はいまどこに」
「遊びまわっているのでしょう。活発な娘ですので」
「この期におよんで……」
金の杖をぐっと握って、ダレン伯が苛立たしそうに立ちあがる。
「余を愚弄するか!」
手にしていた杖でノアの左肩を力まかせに打ち、返す手で右を打擲しようとした、そのときだ。
山のほうから恐怖のうねりが響きわたった。叫喚と悲鳴と猛々しい咆哮が次々にあがる。「かかれぇええ!」という鬨の声まで響いてきた。
「あ、あ、あれはなんだ!」
戦場さながらの絶叫と鬨の声に伯爵がうろたえ脅える。
(迷いの森で幻影を見せられてるな。同士討ちになっているのかもしれん)
ノアは嘆きの山を見あげる。
「き、貴様、兵を隠しておったか」
恐怖でダレン伯の顔が引き攣っている。
「この者を縛りあげよ!」
ノアは無言を貫く。混乱させておくほうが恐怖も増幅される。
隻眼の男がノアの胸倉をつかみながら、残りの兵に「ただちに援軍に向かえ!」と指示すると、背後から伯爵の金切り声があがる。
「な、な、何をしておる、グエル少佐。て、て、撤退じゃ」
慌てて床几から立ちあがり、勢いあまって叢にひしゃげた蛙のように倒れこむ。
グエル少佐と呼ばれた隻眼の男は背後を振り返り、鋭い目でダレン伯を睨みつける。
「撤退ですと? 兵を見捨てると申されるか。此度の捜索の陣頭指揮を執ると仰ったのは、閣下ですよ。これから陣頭指揮を執っていただきます。そこを動かれるな!」
恫喝すると、控えていた近衛兵が槍で伯爵の動きを止める。
ふんと鼻を鳴らすと、グエル少佐はノアに視線を戻し、その喉もとに太刀を這わせる。
「何を隠している。海賊どもを助っ人に引き入れたか」
怜悧な声が迫る。風がノアの首すじを撫でる。
その風よりも微かだった。だが他人よりも鋭敏なノアの耳は、きりきりと弓を引き絞るような音を拾う。音の聞こえた方角――少佐の斜め背後にわずかに視線を動かす。
黄金の穂を波打たせている小麦畑のなかにぼおっと輝く光を目の端でとらえた。光はしだいに強くなる。
雀が一羽ノアの肩にとまり、何かをつぶやいた。
「ディア、だめよ。船で待つように言われたでしょ」
ルチルがディアの腕を取って押しとどめる。
雀がけたたましく鳴きながら飛んできて、ソラを見つけたと騒ぎたてたのだ。
「ノアにも報せているの?」
ルチルは雀に尋ねる。
「あたいはディアに報せに来ただけだから、わかんない」
「ほら!」
ディアが声を強くする。
「父さんはまだソラを見つけていないんだよ。早くソラをつかまえないと、またどっかに行っちゃう。父さんが心配したのは、みんながばらばらになることでしょ。ルチルはシエルとここにいて。あたしはソラをつかまえて戻ってくる。居場所はわかっているんだから、だいじょうぶよ」
ね、とディアはルチルの両手をぎゅっとつかんで訴える。
ルチルはぐっと下唇を噛む。迷っている時間はない。
顔をあげるとディアを見つめ返し、目と目でうなずき合う。
「まかせて」
言うが早いかディアは飛ぶように駆け出した。
双子はふだん光らなくなっていたが、緊張したり興奮すると輝きだす。
小麦畑の淡い光はまちがいなくソラだ。雀もそうささやいた。
この状況に驚いているだろうし、緊張しないほうがおかしい。輝きが増して兵士に気づかれる前になんとかしなければ。
この場に残っているのは、伯爵と少佐と近衛兵二名、それに伯爵の側仕えが三名か。戦闘要員は少佐と近衛兵の三人だけ。なんとかなるな。
隻眼の少佐に胸倉をつかまれながら、ノアが冷静に算段した瞬間だった。
びゅっつ!
何かが空気を水平に切り裂く高音がした。
一瞬、ノアをつかんでいる少佐の手がゆるむ。
その隙をノアは逃さなかった。
自らの関節を瞬時にはずす。縛られていた縄が足もとに落ちる。
放たれた矢が力なくグエル少佐の頬を掠めるのと、ノアが胸もとから灰を詰めた小袋を引きちぎり、少佐の片目に向かって投げるのが同時だった。ノアはすぐに身を屈め、太腿に隠した短刀を少佐の脚に突き立てて駆けだし、近衛兵めがけて目つぶしの灰爆弾を投げる。
「ソラぁああああ、走れぇええ!」
ノアは走りながら、弓を構える近衛兵と少佐に槍先を次々に投げる。
駆けてくるソラをあと数歩で確保できると思ったときだ、黒く大きな影がノアの背後から飛来した。
――ビュイック!
ノアは速度を少しゆるめる。
巨大な影を率いる翼がソラめがけて入射角で降り、鉤爪でソラをつかむとV字ですばやく上昇した。ノアは立ち止まって天を見あげる。
良かったと安堵したが、違和感がちくりと胸を掠めた。
(ソラをつかんだ鉤爪は、胸ではなく腹の位置になかったか?)
(獅子の逞しい後脚はどこにあった?)
ノアは遠ざかる巨鳥の姿を目で追う。
そのときだ。頭上でギンが叫ぶ。
「ノア、グリフィンじゃない、コンドルだ! コンドルがソラを」
「なんだと!」
ギンが弾丸と化してコンドルを追う。ヒスイも続く。
ノアは茫然として己の両の掌を見つめる。あと一歩早ければ、ソラを抱くことができた手を。何もない掌を。黒い影の飛来に、一瞬、速度をゆるめた己を激しく責めた。
「ソラぁあああああ」
ディアの甲高い絶叫が響きわたり、ノアは我に返る。
ディアが天を仰ぎ、体を引き絞るようにして声を張りあげ、小麦畑の端でくずおれている。なぜ、ここにディアが。
――まずい。
ノアは伯爵と少佐たちのほうを振り返る。ノアの投げた槍先を肩と脚に受けた少佐と近衛兵の三人は膝をついて、コンドルが天卵の子をさらっていった方角を見つめていた。ダレン伯は腰を抜かしてひっくり返っている。
あの三人をまいて、一刻も早くディアとともに洞窟にたどり着かねば。シエルまで失ってしまう。
ノアはディアに向かって駆けだした。
どどどどど、ごごごごごごっつ。
突然、地の底から大地を突きあげる不気味な響きとうねりが湧きおこった。不穏な圧力をともなう音が島を震撼させる。
「な、な、な、なにごとだ」
ダレン伯の震える金切り声をノアは背で聞く。
大地を揺さぶる地鳴りに足をとられる。足裏全体で踏ん張らなければ、立っていることすら危うい。膝を曲げて重心を下げた。
――いかん! 嘆きの山が目覚めた。
山が、ヴェスピオラ山が、咆哮をあげ嘆きの礫を撒き散らしはじめた。火の粉が噴水のごとく吐き出される。天に向かって幾発もの花火が絶えることなく轟音をあげて打ち上げられる。
金縛りにあったように棒立ちするディアに、ノアは低い姿勢で駆け寄る。 娘の頭をわが胸に押し付ける。自らの頭と両手できつく保護すると横抱きにし、ひとつに束ねた二本の丸太のごとく横転し丘をころがり落ちる。崖の手前の樫の大木に背をぶつけて止まると、ディアに「走れ!」と叫んだ。
したたかに打った背が軋んだが、洞窟に続く獣道をディアと跳ぶように駆けた。
洞窟の天井近くの岩場に身を滑りこませると
「ディア、飛べ!」
と娘をうながす。
洞窟は遥か昔に溶岩が流れてできた。その岩場にぶら下がっている数千匹のコウモリが、山の異変に狂ったように飛び交い、視界を妨げる。
それらを手で払いのけ、ディアが、ノアが、飛び降り甲板に着地すると、ノアはすばやく錨を引き上げる。
「帆をあげろ」
ディアとルチルはそれぞれ帆柱に取りつき、縄を引き、帆を張る。
洞窟の奥から地を切り裂くような轟音が近づいてくる。
「来るぞ!」
「ルチルはシエルを抱いてマストにしがみつけ。ディアもだ」
岩が崩れる。出口を見つけた濁流がなだれ込み、船体を直撃し、船は荒れ狂う海へと弾き飛ばされる。船尾にしがみついたノアが島に目をやると、ぼこぼこと滾る溶岩流の真っ赤な舌先が海にたどり着いたところだった。
嵐は一昼夜続いて、海は凪いだ。
天を轟かせる雷鳴が絶えまなく炸裂し、怒りを爆発させた山はそれに応戦するがごとく真っ赤な火花を吐き続け咆哮した。天と山が激闘を繰り返した。だが、ついに容赦なく降る驟雨が山の怒りを鎮圧し、嘆きの雨となって慰めた。
ギンとヒスイを伴ってグリフィンが船に戻ったのは、嵐がおさまり、海が東から光を映しはじめたころだった。船は波と風の意思にあらがうことなく南の海上を漂う。
誰もがそれぞれの思いを抱え、憔悴しきっていた。
噴火の危機から脱すると、ルチルとディアは荒れ狂う嵐よりも激しく号泣した。ディアはまにあわなかったことを。ルチルは母なのに助けにもいけなかったことを、二人は後悔して吠えるように慟哭した。シエルは兄弟を失ったことを理解しているのかどうかはわからなかった。だが、「かぁか、かぁか、助けて!」と叫び続けた。それがソラの声に似ていて、ルチルとディアの胸を締めあげる。シエルはふたりに抱きしめられ、泣きながら眠った。
間一髪で島から脱出するとノアはすぐに、ビューがいないことに気づいた。
濁流の衝撃で船から落ちたのかと危惧したが、ルチルによると、山の唸りが起きる直前にヒスイがやって来て、ソラがさらわれたと告げると、成獣のグリフィンになって飛び立ったという。
それを聞いてノアは、あの一瞬の己の判断ミスを激しく罵った。
グリフィンは船にいたのだ。ソラを助けにあのタイミングで飛来するはずがねぇ。それなのに俺は、黒く大きな翼影をてっきりビュイックだと思っちまった。ああ、俺はいつもいつも、肝心の判断をまちがう――。
ノアは己の掌を見つめ、天を仰ぐ。
昨日のできごとが幻のごとく、空はどこまでも高く澄んでいる。はるか西の水平線に薄く煙をたなびかせるヴェスピオラ山が見えた。
シエルはめざめると、ルチルの服の裾を引っ張りながら小声で「お腹がすいた」という。泣き疲れて視界も頭も茫洋としていたルチルは、はっとなった。
――そうね、こんなときこそ、食べなくちゃ。
双子の誕生日のお祝いに焼いたタルトを思い出した。ディアが、これは絶対に持っていこうといって、小麦袋の上に乗せていたはず。ルチルはシエルを抱いて船室に下りる。
グリフィンは船に戻っても小さくならなかった。
「ビュイック、ビューはどうしたんだ」
「起きてはいる。だが、意識の深淵で落ち込んだまま、浮上してこようとしない」
「そうか」
「ヒスイの報せに、一瞬だが、俺と交代することに抵抗した。それが原因でコンドルを見失ったと思っているようだ」
誰もがソラを想って、それぞれに己を責めていた。
ディアは帆柱にもたれて放心していた。瞳は開いていたが、何も見ていなかった。ソラの生意気で、いたずら好きで、好奇心の強く明るい笑顔が浮かんでは消える。「ソラ」とつぶやき、また涙ぐむ。
甘い香りが鼻をかすめ、ディアは顔をあげる。ルチルがタルトの皿をもって目の前にしゃがんでいる。
「うまく焼けたと思うの。ほら、ディアも食べて」
ね、こんなときこそ食べなくちゃ。ルチルが口の端をゆがめ泣きそうな顔で微笑んでいる。
ソラとそっくりな、でもどこかしら表情のちがうシエルが、ディアを心配そうにのぞきこみ、その頬にそっと小さな手をのばす。
ディアは木イチゴのタルトをひと切れつまみ、かぶりつく。
「ソラにも食べさせてあげたかったね」
ディアが目尻の玉を人差し指で拭いながら、ルチルを見つめて微笑む。
甘くて、甘くて、胸をしめつける味がした。
(第9章「嵐」 了)
第2幕「隠された島」<完>
第3幕「迷宮」 第10章「星夜見の塔」に続く。