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『オールド・クロック・カフェ』6杯め<全文>

<登場人物>
桂子‥‥‥‥カフェ店主
亜希‥‥‥‥店舗コーディネーター・1杯め「ピンクの空」主人公
祖父‥‥‥‥カフェの前店主・桂子の祖父・万季の父
万季‥‥‥‥桂子の母
久乃‥‥‥‥桂子の祖母・万季の母
公介‥‥‥‥桂子の義理の父・万季の夫
泰郎‥‥‥‥カフェの常連客・ガラス工芸作家
瑠璃‥‥‥‥泰郎の娘・桂子のおさななじみ

 その店は、東大路から八坂の塔へと続く坂道の途中を右に折れた細い路地にある。古い民家を必要最低限だけ改装したような店で、入り口の格子戸はいつも開いていた。両脇の板塀の足元は竹矢来で覆われていて、格子戸の向こうには猫の額ほどの前庭があり、隣家との垣で山茶花が蕾をつけている。格子戸の前に木製の椅子が置かれ、メニューをいくつか書いた緑の黒板が立て掛けられていなければ、そこをカフェと気づく人はいないだろう。
 そのメニューが変わっていて、黒板には、こんなふうに書かれている。

Old Clock Cafe

6時25分のコーヒー       ‥‥500円
7時36分のカフェオレ      ‥‥550円
10時17分の紅茶         ‥‥500円
14時48分のココア        ‥‥550円
15時33分の自家製クロックムッシュ‥‥350円

 ときどき、この風変わりな黒板メニューに目を止め、開け放たれた格子戸から中をいぶかしげにのぞきこむ人がいる。
 いらっしゃいませ。ようこそ、『オールド・クロック・カフェ』へ。
 あなたが、今日のお客様です。


第1話「Christmas Tree」

 からからから。
 格子戸が開くと寒風がさっとすべりこむ。ケトルがぴーっと甲高い声を立てて湯が沸いたことを主張した。
「いらっしゃいませ」
 戸口に向かって桂子が声をかける。なにやら戸口前がざわめき複数の足音がする。
「こんにちは。ツリーをお届けにきました」
 モスグリーンのパンツスーツ姿の女性が顔をのぞかせる。建設会社で店舗コーディネーターを務める亜希だ。桂子が店を継いでまもない昨年の春に亜希は時のコーヒーを飲んだ。「時のコーヒー」とは、時計に選ばれた客しか飲めず、飲むと過去の忘れ物に気づくという、このカフェの知る人ぞ知る裏メニューだ。
「格子戸を痛めないよう気をつけてね」
 振り返りながら亜希が指令をだすと、ぬっと緑の枝先が斜角で侵入した。
「モミの木」
 桂子はカウンターから走り出る。
 白っぽいつなぎの作業着に濃紺のジャンパーをはおった男が二人モミの若木の鉢をかかえて入ってきた。
 モミの生木を飾りたいと亜希に相談すると、出入りの造園業者に訊いてみるわと請け負ってくれた。明日から暦が十二月に変わるのに合わせ手配してくれたのだ。
「すげえ!」
 鉢を抱えた男たちが店を埋め尽くす時計に驚く。
「三十二台もあるのよ」
 亜希が誇らしげに説明する。
「壮観っすね」
「この辺でいいかしら」
 カウンターと中央のテーブル席のあいだを指す。
「はい、その辺で」
「テーブル、少し後ろにずらそうか」
「そうですね」
「ごめん、テーブル動かすの手伝ってくれへん」
 亜希は男二人にお願いする。
 テーブルを動かし終えると男たちは「ほな、これで」と帰ろうとする。桂子は慌てて「コーヒーでも飲んでいってください」と声をかけたが、「次の配達があるんで。こんどゆっくり来ます」と風を連れて去っていった。桂子は亜希を振り返る。
「亜希さんもお忙しいですか」
「だいじょうぶよ。オーナメント飾ろうか」
 亜希がツリーの前で腕まくりしている。
「オーナメントは籠に入れて置いておくんです。お客さんにひとつずつ飾ってもらうのが恒例なんで」
「いいわね。それも先代オーナーのアイデア?」
「祖父ではなくて祖母のアイデアと聞いてます」
「おばあ様ってメニューの時刻も考えはったのよね、確か」
 桂子はうなずく。
「すてきなことを思いつかはる方ね」
「亜希さんもひとつ飾ってください」
 亜希は柱時計のオーナメントを選んだ。中庭に通じる格子戸から差しこむ冬の陽がモミの緑を落ち着かせる。
「うん、この店にはほんものが似合う」
 亜希はつぶやきながらカウンターに腰かけた。
 こぽこぽとサイフォンが穏やかなリズムを奏で、コーヒーのふくよかな薫りが立ちのぼる。十二月を明日にひかえ、街は駆け足になりつつあった。
「新しい名刺なの」
 カウンター越しに渡された名刺には店舗コーディネーターの肩書の上に色彩検定一級カラーコーディネーターと追加されている。
「おめでとうございます。合格されたんですね」
「やっとね」と笑む。十二番の時計のおかげ、一年半かかったけど。
 亜希はスツールを斜めにひいて奥の壁を振り返る。薄紫のグラデーションが目をひく柱時計が振り子を揺らしていた。
「空は水色で、雲は白でしょ」
 母による「正しい色」の呪。それを解き放ちたくてカラーコーディネーターの勉強をはじめたのだと亜希は話してくれた。
「色っておもしろいのね」
 街路樹は雨に緑を濃くし、鴨川も季節や時刻によって変化するし。昨日見た色はもうどこにもなくて。グレーばかりだった私のクローゼットにもパステルカラーやビタミンカラーのスーツが並ぶようになったのよ。服が明るくなると不思議と心も上を向くのね。資格は目に見える勲章でしかなくて。ほんとうに手に入れたのは自信なんやと思う。
 色について語る亜希はとても饒舌だ。
「お母様は」
 カラーコーディネーターの肩書に視線を落とし、桂子は言葉を探す。亜希の母はクリエイティブなものを嫌悪していると聞いていた。
「母が一番喜んで自慢してるの、恥ずかしくて」
 亜希は肩をすくめる。
「私は姉と比べると頼りなくて、いくつになっても心配な子やったのね。高校も短大も就職先まで母が決めた。山田建設は母の勤める会計事務所の得意先。娘をお願いしますって、知らないうちに頼んでたんよ」
 あきれちゃうでしょ、と薄く笑う。
「私は母が敷いたレールを歩いてきただけ」手にしたカップをゆらす。
「そんな娘が自分から挑戦して資格を取った」
 安心したのかな、とコーヒーを啜る。
「そうだ、顔見世かおみせに興味ある? もうチケットはとった?」
「いえ。子どものころは母と観にいってたんですけど。最近はぜんぜん」
「良かったら、これ。平日の昼の部やけど」
 顔見世興行のチケットを二枚カウンターに置く。
 値の張るものなので桂子はためらう。
「うちの社長が松嶋屋さんの御贔屓筋で社員にくれるの」
 二十日の昼の部のチケットだ。
「亜希さんは」
「出発前日だからね」
 桂子は首をかしげる。
「クリスマスをスペインで過ごすんよ」
「お父様のところに?」
 亜希の父はスペイン在住の画家だ。うなずきながら亜希はカウンターに肘をつき含みのある目を向ける。
「母も一緒にね」
「えっ」桂子は思わず高い声をあげる。
 画家になると家を出た夫を亜希の母は否定していたはず。
「仲直りしはったんですか」
「仲直りっていうより、雪解け、が近いかな」
 亜希は言葉を探しながら話す。
「去年の春に父が個展を開いたでしょ」
「見に行きました。すばらしかったです、あの空の絵」
 亜希の父は昨年、四条西洞院のギャラリーで凱旋個展を開いた。京都新聞にも紹介されなかなかの賑わいだった。渋る母を亜希が無理やり連れて行くと、夕方のローカル番組の取材を受けているところだった。カメラの前に立つ夫の姿に「マスコミは変わったものに飛びつくんや」と辛辣な言葉を吐き、ぽろぽろと涙をこぼした。
 びっくりしたの、と亜希はいう。
 夫が夢を追いかけ出て行って二十年だ。娘二人を育てなければならない不安、夫の身勝手に対する怒り、どこにもぶつけようのない感情に締めあげられ長く苦しかったのだろう。離婚しなかったのは娘のためだと思っていたが、根雪のような想いがあったのかもしれない。
「というようなことを、私もようやく想像できるようになった」
 ふふ、と亜希が片頬をあげる。
「南座にまねきが揚がってた。よかったらお母さんと観にいって」
 亜希は言い置くと、ごちそうさま、と帰っていった。
 お母さんとか。桂子はため息を吐く。

第2話「Suspicious Shadow」

 ランチの客がひけたあとテーブルを片付けていて窓辺で不審な影が動いたのに気づいた。カサッと落ち葉を踏む音がする。
 またか、と桂子は顔をあげる。
 ケトルを火にかけると、からからから、と格子戸の開く音がした。
「いらっしゃ……あ、おじいちゃん」
 祖父が「よっ」と手をあげて入ってきた。
「ちょうどランチのお客様がひけたところよ」
「なかなかの人気やてな」
 十月から限定十八食でランチメニューをはじめた。
 それまではサンドイッチしか用意しておらず、日替わりランチがあったらなあ、と常連さんに請われていた。ひとりで切り盛りしているので注文のたびに作るメニューは難しい。温めるだけでよくて日替わりにできるものはないかと考え、キッシュランチを思いついた。大皿にキッシュとサラダと箸休めを一品盛る。ポタージュスープとドリンクを付けて千円にした。キッシュは前の晩に三台焼いておく。一台を六等分にするので十八食。オーダーが入ると、キッシュとスープを温めればすむ。これまでは祖父から継いだことをなぞっていただけだったが、自分の色を足したくなったのだ。
 ツリーをモミの木にしたのも、そのひとつ。
「ほんもののモミの木か、ええなあ」
「亜希さんにお願いしたの」
 祖父は後ろ手を組んでツリーを見あげる。
「おじいちゃん、今日はどの時計のメンテナンス?」
 尋ねながら桂子は祖父のために京番茶を火にかける。コンロのカチッという音が小さく響く。
 祖父は戸口を振り返り「やれやれ」とため息をつく。半開きの格子戸を寒風がかたかたと叩いていた。
「早よ入らんかい」
 戸の向こうに声をかけると、ベージュのトレンチコートに大きな丸いサングラス、頭にスカーフを巻いたひと昔前の女優のような恰好の女性がうつむきかげんで入ってきた。
「おかあ……さん」
 桂子の声におずおずと顔をあげた母の万季は、冬に似合わないサングラスをかけたまま「ごめんやで」と何に謝っているのか湯気に消えてしまいそうな声で謝罪の言葉をもらす。
 桂子の胸に小さな棘がちくりと刺さる。
 さっきの不審な影は、やはり母だったのか。
 初めてその影に気づいたのは、二年前。店を継いで三日めの昼前だった。泰郎が帰り、桂子は客のいない時間をどう使えばよいのかわからずにいた。冬の陽は弱く、だるまストーブの温もりが窓を白く曇らせている。店の奥の壁中央に鎮座する置床式の古時計を磨こうとひざまずき、結露で曇ったガラス越しに影が揺れたような気がした。カサッと枯れ葉を踏む音がする。桂子は時計を拭いていた布巾を握りしめ立ちあがる。足音を立てぬよう壁伝いに表庭側の窓へ近づいた。ざりっ、玉砂利を踏みしめて去っていくトレンチコートの裾が風に巻きあげられるのが見えた。
 不審な影は毎日現れた。やがて週に数度になり、しだいに間隔があき一年が過ぎるころにはごくまれにしか見かけなくなっていた。おびえたのは最初の一度だけですぐに影の主は母とわかった。
 このあたりは昔からの京雀がかしましい。
「あれ万季ちゃんやろ」
「けったいな恰好してはったな」
「冬やのにサングラスかけてスカーフ真知子巻きにしてなあ」
「なんぞ用事やったんか、桂ちゃん」
 桂子が黒板メニューを椅子に立て掛けながら首を振ると、おばさん連中は箒を持ったまま顔を見合わせる。母は変装をしているつもりでも噂の種をまいていただけだった。

「おまえもひとつ飾ったらどうや」
 モミの木の前で佇む母に祖父がうながす。
「これ」母は亜希が飾った時計のオーナメントを指さす。
「お母さんと寺町の骨董屋さんで見つけたやつよ」
「まだ、あったんやね」
 言いながらサングラスをはずす。笑ってないのに目尻に皺が寄っていた。

第3話「First Clock」

 桂子が盆にグラスを二つのせカウンターを出ると「それ、貸し」と祖父が盆をうばう。
「店番代わったるさかい、お母さんと話をしたらええ」
「でも……」
 桂子がためらうのを気にもとめず、祖父は片手で盆を運ぶ。
 母はツリーの後ろの中央テーブル席に腰かけるところだった。
 祖父が母の前にグラスを置く。

 ぼーん、ぼーん、ぼーん。
 テーブルのすぐ後ろにある置床式の古時計が重低音を揺らした。
 
 祖父のなめらかな給仕に心をうばわれていた桂子は、はっと我に返り
「おじいちゃん、どの時計が鳴った?」と興奮ぎみに駆け寄る。
「こいつや、一番の古時計」
 祖父が時計の肩に手を置く。
「お母さん、飲むよね、時のコーヒー」
 桂子が声を震わせる。
「飲まんよ、あんなけったいなコーヒー」
 ふんと横を向く。
「……なんで」
 言いかけて桂子はその先の言葉を呑んだ。
 母は昔からどういうわけか店を嫌っていた。
 桂子は奥歯を噛みしめる。母は桂子と祖父から視線を背けたままだ。
 (母との感情のもつれを時のコーヒーがほぐしてくれるかも)
 とっさに抱いた甘い期待が砂糖のごとく溶けて消える。
「桂子も座らんかいな」
 言葉を失って固まっている孫娘の背に祖父が手をそえる。
 桂子が祖父にすがるような目を向けながら、母の前の席に浅く腰かけた、そのとき。
 
 ぼーん、ぼーん、ぼーん。
 一番の古時計がまた鳴った。
 
 えっ? 桂子は驚き、うつむきかけた顔をあげる。
「あたしに鳴ったん? それともお母さんにまた?」
「わからん。二度も続けて鳴ったんは初めてや」
 祖父は軽く首を振りながらグラスをテーブルに置く。
「環さんに時計が鳴ったときなんやけど。瑠璃ちゃんが、どっちに鳴ったかわからんから自分も時のコーヒーを飲むって言い張って二杯作ったん。せやけど、眠りに落ちたのは環さんだけやった。飲んでみたらわかるかな」
「試してみるか」
 祖父は鼻に皺を寄せ、母に視線を向ける。
「万季も、試してみいひんか?」
 否定の言葉がこぼれるよりも早く続ける。
「桂子との仲をどないかしたいんやろ」
 母が開きかけた口を力なくつぐみ、うなずくようにうつむく。
「この時計が鳴ったことに意味があるんとちゃうやろか」
 祖父が古時計の肩をたたく。店中の時計たちを統べ、奥の壁の中央に鎮座する古時計を祖父はことのほか愛してきた。
「こいつは、はじまりの時計やさかい」
「はじまり?」
 母が訊き返す。
「『大きな古時計』の歌みたいに、わしと久乃の出会いからずっと家族と店を見守ってきた、何でも知ってる古時計なんや」
 丁寧に抽出したコーヒーにも似た深く濃くなめらかなボディを祖父が愛おしそうに撫でる。
「大学生のじぶんに寺町の骨董屋で見つけた。当時の大卒初任給の倍ほどの値がしてなあ。学生では手が出えへん。ほんでも諦めきれんで通い詰めた。久乃はその店で手伝いをしとった。今でいうアルバイトや。まだ女学生でな。話をするようになってつきあいはじめた。縁結びの時計やから結婚の記念に買うたんや。万季、おまえが生れたときも桂子が生れたときも、この時計は家族のはじまりから全部知っとるんやで」
 母は祖父、桂子、古時計と順に視線をすべらす。
「信じたわけやないで。でも、桂ちゃんとの仲が、なんでこないになってしもたんか。わかるんやったら……飲んでみてもええよ」
 尻すぼみに告げると、またぷいと横を向く。
 そうか、と祖父は桂子と目を合わせにやりとする。
「では一番の時のコーヒーを二杯、ご用意いたしましょう」
 芝居じみた所作で辞儀をし祖父はカウンターに戻っていった。

 母と二人きりになると、とたんに緊張が喉にせりあがり桂子は上唇で下唇をぎゅっと巻きこむ。瞳はテーブルの木目を数えていた。
 母も無言でテーブルに置いたサングラスをもてあそんでいる。
 祖父が豆を挽く音が大きく聞こえるほど沈黙が呼吸を圧迫する。
 (ここにお父さんがいてくれたら)と、桂子はうつむく。
 父の公介は口数は少ないけれど細い目を糸にしていつも微笑んでいる。目尻のさがった丸顔に丸っこい体形はえべっさんのようで、居るだけで空気がなごむ、そんな人だ。

 公介とはじめて会ったのは六歳のクリスマスだった。
「ぼくとお友だちになりませんか」
 シュタイフのテディベアを顔の前にかざしたおじさんが桂子の前に膝をつく。小太りの体をせいいっぱいすぼめ、クマのぬいぐるみになりきろうと壊れたピアニカみたいな声でにこにこしている。桂子もつられてくすくす笑う。人見知りがちな桂子が初対面で心をほどいたのは、瑠璃と公介だけだ。
小学校入学をひかえた三月に母は結婚し、公介は「お父さん」になった。実の父を知らない桂子にとってお父さんは公介しかいない。結婚を機に母は看護師の仕事を辞め、カフェの二階から岡崎に越し、親子三人で暮らすようになった。
 あの頃、と桂子は時をなぞる。
 学校から帰れば母が家にいるのがうれしかった。母もそれまでの時間を取り戻すように桂子にかまった。朝起きると服が用意され、ランドセルには時間割どおりに教科書が入れられていた。ピアノ、英会話、スイミング、塾。毎日習いごとがあり母は熱心につきそった。どこに行くにも一緒で近所でも仲の良い母娘と評判だった。
 いつから母を息苦しく思うようになったのだろう。

「待たせたな。一番の時のコーヒーや」
 祖父はカップを二客テーブルに置く。湯気が白く艶めかしくゆれている。漆黒の液体から立ち昇っているのに湯気はなぜ白いのだろう。そんなことをぼうっと考えながら、母もカップを手に取ったのを確かめ、桂子は時のコーヒーを舌の上でころがし味蕾にゆだねた。
 一番の古時計に目をやると、ひとつをふたつに分かつように縦に開いて、十二時三十分を指していた。

第4話「Time Coffee」

 あたたかな何かに浮かんでいる心地がした。閉じた瞼の裏のようだ。何も見えないのに真珠色の光に包まれている感覚だけがある。このぬくもりを桂子は知っていると思った。意識が目覚める前のまどろみの海にあるころの記憶。羊水はもとから子宮にあるのではなく、子を孕むと満たされるのだという。母と子で作りだす最初のもの。胎内にいた記憶など残っていないけれどおぼろげな既視感が透ける。無意識の深淵に格納されている最初の記憶があるとしたら、これなのかもしれない。あたりを包んでいた光が一点に集まり強く輝きだす。闇が光に収斂されていく。意識が回転しながら進み、光の欠片が粒となってきらめく。光に追いすがろうとした瞬間、ぱんとはじけ視界がホワイトアウトした。
 まっ白な空間にふたつの渦があった。はじめは小さく段々激しく、しだいに回転の中心から色がついていくと、真紅と白の長い毛がばさっばさっと大きな律動をもって回っているのだとわかった。視線が斜め後ろに引くにつれ周縁が姿をあらわにし、舞台の中央で紅白の親子獅子が毛を振り回していた。『連獅子』のクライマックスの毛振りだ。
 「中村屋!」の掛け声が大向こうから飛び、万雷の拍手が劇場をゆるがすと、黒柿萌黄の三色の定式幕が舞台下手へと引かれ客席がぱっと明るくなった。幕間を報せるアナウンスが響く。
 宙に浮いた意識は朱の欄干に囲まれた桟敷席をとらえる。
 ここは南座だ。二階三列目中央の左通路側席に肩までのボブカットで形も髪型もよく似た頭がふたつ並んでいる。あれは中学一年生の私とお母さん。二人で観た最後の顔見世だ。
「はい、これ」
 母が紙袋を桂子に手渡す。
「もうなんでサンドイッチやの。顔見世のお弁当いうたら幕の内やのに」
 母はぶつぶつ言いながら美濃吉の幕の内を膝に広げていた。

 万季の意識も宙にあった。
 視線を上に向けると南座特有の黒くがっしりした格天井が照明を反射している。
 たった今くぐり抜けてきた光の映像。あれは何だったのか。追い縋るように光の先へ手を伸ばした。
 ――お母さん、待って。
 ひた隠しにしていたひと言が無意識のはざまからこぼれ、熱いものがあふれそうになる。五年前に亡くなった母久乃への屈折した思慕が万季の胸をきりきりと締めあげる。
 あそこに座ってる桂ちゃんとうちは、まだ仲が良かった。
 公介さんと結婚してからは親子三人で顔見世観劇が年の瀬の恒例やった。この年は公介さんに急な出張が入って桂ちゃんと二人で。この日のことはよう覚えてる。桂ちゃんが幕の内やなくてサンドイッチを買ったことも。桂ちゃんが真っ赤なピーコート、うちがオフホワイトのショートコートやったことも。そして。
 あの男を見つけたことも。
 やっぱり、あれがあかんかったんやろか。
 万季は形のないため息を吐く。

第5話「Lost Memory」

「ほんで、期末テストはどないやったん?」
 南座の二階席でうつむきながら玉子サンドをもぞもぞとかじっている桂子に母が訊く。
 幕間で観客席はざわついていた。席を立つ人、弁当を広げる人、雑多な音がせわしなく不協和音を立てる。隣席の母の声がそれに混じる。
 あのころ桂子は何を食べても味がせず、うまく咀嚼できずにいた。顔をあげて母の横顔を見る。六年生から急に伸びはじめた背は母に追いつき、座ると同じ高さによく似た顔が並んだ。
(今なら言えるかもしれない)
 向かいあうと言えないことも、顔を合わせず前を向いてなら言えるかも。桂子は唾を呑みこむ。
「お母さん……あのね」
 隣の年配の女性客たちが演技がどうのこうのとうるさい。桂子の声がよく聞こえず、万季は文句を言ってやろうと右隣を向きかけて視線が一点に吸いつき止まった。
 南座の二階最前列は二十八席だけの特別席だ。二階席は一階に張り出すようになっていて真正面から舞台を見下ろすため人気が高い。チケットを取るのも至難といわれる特等席の、それも舞台真正面の席から男性が立ちあがり後ろを振り向いた。アイボリーのタートルネックに黒いジャケットをはおっている。その顔に万季の視線が貼りついた。
「学校に……」
 桂子は次の言葉がでない。ひと言発しただけなのに喉がひりひりと乾く。声帯の震わせ方がわからない。チューニングの合っていないギターみたいに掠れる。
「……行きたく……」
 上唇で下唇を巻きこむ。紅茶のペットボトルは強く握られへこむ。
「行きたく……な、い」
 無理にしぼり出した声は音量調整がうまくいかず、最後の二文字だけ甲高く響いた。もがく心の弦が誤ってはじけたようだった。
「なんで?」
 万季は隣の年配客にあいそ笑いをしながら口だけで尋ねる。
「クラスの、女子から……無視されてる」
 桂子はうつむいたままペットボトルに向かって、またミュートしかけの声で答える。
「いじめ?」
 万季はようやく桂子のほうを向く。

 入学式のクラス発表で茫然とした。六年生のときの同じクラスの女子がひとりもいなかったのだ。人見知りがちな桂子は、すでにいくつもできあがっている友だちの輪におじけづいた。それを察したのかどうか。母は「友だちは選ばなあかんよ。なるべく勉強のできる子とつきあいなさい」とクラス表を眺めながら告げた。
 そのころの桂子にとって母の言葉は指針だった。
 だから隣の席の安田さんではなく、授業でよく発言する川本さんに勇気をふるって話しかけにいった。桂子は廊下から二列目の一番後ろ、川本さんは窓際の前から二席目。対角線ぐらい離れていた。それがどんなに不自然な行為にみえるか。友だちはそんなふうにして作るものではない。その嘘くささを少女らは嗅ぎ分けていた。
 引き金は初めての中間テストの成績だった。国語の土屋先生は細かなことにうるさい学年主任だ。いつもぴりぴりとした不機嫌を眉間にぶら下げていた。だがその日はテストの束を脇に抱え、満面の笑みで「このクラスに学年一位がいます」と高らかに発表した。教室が鎮まる。生徒の関心を掌握したことに満足すると「樫本さんです」と告げ手する。クラスじゅうの視線がさっと桂子に集まった。先生の拍手だけが乾いた空気にむなしく響く。「いい気になって」棘のあるささやきが細波のように押し寄せた。
 その日を境に桂子はクラスで浮いた。
 「頭のええ人はえらそうや」とか「えこひいきされてる人はええねえ」とか、冷やりとした言葉の針が雑音に紛れこむ。息苦しくなって休み時間は教室から逃げた。
 ドラマのように暴力を振るわれたり、机に落書きされたり、物を盗まれたり、目に見える形で何かをされたわけではない。桂子が近づくと透明なシャッターのようなものが無音で降ろされ、通り過ぎるとひそひそ声がねっとりと絡まりながら追いかけてくる。冷水機で水を飲む、手を洗う、体操服に着替える、廊下を歩く、息をする。何をしても記号の言葉でひそひそと噂されている気がした。桂子のまわりの空気だけピリピリして、肌がかさかさして、喉が渇いた。

「無視……されてるだけ」
 桂子にはそれ以上に適当な言葉が見つからなかった。
「そんな子らには、勉強で勝ったらええのよ」
 母はナイフで切って捨てるように言い放った。そんな簡単なことを、とでも言うように。桂子は驚いて顔をあげる。
 視線がぶつかる――と思ったのに。そこに母のまなざしはなく、あったのは左の耳たぶだった。母は右に顔をかしげ舞台中央の方角を凝視していた。
 私の苦しみは、お母さんには取るに足らないことだったのか。
 お母さんなら、この沼のような苦しみから抜け出す道を示してくれるかも。縋るような期待が胸にあった。
 それが……一瞬にして瓦解した。
 ひとつだと信じていた世界にひびが入る。すぱっと切り裂かれた痛みに思考が凍りつく。指先が冷たくなる。
 隣にいるはずの母が遠くかすんでいく。
 劇場のざわめきも後退していく。
 意識が薄い膜につつまれたまま視線を膝に落とすと、入学祝いに祖父から贈られた腕時計が目に入った。短針と長針が縦に開いて十二時三十分を指し、文字盤の円を二分している。それはたちまちに真円をふたつに分かつ裂け目となり深い溝が穿たれた。だが、真二つに折れることはなく中途半端につながったままゆがむ。視界が縁から閉じていく。
 ぼーん、ぼーん、ぼーん。
 意識の奥のほうで時を刻む音が響く。すれちがったまま重ねた時を数えるように、右に左に振り子が揺れうずくまる心をゆさぶっていた。

第6話「Bitter Memory」

 うっすらと目をあけると頬は濡れてひりついていた。桂子は音のするほうに顔を向ける。一番の古時計はまだ十二時三十分を指していた。あの日でとまったままの時間。
「二人とも、ほら」
 不意にハンカチが差しだされた。ふくよかな手をたどると母の隣に父が座っていた。
「お父さん」
「あなた」
「なんで?」
 母と桂子の声が重なった。
「さすが親子。きれいにハモってるね」
 父は笑みを浮かべる。
「お義父さんがな、知らせてくれはった」
 祖父が湯気の漂うコーヒーを運んできた。カップを四客並べ、祖父は桂子の隣、公介の向かいに腰かけた。
「父さん、いらんことを。あなた、仕事は」
 斜め向かいから母が祖父をなじる。それを、まあまあとなだめ公介が言葉を継ぐ。
「ぼくがおっても役にたたんけど。きみが苦しんでたことも、桂ちゃんが自分を責めてたことも知ってる。胸にしまってることを二人とも吐きだせるよう、勇気をだせるよう、応援ぐらいやったらぼくにもできるやろ。家族なんやから」
 な、と公介は万季の顔を覗きこむようにしてその手をとる。
 男のくせに丸くてふっくらした湿っぽい手。その手で握られると、万季のささくれだった気持ちが凪ぐ。
「仕事は半休とったから気にせんでええ。ぼくの仕事が融通きくことぐらい、きみも知ってるやろ」
 父は製薬会社のMRで、看護師だった母とは定期訪問先の病院で知り合ったそうだ。
「お母さんはどんな場面を見たん?」
「桂ちゃんと最後に行った顔見世」
「同じや」
 桂子は古時計をちらっと見る。
「うちの言葉が桂ちゃんを傷つけたんやろ。でも、どこが、何があかんかったんか……」
 唾を呑みこみ母は喉を鳴らす。
「さっぱりわからんの、ごめん」
 テーブルに額がつくほど頭をさげると、つむじの根もとが伸びて白髪が渦の中心を形作っているのが目につく。
「お母さんが悪かったんやない……と思う」
 うまく説明できるかわからんけど、と言うと母が頭をあげた。
「クラスじゅうから無視された原因は勉強やった」
「やっぱり、うちが」と母が口を挟みかけるのを「あたし、話がへたやから最後まで聞いて」と制す。
 桂子は足もとを確かめるように話した。母にわかってほしいというよりも、自分で自分の心を確かめる作業だった。
「きっかけが国語で学年一位をとったことやったから、テストの点数を下げれば受け入れてもらえるって思った。けどお母さん、成績にうるさかったでしょ。英語が72点やったときは家庭教師の時間増やそうかって叱られて。こわくて60点台まで落とす勇気がなかった。成績を下げたい、けど下げるのもこわい。どうしたらいいか、わからんようになって」
 窒息しそうだった感情を思い出す。
 出口の見えないトンネルにいた。前にも後ろにも、右にも左にも進めず「勉強」の闇に押しつぶされそうだった。
 過ぎてしまった今ならわかる。少女たちの感情は単純で、そのくせ複雑で気まぐれ。きっかけなんて何でもよかったのだ、標的さえいれば。制服のスカート丈がなまいきだとか。男子に媚びを売ってるとか。いい子ぶってるとか。中学三年間でたいていの女子が一度ははじかれた。学校ヒエラルキーのトップにいても同じ。気まぐれに一人だけがはじかれる椅子取りゲーム。何でそんなことにエネルギーを使ったのか。誰もが思春期の扉の前でびくつき全身を逆立てていた。
「勉強で勝ったらええ、っていわれて呆然とした。勉強のせいやのにって」
「ほな、やっぱり」
 言いかけて母は、はっと口をつぐむ。
「でも傷ついたのとはちょっとちがう。うまく言われへんけど、お母さんがお母さんでなくなったことにショックを受けた……が近いかな」
「は?」
 母が調子はずれな高音を漏らし慌てて、ごめん、と口を閉じる。
「あの頃のあたしにとってお母さんは、おおげさやなく、神様と同じ存在やったの。何でもできて、何でもかなえてくれて。あたしのことは全部わかってくれてる絶対的な存在。大きな翼で庇護してくれる万能の存在って、ほんまに思ってた」
 それが、と桂子は続ける。
「望んでたのとは百八十度違う答えをすぱっと返されて。わかってもらえんのやって。絶望とはちゃうよ。衝撃……が近いかな」
 あの日の感情がフラッシュバックして喉がひりひりする。
「勉強がんばらんでええよ、っていうたら良かったんやろか」
 母が上目づかいできく。
「そやね、それに近いのを期待してたんやと思う、心のどっかで。お母さんならあたしの欲しい言葉をくれるって」
 クラスメイトの気持ちはどうにもできないから、成績を下げてもよい免罪符が欲しかったのだ。
「お母さんがね、急に知らない人みたいにみえた。それまではお母さんとひとつやったのが、すぱっと切り離された気がした」
 ちょうどあんな感じ、と言いながら桂子は古時計に目をやる。時計は十二時三十分を指して長針と短針が文字盤を二分している。

「でも、いちばん問題なのは、あの日のことをあたしが忘れてたこと」
 母が怪訝な顔をする。
「顔見世の後からかな。お母さんと話そうとすると心臓がぎゅって緊張して体じゅうの細胞がざわざわして逃げ出したくなった。何でそんなふうになるんか。どうしてお母さんに優しくできへんのか。笑顔がこわばるんか。友達はみんな、お母さんと高島屋で買い物して靴買うてもろたとかうれしそうに話すのに。何であたしはできへんのやろ、おかしいんやろかって」
 桂子は唇を噛みしめる。
 時のコーヒーでやっとわかった。
 あの日私は自分で「自立」の扉を閉めたのだ。
 母は万能の存在ではなく、自分と同じ人間でしかないという事実を認めるのが怖くて、ぱたんと扉を閉めて逃げた。母の翼の下から巣立つことを拒否しうずくまった。「母」という存在と向き合い精神的に自立しなければいけなかった。そのチャンスだったのに。無意識に蓋をしたため溝だけが残った。肝心のことを忘れているから、母から逃げたくなる感覚のわけがわからず戸惑い続けた。
 あの後ね、と桂子は回想する。
「学校に行けたり、行けなかったりしてたでしょ」
 朝になるとお腹が痛くなった。「生理でもないのにねえ。まだ周期が定まってないからやろか」元看護師の母も初めはそう見立てた。家にいればおさまる。けど母があれこれかまってくると、また痛くなる。よけいに母が心配する。そのループ。そのうちに母は桂子の腹痛が精神的なものだと気づいた。思い当たるのはクラスでの人間関係だけ。横になっている娘を残し、担任教諭との面談に出かけた。母が精力的に動き回るほど桂子は萎縮した。きっかけは学校だったはずなのに、いつのまにか母から逃げ出したくなっていて、そんな感情をどうしていいのかわからなくなっていた。
 学校を飛び石で休んでいるうちに、いじめのターゲットは他の子に移っていた。友達関係はなめらかになったけれど、母への感情は一方的にざわざわしたまま桂子の胸に巣食った。
 皮肉なことに成績は坂道をころがるように下がった。どうにも気力がわかず、高校も短大も母が選ぶところへ進学した。敷かれたレールに従いながら、母に対する感情との折りあいがつかず、桂子はどんどん自分の内側に閉じこもった。
  
 そこまで夢中で語ると、桂子は心臓のたかぶりを鎮めるように胸を両手で押さえた。長距離走を走り終えたあとのように呼吸が落ち着かない。自らの内にこんな感情が根をおろしていたのか。「わかってくれへん」とすねながら、同時に母から逃げようとする、その矛盾。あたしは、あの日の幼い感情のまま膝を抱えて心の奥底で閉じこもっていたのだ。
 万季はそんな娘をじっと見つめ、
「てっきり別のことが原因やと」と言いかけ口をつぐんだ。

第7話「Confession」

「別のことって何?」と問いかけた。
 顔見世観劇の同じ記憶を思い出したけれど。あたしがお母さんを避けてきたのは、いじめの告白とは異なる、まったく別のことが原因やと思っていたのだろうか。あのシーンのどこに、そんな場面が。

「たいしたことやないから忘れて」
 母が大げさにふる手を父がつかみとる。
「万季さん、逃げたらあかん」
「……ちゃうかったんやし、今さら」
「ずっと謝りたかったんやろ。このまま十字架を背負い続けるつもりか」
 公介が幼子を諭すように母にいう。
「……逆に傷つけてしまうかも」
 心細げに言葉が尻すぼみになる。
「万季、怖いか」
 祖父が低くよく響く声をなげた。
 母の視線が桂子の前で一時停止し、はす向かいの祖父へとうつろう。
「怖いよ。今度こそほんまに嫌われてしまうかもしれん」
「せやな。せやけど微妙にまちごうてる噂を桂子がどこぞで聞いて信じてしもたら、どないする? 訂正も謝ることもでけへんで」
 母は歯型がつくほどきつく下唇を噛みしめ、縋るように隣席の夫を見つめる。公介はそんな万季の手をさする。
 父も祖父も桂子も、母が口を開けるのを待っていた。
 時を刻む振り子の音が響く。
 かたかたと窓ガラスを十二月の風が鳴らす。
 だるまストーブの上でケトルがため息のような蒸気を漏らしていた。
 このまま時が止まってしまうのでは、そんな感覚にとらわれたときだ。
「南座のロビーで男の人に会うたの、覚えてへん?」
 和紙がこすれるほどの微かな声がもれた。

 弁当の折箱を片付け、舞台中央を見つめていた母は突然立ちあがると
「混む前にトイレに行こか」と桂子の手をつかみロビーに足早に向かった。 桂子は引きずられるようにして通路の階段をおりる。観音開きの扉を出たところで母が急に立ち止まり、桂子は前につんのめりそうになった。
 母が誰かにぶつかっていた。
 甲高い声で謝っていたが、知り合いだったようだ。
「娘の桂子です」
 きつく両肩をつかまれて、知らないおじさんの前に押し出される。
 男の横に訪問着姿の女性と桂子ぐらいの歳の少女が立っていた。桂子は中途半端に頭をさげ、足もとの真紅の絨毯を見つめていた。おじさんの顔は覚えていない。アイボリーのタートルネックしか目に入っていなかった。

「あの人が……あんたの……生物学上の、父親よ」
 母は言葉を絞りだし、最後は吐き捨てた。

第8話「Further Confessions」

 桂子の心は平坦だった。
 「生物学上の父親」と打ち明けられても、そう、と思っただけだ。ニュースキャスターが読みあげる原稿と同じで機械的に鼓膜をゆらしたにすぎない。不思議なくらい響かなかった。
 実の父は死んだと聞かされていた。墓参りに行った記憶も遺影もないから、おかしいとは思っていた。初めからいなかったから、なんの感慨もない。生物学上という無機質な学術用語が皮肉なほどしっくりくる。それくらい体温のある感情がわかない。桂子が「お父さん」とよびたいのは六歳の春から公介だけだ。一瞬すれ違っただけの人に波立つ感情などない。桂子と公介の仲の良さは母も知っている。公介が実の父親でないことは、初めからわかっていたことだ。
 それなのに、なぜ母はこれほど怯えているのか。首をひねって残像が頭の隅をかすめた。
「あそこにいたのは、あの人の家族?」
「そう」
「あたしと同じくらいの歳の女の子がいたよね」
「早生まれで、あんたより学年が一つ上よ」
 それが何を意味するか。
 母をまじまじと見る。母は耐えきれずに顔をそむける。
「そのとおりよ。不倫……やった。ごめん、ごめんな。うちがあほやったばっかりに」
 視線を膝に落としてこぼす。
「岩倉にそこそこ大きい総合病院があるやろ。きもの着てた人、奥さんなんやけど、理事長先生のひとり娘であの人は婿養子。いずれは病院を継ぐことが約束されてた」
「その人のこと、好きやったん?」
 顔をあげた母は眉を吊り上げて首を振る。
「看護学校を出たばっかりで世間知らずやったから、好きかどうかよりも不倫いうのに舞いあがった」
 ほんまにあほ、と肩を落とす。
「三十半ばの男にとったら新人看護師を手玉にとるのなんて手術一本こなすよりたやすかったんやろ。奥様が妊娠してはって、性欲のはけ口にされたんやね。ばかな小娘は不倫いう言葉に踊らされ、ドラマみたいやって有頂天になって好きいう気持ちと掃き違えた」
 あれほど言い渋っていたのに、長年つっかえていたものをぽろぽろと吐き出す。
「あたしが不倫してるのを母さんが知ったらどんな顔するやろ、抱かれながらそんなこと考えてた」
 なぜそこで祖母の久乃が登場するのか。屈折した心理がわからず、母親のセックスの告白に桂子は顔がほてる。
「妊娠がわかったときも、どないしよって慌てるより、これで母さんを困らせられるって思った。母さんが泣き崩れて、父さんがうちを張り倒して。ドラマみたいな修羅場を想像した」
 ほんまあほ、また自嘲する。
「娘を放ったらかしにしたから、こないなことになったって嘆けばええんやって。幼稚な感情をこじらせて、ほんまあほ」
 符丁のように「あほ」を繰り返す。
「命にたいしてこれほどの冒涜はあらへん。ごめんな、ほんまひどい母親で。ごめんな、かんにんな、ごめん……」
 唇をひきつらせ謝罪の言葉を重ねる。夫から渡されたハンカチはくしゃくしゃだ。
「その人に妊娠を言うたん?」
「言うたよ。ぼくの誘いに簡単に乗ったくらいや、他にも男がおるんちゃうか、ぼくの子やって証明できるんかって。医者やのにDNA鑑定を知らんのかって内心で毒づいてたら、机から紙を出してなんか書きだした」
 苦々しげに口をゆがめる。
「八坂から岩倉まで身重で通うのはたいへんやろ。七条の病院に紹介状書いてやったから、ここに移るとええ。ぼくから連絡しといたるって恩着せがましく言うて。紹介状をうちの胸ポケットに無理やりつっ込むと、すぐに内線で婦長に『小菅さん辞めることになったから手続き頼むわ』って」
 頭が真っ白になった。不倫をスタイルみたいに楽しんだ代償がこれかと、ようやく万季は自分の愚かさと事の大きさを理解した。悔しかった。でも、それ以上に自分に吐き気がした。
 帰宅後すべてを打ち明けると両親は一瞬顔を見合わせたが、
「あら、まあ、あたしおばあちゃんになれるのね」
 母の久乃が微笑んだ。万季は号泣した。

第9話「Old Complaints」

「万季、おまえ……ほんで不倫を」
 祖父が低くうめく。
「そないに久乃にかまってほしかったんか」
「かまってほしかった。家にいてほしかった。さびしかった」
 言い募る母が少女にみえた。
「小学生のときに男子と取っ組み合いのケンカばかりしたのも、母さんが学校に呼びだされると思ったから。けど、来るのはいっつも父さんやった。そらそうよね、家におるんやもん」
 母は店内を見回す。
「こんな流行はやらん店なんかせんと、父さんが会社勤めしてくれたら母さんが働かんでもええのにって。せやから店は大嫌い」
 祖父は前かがみで腕を組み、しばらくうつむいていた。
「わしの収入だけでも暮らしていけてたんやで」
 眉間の皺を指でつまみながら、四十をとっくに過ぎた娘の顔を窺う。
「ろくに客もおらんのに?」
 万季の語尾がぴんと跳ねあがる。
「たしかに店は儲かってへんかった。けどな、わしはずっと税の区分上は会社員で給料もらっとったんや」
「は?」
 万季は思わず身を乗りだし、コーヒーをこぼしかける。
「おまえらが暮らしとる岡崎の家もそやけど、この店も、一刻堂不動産が管理しとる物件で、わしは一刻堂の常務取締役や。今もな」
「はあ?」
 弦の切れた声がふらつく。
「桂ちゃん、あんた、知っとったん?」
「うん」
 桂子はちらりと隣の祖父に目をやる。祖父がうなずくのをたしかめてから続けた。
「店継ぐときにおじいちゃんから説明受けた。あたしも一刻堂の社員よ」
「なんで……」
 万季は言葉を失って口を閉じることも忘れ、祖父と桂子のあいだを視線を泳がせる。
 ――なんで自分だけ知らなかったのか。
 わかってる、知ろうとせんかった。勝手にすねて、ひねくれて。たいせつなもんをどれだけ取りこぼしてきたんやろ。両の掌を開いて指のあいだを見つめ、ぎゅっと握りしめる。

「小菅家は昔から借家をいくつか持っててな。それらを学生向けアパートにせんかいう話が持ちあがった。いっそのこと会社組織にして管理しよかってなって、親父から手伝うてくれ云われた。ここでカフェをさせてくれるんやったらと交換条件をだした。管理物件の運営部門いう名目や。ちょうど久乃の腹におまえが宿ってた。カフェをしながら俺が子どもを育てたら、久乃が看護師の仕事を辞めんですむ。客のおらんときに帳簿つけたり、新規物件探したり。コーヒーを飲んでもらいながら物件契約もした。一刻堂の業務以外にも『クロノス』いう時計の専門誌にコラムを連載したり、タウン誌にも寄稿しとったから、そこそこの収入があったんや」
「父さんの収入だけで暮らせてたんやったら、なんで母さんは看護師を辞めへんかったん?」
「久乃は看護師になることを親から反対されとった。それでも諦めずに叶えた夢を、赤ん坊ができたから辞めろとは言えん。続けさせてやりたかった」
 祖父はしばし瞑目する。
「母と娘いうんは、難しいもんやなあ。久乃はおまえと逆やったんや」
「逆?」
「久乃の母親、麩屋町ふやちょう祖母様おばあさまはなあ、神経質で心配性な人でな。久乃が怪我せんように、風邪ひかんように。熱出しただけで大騒ぎやったそうや。真綿でくるまれるようにだいじに育てられたけど、何ひとつ久乃の自由にはならんかった。久乃はおっとりした性格で、祖母様はせっかち。久乃が動く前になんもかもが整えられとった。ありがたいけど息苦しかったそうや」
「桂ちゃんと、おんなし……」
 そや、と祖父がうなずく。
「看護師はな、久乃が初めて祖母様に逆らってでも貫きとおした夢やった。久乃はおまえのことを放ってたんでも、愛してなかったんでもない。参観とか行事には仕事をやりくりして行っとったやろ」
 母がそっと目尻を押さえる。
「わかってたよ、母さんがうちのために無理してくれてるの。でも、それが嫌やった。なんで無理して、してもらわなあかんの。疲れてる母さんにわがままいうたらあかんて我慢した。けど、なんで我慢せなあかんのって気持ちもあった」
「そうか」
 万季が抱えてきた屈折した思い。それを誰が責めることができるだろう。
「そやのに、なんでおまえも看護師になったんや」
「気づいたら進路調査書に書いてて……自分でもびっくりした」
 母が看護師であることは、万季の自慢でもあったのだ。いといながらも、誇る気持ちとのせめぎ合い。自分の感情をうまく整理できず折り合いをつけられずにいた。
「公介君との結婚を機に看護師を辞めたんは、さびしい想いを桂子にさせとうなかったからか」
「そう。うちが子どものころに母さんからして欲しかったことを、桂ちゃんに全部してあげよう思った。最初を母親としてまちごうたから」
 自嘲ぎみに口をゆがめる。
「あんな、もひとつ謝らんとあかんことがある」
 万季は桂子に向き直り、姿勢を正した。

第10話「Another Confession」

「あんたに中学受験をさせたやろ」
 六年生を控えた春休みに突然、同志社中学の受験を母から提案された。塾に通ってはいたけれど、中学受験の勉強をしていたわけではない。あのころからだ、母が桂子の成績をとやかく言いだしたのは。一年そこそこでは準備が足りずもちろん不合格だった。
「南座のロビーで会うた、あの人のお嬢さんが同女、同志社女子中学に合格したいう噂を聞いたんや」
 そういうことか。塾からも何度も志望校を下げるようにと説得されたが、母は頑なに受け入れなかった。
「桂ちゃんが同志社に行ったら、見返してやれると。意地になって、しょうもない対抗心を持ってしもて。それがまさかいじめにつながって、桂ちゃんを苦しめることになるとは思うてもみんかった。かんにんな。自分のこと棚にあげて、とことんあほな母親でごめんな」
 学校に行けなくなったあの頃、お母さんがあんなに熱心に学校と交渉してたのは、母なりの負い目があったからか。それがかえって、桂子には追い詰められているようで苦しかったのに。
 あたしも、お母さんも、ちょっとずつ言葉が足りなかった。もつれた糸は、無理に引っ張れば引っ張るほどほどけなくなる。
 ――あのころに、と桂子は考える。
 お母さんと自分とにちゃんと向き合っていれば、こんなふうにもつれることはなかったんやろか、でも……。中学生のあたしが、不倫とか受けとめることができたやろか。たぶん無理ね、と否定する。お母さんのことを不潔やと毛嫌いし、あげくのはてに自分の存在も否定したかもしれん。
 
「桂子、はっきり言うとく」
 祖父が桂子に真剣なまなざしを向ける。
「おまえが万季の腹にいるとわかったとき、わしも久乃も、ほんまに喜んだ。不倫やとか、婚外子やとか、そんなもんは法律の区分だけの話や。生れてくる命とは関係あらへん。そないなことでおまえの価値が下がるわけちゃう。おまえが時の記念日に生まれてくれて、時の神様が授けてくださったんやと思った。こないに嬉しいことはなかった」
 母の目は真っ赤だ。公介がその肩をさすっていた。
「桂ちゃんは、うちの宝物。それはほんとよ。かわいくてかわいくて。ほんで、行き過ぎてしもたんやね。最初をまちごうたから、これ以上はまちごうたらあかんと。心配ばっかり先だって、がんじがらめにしてしもて。麩屋町のおばあちゃまとおんなしことをしてたんやね」
「お母さん……」
「ごめんな、何ひとつうまいことでけへん母親で。父さんに入院先の病室でさとされるまで気づかんかった」
「え?」
 桂子は祖父に首を向ける。祖父は店を桂子に譲る二年前の年末に肝炎で入院していた。
「賭けやった、桂子が乗ってくるかどうかは」
 祖父はにっと笑う。
「おまえたちを引き離したほうがええ思てた。万季は過保護になっとるし、桂子は縮こまって動けんようになってたからな。共依存いう言葉があるんやてな。万季は桂子にかまうことで、幼い頃の満たされへんかった自分自身をかまってたんとちゃうやろか。桂子もな、拒否しながらも甘えてたんや。お互いがお互いを必要としてがんじがらめになっとる。一人暮らしさせるんがええ思た。けどな、わしからお願いして、やってくれへんかでは、ほんまの自立にはならん。せやから、『店を畳もうと思てる』いうた」
 桂子は「あっ」といって両手を口の前で合わせる。
 祖父はまなじりを下げてうなずく。
「自分から『やる』いうのが、だいじやった」
 連獅子の子落しの場面を思い出した。獅子は子を深い谷に蹴落とし這いあがってくる子を育てるという。
 桂子は店内を見渡し、この二年を想う。わずかだが祖父から継いだ店に桂子の色もついてきているだろうか。
 モミの木の緑がかすかに薫った。

第11話「The Old Clock」

 からからから。
 格子戸が乾いた音を立ててすべり、寒風がさっと吹きこむ。
「うー、さぶ。桂ちゃん、こさえてきたで」
 泰郎さんが小脇に何かを抱えて入って来た。
「泰郎君、ええとこに来た」
 祖父が高く手をあげて招く。
「なんや、皆さんお揃いで」
 ぺったぺたとクロックスが土間を鳴らす。さすがに裸足ではないが瑠璃ちゃんがまた呆れそう、と桂子はくすっと笑くぼをへこませる。
「万季、けったいなかっこして、こそこそうろついてるんやてな。皺しわの京雀たちが楽しそうに噂しよるぞ」
「大きなお世話よ」
 二人の掛け合いに目を細めながら公介が隣のテーブルから椅子を一脚運んでくる。
「公介さん、おおきに」
 泰郎はどっかと古時計の対面に腰かけると、
「桂ちゃん、こんなんはどないや」とガラスの皿を斜め前方の桂子に渡す「何それ」と万季も身をのりだす。
 細かな気泡が散らばるガラスの丸皿に、金属の細い長針と短針が嵌めこまれ、皿の縁には金の点が時計の文字盤と同じ十二個並んでいる。桂子はキッシュランチ用の皿を泰郎に頼んでいた。
「何時がええか迷た。食べていくと針が現れて、時計やとわかるほうがおもろいか思ってな。右下にキッシュを置いてたやろ。四時の短針の上にキッシュを盛ったらどないやろか」
「すてき」
 桂子が目を輝かす。ふうん、と万季が鼻をならす。
「これ二十枚作ってもらえる?」
 桂子と泰郎のやりとりを目尻をさげながらながめていた祖父は、交渉終了とみてとると話の矛先をかえた。
「あんな、桂子。泰郎君が毎朝通ってくれとるやろ。わしが店をやっとったじぶんは、気の向いたときだけやったんやで」
「えっ」
 桂子は皿を手にしたまま泰郎に顔を向ける。泰郎は人差し指でこめかみをさすり目をそらす。
「おまえに店をまかせるときに泰郎君に頼んだんや。さすがにわしも心配やったからな」
「今さらばらさんでも」
 泰郎が祖父をにらむ。
「桂ちゃん、誤解したらあかんで。俺は無理して通ってんとちゃう。毎朝楽しみなんや。ここで朝の一杯を飲まんと一日がはじまらん」
 左右の手をちぐはぐに動かしながらまくしたてる。
「瑠璃が結婚した寂しさも、まぎれとる。おおきにな」
 おはようさん、と泰郎が格子戸から顔をのぞかせると店を開ける。それがおきまり。そう思いこんでいた。
 桂子は祖父と泰郎を交互に見る。泰郎は首の後ろを搔いていた。
「瑠璃ちゃんにも頼んだんや。けど、大きなお世話やいうて断られた」
 くっ、くっ、くっと祖父が思い出し笑いをする。
「お願いされんでも入りびたるにきまってるやん。けいじいちゃん、早よ引退したらええのにって前から思ってたわって。そない言われた」
 わっはっはは、と祖父は堪えきれずに腹をかかえる。
「瑠璃あいつ、そんなこと言うたんか。口の悪い娘ですまん」
 謝りながら泰郎は急に気づいたのだろう。
「あかん、店ほったらかしにしてきたから戻るわ。こういうときに限って瑠璃に見つかるんや」
 そそくさと立ちあがる。
「万季、冬にグラサンはやめとけ。公介さん、今度ゆっくり祇園で。正孝いうおもろい男がおるから、そいつも誘うわ。ほな」
 盃を傾けるしぐさをしながら、からからと、引き戸をすべらせる。
「せわしいやっちゃな」
 風に巻きあげられた暖簾の裾が格子戸にはさまった。
 店はまた静寂を取り戻す。かたかたとガラス窓が風と戯れる。
「コーヒー冷めてもたな」と祖父がカウンターに戻る。
 豆を挽く鈍い回転音が響く。ゆっくりと時が螺旋でほぐれる。

「これ、ええやん。泰郎にしたら上出来や」
 母がガラスの皿を手に取る。
「あいかわらず、ええ仕事しはるなあ」
 公介が細い目を糸にして感嘆しながら桂子に目をやる。
「桂ちゃん、ランチはじめたんやな」
「一日十八食だけよ。慣れたらもうちょっと増やせるかもしれんけど、今はそれがせいいっぱい」
 桂子は笑くぼをきゅっとすぼめる。
「ぼくもお母さんといっしょに食べに来ても、ええやろか」
「ちょっ……あなた、勝手になに言うてはるの。桂ちゃんのじゃまに……」
「いつでも、どうぞ。ほんでアドバイスもらえたら、うれしい」
「えっ」
 母が皿に手を添えたまま桂子を見つめ、口角を微妙にあげて泣き笑いのような顔をする。涙の筋跡がファンデーションを剥がしていた。
 こんなにお母さんと向き合って話したのは、いつぶりやろ。
 目の前の母は眉をさげて頬をぴくつかせ、ためらいがちな笑みを貼りつけている。怒られるのかとびくついている少女のようだ。
 不倫をしていたのか、この母が。それも子どもが駄々をこねるような理由で。
 ――この人の不倫のはての婚外子か。
 なんか言葉に現実感がなさすぎて、ぴんと来んけど。だからといって、あたしがあたしでなくなるわけやない。
 桂子は掌を広げてかざす。
 おじいちゃんがいて、お母さんがいて、お父さんもいる。瑠璃ちゃんも、泰郎さんもいて、カフェがある。なんも変わらん。
 おじいちゃんの云うとおり。あたしはあたし。
 そうよね、と古時計を見あげる。
 なんだかあほらしなって、おかしくなって、お腹の底から笑いがふつふつとこみあげる。
 母も祖母に甘えたい子どものまま大人になってた。お母さんも、あたしも、いつまでも自立でけへん子どもやった。それだけ。
 それだけのことを、こんなにこじらせてたなんて。
 似た者どうし、ね。
 そう思うと堪こらえきれなくなって、桂子はぷふっと吹きだし、目尻の玉を人差し指の関節で拭う。
「どないしたん?」
 母が心配そうにのぞきこむ。
「お母さん、顔見世に行かへん?」
 亜希がくれたチケットをテーブルに置く。
「あら、あの日とおんなし二階席やね」
 もう一度あそこからはじめよう。

 ぼーん、ぼーん、ぼーん。
 はじまりの古時計がうなずくように時を打つ。

(6杯め The End)

「またのお越しをお待ちしております」 店主 敬白

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