『オールド・クロック・カフェ』4杯め <全文>
その店は、東大路から八坂の塔へと続く坂道の途中を右に折れた細い路地にある。古い民家を必要最低限だけ改装したような店で、入り口の格子戸はいつも開いていた。両脇の板塀の足元は竹矢来で覆われていて、格子戸の向こうには猫の額ほどの前庭があり、つくばいに浮かぶ玉椿があざやかだ。格子戸の前に木製の椅子が置かれ、メニューをいくつか書いた緑の黒板が立て掛けられていなければ、そこをカフェと気づく人はいないだろう。
そのメニューが変わっていて、黒板には、こんなふうに書かれている。
なぜメニューに時刻がついているのかはわからない。そこにどんな秘密があって、何を意味しているのかも。ときどきこの風変わりな黒板メニューに目を止め、開け放たれた格子戸から中をいぶかしげにのぞきこむ人がいる。
いらっしゃいませ。ようこそ、オールド・クロック・カフェへ。
あなたが、今日のお客様です。
第1話:Fourth Cup of Time Coffee
今朝はことのほか冷えると思ったら、軒に細い氷柱がぶら下がっていた。剣先からぽたりぽたりと滴を垂らし、朝の光を反射して、あたりの空気がさんざめく。
きれいだな、と桂子はつま先立ちで顔を近づける。
そのままにしておきたかったけれど、滴がお客さまにかかっては、と箒の柄で払い落とす。傍らのつくばいに張った氷を取り除いていると紅椿が一輪ぽとりと着水して、思わず小さく拍手した。
落ちてなお天を見あげる椿が、桂子は好きだ。
かじかんだ手をこすり合わせながら店に入ると、だるまストーブに火をいれる。ストーブは入り口すぐのカウンター脇に一つと、三つ並んだテーブル席に等しくぬくもりが届くよう、中央のテーブルを少し後ろの壁に寄せて空いたスペースに一台置いている。ケトルに湯を沸かし、椅子の背に一枚ずつ厚めのブランケットをかけてまわる。古い町家だから、朝一番の店内は底冷えがする。でも、この凛と張った冷気がじわじわとほどけていく時間がいい。髪を高く団子にまとめて無防備な首筋をすきま風になでられ、桂子は生成りのタートルネックを首いっぱいまで引きあげる。屋内が暖まるにつれ、中庭に面した窓ガラスがほんのり白く曇りはじめる。壁を埋めるように掛けられている32台もの柱時計たちが、勝手気ままに時を刻んでいる。
もうすぐ泰郎さんがやって来る。
つぶやいたそのとき、からからと格子戸が音をたててすべった。
「桂ちゃん、おはようさん。今日はまた一段とさぶいな」
首に千鳥格子のマフラーをぎゅっと結び、グレーのダウンジャケットにモスグリーンのカーゴパンツ姿の泰郎が足音を響かせながら入ってきた。さすがにこう寒いと作務衣にクロックスの定番姿ではない。
「寒くなると、お父さんのかっこうがちょっとだけマシになるんよね」と娘の瑠璃ちゃんはいう。「しょせんは裏起毛のパンツやけど」とため息をついていたのを思い出し、ストーブで手を暖めている泰郎の背に、くすっと笑みがこぼれる。瑠璃ちゃんは桂子にとって姉みたいな存在で、去年の六月に結婚した。
「泰郎さん、いつもので、いい?」
「ああ。厚切りトーストにバターたっぷりな」
「玉子はどうする?」
「せやな、今日はスクランブルにしてんか」
手が暖まったのだろう、泰郎がカウンターに腰かける。
桂子は湯気を漂わせるグラスを泰郎の前に置く。白い半透明のグラスは、ところどころ気泡が浮いていて、それが景色になっている。
「俺のこさえたグラスやな」
泰郎は近くの茶わん坂で工房を営むガラス工芸作家だ。
「柚子茶なの。体があったまると思う」
「おおきに、いただくわ」
泰郎は柚子茶をひと口すすって新聞を広げる。
こぽこぽとサイフォンのつぶやく声と、柱時計たちが時を刻む音だけが響く。祖父が店をやっていたころから音楽は流さない。「時計が時の音色を奏でてくれとるんやさかい、音楽はいらん」が祖父の持論だった。桂子もそれを守っている。
「おっちゃん、おったぁ」
幼稚園児くらいの男の子がほっぺたをまっ赤に上気させ、格子戸を勢いよくあけて駆けこんできた。静寂がパンとはじけ、たちまち活気が店に広がる。時計まで、ぼーんぼーんとはしゃぐ。
「お、ひろ君か」
泰郎が新聞をたたんで立ちあがり、広げた両手に男の子が飛びつく。
「ひろ君、走らないでって言ったでしょ」
女性が肩で息をしながら後を追って入ってきた。ボブカットの髪が乱れて口の端に斜めに貼りついている。
「ひろ君、由真さん、いらっしゃい」
桂子がカウンター越しに声をかける。
「桂ちゃん、俺のコーヒーもあっちのテーブルに運んでんか」
泰郎が大樹を抱っこしたまま、テーブル席に向かう。
祇園祭のころ、茨城からバイクでやってきた男性がいた。
松尾晴樹と名乗った彼の元恋人が由真さん。由真は妊娠していることを告げずに晴樹と別れ、京都に帰って大樹を産んだ。自分に子どもがいることを晴樹が知ったのも、わが子とはじめて会ったのも、昨夏の祇園祭だった。大樹は四歳になっていた。春から親子三人で茨城で暮らすと聞いている。
「それで、いつ、茨城に行くんや」
泰郎が大樹を膝に乗せたまま尋ねる。
「三月の中頃に。なるべく早くと思ってるんですけど」
由真がおっとりと話す。
「ほな、じきやな」
「ひろ君、パパと暮らすの楽しみか」
「うん!」満面の笑みで大樹が頭をそらして、泰郎を膝の上から見あげる。
「ひろ君、ココア熱いから気をつけてね」
桂子は大樹の前にココアを置き、中庭側の壁にかかっている長刀鉾の柱時計に目をやる。
祇園祭の宵山の朝だった。
晴樹は祇園祭の長刀鉾をかたどった珍しい形の柱時計に選ばれて「時のコーヒー」を飲んだ。
「時のコーヒー」は、時計に選ばれた者だけが飲める特別なコーヒーだ。飲むと眠りに落ち、忘れていた過去の映像を見る。祖父によると「時計が時のはざまに置いてきた忘れものに気づかせてくれる」らしい。桂子自身は時計に選ばれたことがないので真偽のほどはわからない。でも、桂子がカフェを継いでからこれまでに四人のお客さんが「時のコーヒー」を飲んだが、皆、眠りから覚めると過去の忘れものを思い出していた。
泰郎さんも、そのうちのひとりだ。
瑠璃ちゃんの結婚前に時のコーヒーを飲んで、幼かった瑠璃ちゃんとの約束を思い出し、美しいガラスのネックレスをこしらえて花嫁の瑠璃ちゃんの胸を飾った。
あれは、きれいやったなぁ、と桂子はうっとりする。
松尾晴樹は東京駅で由真と別れたシーンを見たそうだ。
それが、いったん切れてしまった晴樹と由真の糸を縒りあわせ、大樹と結びつけた。
カウンター越しに大樹と由真、泰郎を眺め感慨にふけっていると、また、からからと音を立てて格子戸が開いた。
「いらっしゃいませ」顔を向けると、瑠璃ちゃんが立っていた。
「お父さん、まだ、おるの。もう、店開ける時間やで」
ほんまに、もう。と瑠璃はぶつぶつ言いながらペールグレーのコートを脱いでハンガーに架ける。後ろからもうひとり、同じくらいの年齢の女性が入ってきて、店内の柱時計に「うわぁ」と声をあげる。
「ひろ君、こわいお姉ちゃんが来たから、おっちゃん帰るわ」
泰郎が大樹を膝からおろして告げる。
「ひろ、おっちゃんに会いにきたのに。いばらきに行ったら会えんようになるってママがいうから。きょうは、おっちゃんと遊ぼうと思っとったのに」
大樹がくるりと泰郎の方に向き直って訴える。
「ほんなら、おっちゃんの店に来るか?」
「うん! 行く!」
大樹の顔がぱあっと輝く。
「ちょっ、ひろ君。待って。泰郎さんはこれからお仕事なんやから」
由真が慌てて、駆け出しそうな大樹をつかまえる。
「たいして客も来おへんから、かまへんで」
「でも、ご迷惑では」
由真が大樹を押さえながら上目づかいで泰郎を見る。
泰郎が大樹を抱きあげる。
「ほな、行こか。桂ちゃん、またな」
「瑠璃、頼まれてたグラスできてるから、いつでも取りに来い」
からからから。泰郎が格子戸を開ける。
ぼーんぼーん。時計たちが、いっせいに鳴りだした。
大樹が泰郎に抱かれながら、時計たちに「バイバーイ、まったねー」と手をふる。
第2話:hesitation
大樹と泰郎を追いかけ由真が格子戸を閉めると、ざわめきも戸外へと潮の引くように遠のいた。
時計も声量を落とし、いつもどおり気まぐれな時を刻む。
冬の淡い日がためらいがちに射し、前庭と中庭の両方の窓辺をほんのり明るくする。
時計に囲まれたカフェは、逆説的に時を忘れる静寂につつまれる。
瑠璃と来た女性はコートを脱ぐのも忘れ、両手を胸の前でぎゅっとあわせ壁の柱時計を端から一つずつ数えるように見て回っていた。店内は明るくもなく、暗くもなく、角のとれた冬の光が、時計のそれぞれにやわらかな陰翳をつけ、埃のダンスを浮かびあがらせている。
「すごいでしょ」
瑠璃が、その背に得意げな声をかける。
「環に見せたかったんだ」
瑠璃は黒目がちの大きな瞳が印象的でビスクドールのような顔立ちだ。環と呼ばれた女性は、切れ長の双眸が理知的な美人だった。興奮と驚きで虹彩を輝かせ、瑠璃を振りかえる。
「まるで時計の博物館ね。いったい、いくつあるの?」
「ぜんぶで32台です」
泰郎たちが居たテーブルを片付けながら、桂子が答える。
「祖父が大の時計好きで。東寺の弘法市や寺町のアンティークショップで見つけるたびに買い求めたそうです」
えくぼを深くして微笑む桂子の肩に手を回し、瑠璃は
「この子は桂ちゃん。うちの妹やねん。かわいいやろ」と自慢する。
「何いうてんの。瑠璃は私と同じで、父ひとり娘ひとりのひとりっ子やろ。同じいうても、瑠璃のお母さんは事故で亡くならはったけど、うちのお母さんは……」
しだいに声を細らせ自嘲ぎみになり、環はハッと口をつぐむ。
瑠璃はそれを気にするふうでもない。
「ここの時計には、不思議な力がある……」
「て言うたら、どうする? 理系思考の環ちゃんは」
大きな瞳をからかうように揺らす。
「あほらし」
環は一蹴する。
「物事には必ず原因と結果がある、やったっけ?」
わざとらしく首をかしげながら、瑠璃は環の顔をのぞきこむ。
「そう。世の中で超常現象といわれているものにも理由がある」
何をあたりまえのことを、と環はあきれ顔で見返す。
「環とは高校からのつきあいやけど。ときどき、このかっちんこっちんの頭をもみほぐしたくなるわ」
「はあ? 何いうてんの」
環は自分に向かって伸びてきた瑠璃の手を払いのける。
そのやりとりを背後で眺めながら、ふふっと桂子は笑みをもらす。
――瑠璃ちゃんが、いつも以上に生き生きしてる。
祖父から店を継いで一年になるが、瑠璃が誰かを連れてきたのは初めてだ。瑠璃がカフェに来る目的は桂子とおしゃべりをするためだから、いつもひとりでふらっと現れる。だから、環を連れて来たのには何か理由があるのだ、きっと。
「時のコーヒー」
ぽつり、とつぶやくと瑠璃は壁の柱時計をぐるりと見渡す。
何それ、と言いたげに環は瑠璃を見る。
「ここの時計には不思議な力がある、言うたやろ」
「それが、時のコーヒー」
「時計に選ばれた人しか飲めない特別なコーヒーで。飲むと時のはざまに置いてきた忘れものに気づくことができる」
また瑠璃はわけのわからんことを、と環はため息をつく。
瑠璃は肩越しに振り向いて、テーブルを拭いている桂子に話をふる。
「うちでは信じてもらえんみたい。桂ちゃんから、この頭の固い人に説明してくれる?」
突然のむちゃぶりにとまどいながらも、桂子は盆をテーブルに置いて姿勢をなおらい、にこりとほほ笑む。
「環さん、とお呼びしてもよろしいでしょうか」
もちろん、と了承するのを確かめてから、桂子は続ける。
「カウンターの後ろに小抽斗がたくさんついたアンティークの箪笥があるのが見えますか」
ええ、と環がうなずく。
「抽斗には、1番から32番までの番号が付いています」
「同じように、時計の脇にも番号を記した真鍮の板が」
環が近くの時計に歩みより側面を覗きこむ。「ああ、これね」
「時計と抽斗の番号は対応してて、抽斗にはそれぞれに違う豆が入ってます」
「注文をとるタイミングで時計の一つが、時刻でもないのに鳴ることがあって。その鳴った時計の番号の豆を挽いて淹れるのが『時のコーヒー』です」
「飲むとたちまち眠りに落ちて、過去の忘れていた映像を見るそうです。それを祖父は、時のはざまに置いてきた忘れもの、と言ってました」
環はあからさまに不審をまとわりつかせた視線を向けながら、それでも、どんな些細な疑問もそのままにはできないのだろう。
「瑠璃が、時計に選ばれた人しか飲めないって言ってたけど。それって、どういうこと?」
桂子はわかってもらいたくて言葉を探す。
「祖父から聞いたとき、私も信じられなくて。それで、1番から順に試し飲みをしてみたんです。もちろん時計が鳴っていないときに」
「32番まで飲んでも、ちっとも眠たくならへんし、なんにも起こらなくて。どれもふつうに美味しいコーヒーでしかありませんでした」
「うちが店を継いでから四人のお客様が時のコーヒーを飲まれましたが、どなたもひと口飲まれると、たちまち眠りに落ち、目覚めると、その方にとって大切な何かを思い出されて」
そこで桂子は深くひとつ息をつぐと、環をまっすぐ見つめた。
「時計が鳴ってくれないと、同じ豆で淹れても不思議は起こらない。時のコーヒーにはならないんです」
美しい切れ長の目を眇めながら、環は信じられないという表情で桂子と瑠璃を交互に見やる。ふたりとも環の視線に動じない。
環は一番手近にあった椅子の背もたれをつかみ、ためらいがちに言葉を口にのせる。
「だから、時計に選ばれた人しか飲めない……なのね」
「そう。それで、そのラッキーな四人のひとりが、うちのお父さん」
どう、これで信じる? とばかりに、瑠璃がその高く筋の通った鼻梁を上に向ける。
「はぁっ?」
環がオクターブ高い声をあげ語尾を跳ねあげる。
「あの、それと……」
桂子がおずおずと声をはさむ。
「瑠璃ちゃんのお父さんと一緒にいた小さな男の子、ひろ君ていうんですけど、あの子のお父さんは四人めの『時のコーヒー』のお客様で。時のコーヒーを飲んで、ご自分にひろ君ていう息子がいることを知らはったんです。この三月から親子三人で茨城で暮らすそうですよ」
「えっ。まじ?」
先に声をあげたのは、瑠璃だった。
ああ、それなら、お父さんたちを追い払うんやなかった。
頭を抱えながら、瑠璃は「失敗したあ」としきりにぼやく。
環は呆然と立ち尽くしていた。脳内で桂子の話を反芻する。ときどき突拍子もないことを言いだす瑠璃は別として、桂子は誠実そうだ。その彼女がまっすぐな瞳で妖しげなコーヒーのあり得ない力を話すなんて。結果には何か原因があるはずよ。だるまストーブの内では、ほら、物理法則が燃えてるじゃない。
「まあ、立ち話もなんやし、とりあえず座ろう。環もコートを脱いだら。桂ちゃん、お水をちょうだい」
瑠璃がパンとひとつ手を叩いて場をしきる。
その拍手で環は我に返った。ストーブの炎が前頭葉で揺らめいている。
「足もとが冷えるようでしたら、ブランケットをお使いくださいね」
コートを入り口近くのハンガーに架け、環が腰かけようとしたタイミングで桂子が、テーブルにグラスをふたつずつ並べる。片方のグラスからは白い湯気が陽炎のように立ち昇っている。
「こちらは柚子茶です。体があったまると思うんで、どうぞ」
「好きやからうれしいわ。ありがとう」
環はゴブラン織りの椅子の背からブランケットを手にして腰かける。
ぼーん、ぼーん、ぼーん。
突如、くぐもったような重低音が空気を震わせる。
「鳴った!」
瑠璃が興奮してテーブルに手をつき立ちあがる。
「どれ? どの時計が鳴った?」
「16番の時計みたい」
桂子は店の奥の壁を指さす。緑の横長の時計が、置床式の古時計の隣に掛けられている。古時計が目を引くため気づかなかったが、丸い文字盤の両脇に緑の翼のようなものが張り出していて、文字盤の下には剥き出しで二本の錘がぶら下がっている。風変わりな意匠の時計だ。
「環、飲むよね、時のコーヒー」
瑠璃が大きな瞳を凛と張って環を見据える。
「瑠璃ちゃん、強制はあかん」
言いかけた桂子を瑠璃は手で制し、視線は環に焦点を当てたまま、ぴくりともそらさない。こんな真剣な瑠璃を、環は未だかつて知らない。
瑠璃は標的を定めたハンターのような視線で宣告する。
「環、あんた、正孝さんからのプロポーズためらってるやろ」
第3話:Old Scar
正孝が環にプロポーズしたのは、先週の土曜の夜だった。
その日は環の30歳の誕生日で、祇園の石塀小路を抜けた先にあるイタリアン『イル・プリモ』の個室を予約してくれていた。
籬に連なる門は檜皮の小屋根付きで、門には海老茶の麻の長い暖簾がかかり、寒風をいなしていた。そこがイタリアンのリストランテであると知らねば料亭とみまがう佇まいである。暖簾をくぐると御影石の玉砂利がのび、キャンドルを浮かべた青竹がぽつぽつと足もとを照らし玄関へといざなう。
正孝は緊張を肩に一文字に張り、ぎこちない足取りで、環の三歩前を行く。
無理して似合わないところを予約しなくてもいいのに。
関節にボルトでも入っている操り人形みたい。環はため息をつく。
宇治市役所の総務部市民税課に勤める正孝は、まじめが服を着ているようなタイプだ。
女子高時代の友人の詩帆に誘われしかたなく参加した婚活パーティで出会った。容貌も身長も性格も、どれをとっても、可もなく不可もなく、目立つところもない代わりに不快なところもない。その他大勢として誰の記憶にも残らない、そんな人だ。
環の関心をひいたのも、「市役所職員」という一点にすぎなかった。
女子高時代の昼休み「結婚するならどんな職業の人がいい?」という話で盛りあがった。医者とか、外交官とか、ベンチャー企業のオーナーとか、大リーグ選手とか。みんな好き勝手な夢を口にする。「環は?」詩帆が興味をぶらさげた瞳でうながした。美人だけど恋愛に無関心な環に、恋バナが日常生活の友人たちの視線が集まる。
「市役所職員」
まるで数学の問題に答えるように環が告げると、一瞬、空気が停止した。整理整頓と同音異義語のような単語に、みんなが顔を見合わせる。きらきらとした希望や夢のオーラはかけらもない。
「えー、なにそれ」瑠璃が甲高い声をあげる。
「環、あんたそれでも女子高生?」
「市役所職員の何があかんの?」
環が冷静にいなす。
「現実的すぎてびっくりしたわ。ほんま、あんたはブレへんな」
やれやれと瑠璃が首をふりながら、「ここにおるのは、女子高生の皮をかぶったおばちゃんやろか」と環の肩をゆさぶる。周囲からどっと笑いが巻き起こり、午後の教室はまたたくまに蜂の巣のにぎやかさを取り戻した。
あのころから、結婚するなら「市役所職員」と公言してきた。
理由は単純明快だ。父が京都市役所職員だから。
堅実で誠実で、行動に不確定要素のない父のような人がいいと本気で思っていた。
だから。パーティの席で律儀に名刺を差しだした正孝が、宇治市役所の市民税課勤務と知って、環の心が1ミリだけ反応した。
結婚に熱意をもてない環は、特上の笑みを振りまきながら狩りにいそしむ詩帆にあきれ、早ばやと壁際の椅子に引っ込んでいた。本でも持ってくれば良かったと後悔していると、隣の席に男性が腰かけた。なにげなく横に視線を走らせると、目が合ってしまった。
すると、正孝が名刺を差しだしたのだ。ビジネス教本そのままの礼儀正しさで。
あれから二カ月ちょっと。仕事帰りに飲みに行ったのが三度。休日に出かけたのが二度。クリスマスも正月も会っていない。これを世間ではつきあっているというのだろうか。環としては男友達のひとりくらいの感覚だった。
はじめて巡ってきた環の誕生日に奮発したのかと思うと、冬の夜気にため息が白くにじむ。言っておけばよかった。
環は誕生日が嫌いだ。
22年前の1月31日。
その日、八歳になった環は、胸を躍らせ走って帰った。背中のランドセルで筆箱の中身が、かたかたと、はずむ気持ちに伴奏をそえる。誕生日のごちそうとケーキの甘いにおいが家じゅうに満ちているはず。プレゼントはシルバニアファミリーのキッチンセット。お願いしたもの。
息を切らして帰宅すると、玄関前で息を整える。
お母さんに聞こえるよう大きな声で「ただいまあ」と言うために。母は台所から顔だけのぞかせ「手を洗ったらケーキのデコレーション手伝って」と言うにちがいない。
玄関扉に手をかける。
ガチャ、ガチャガチャ。
あれ? 開かない。鍵が掛かっている。
――お母さん、買い物に行ったのかな。
うっかりものの母は、買い忘れをしてスーパーに走ることがよくあった。
玄関脇のアヒルの置物をのけ鍵を取り出す。
しんと静まり返った玄関で小さく「ただいま」というと、まず台所をのぞいた。テーブルには泡立て途中の生クリームがボールのなかで分離し、白い泡のなれのはてがだらしなく浮遊していた。それを人さし指ですくってなめてみた。甘い。けど、おいしくない。ピンと角が立つほど泡立っていないクリームは、油脂の浮いたねっとりとした甘ったるい液体だった。オーブンではスポンジケーキがふくらまずに真ん中からへたっている。
台所には「がっかり」が散乱していた。
家のなかはがらんとして冷気がはびこり、冬の薄い日が力なくリビングのソファに影を投げていた。
二階の自室にランドセルを置くと、隣の父母の部屋をのぞいた。母はいない。クローゼットが開けっ放しで、服が床やベッドに散らかっていた。
さっきまで胸を高鳴らせていた期待が、みるみるうちにしぼんでいく。
階下に降りてテレビをつけたが、母の帰りの遅いのが気になりスーパーまで探しに行った。母の姿は見つからない。商店街も端から端まで歩いてみたけどいなかった。行き違いになったのかもと、あわてて家に駆け戻ったけれど、帰っていない。
待つ人のいない家のなかは、寒風の吹きすさぶ戸外よりも、ずっと寒ざむしい。がたがたと体と胸の震えが止まらなくなった。
環はめったに泣かない。
けれど、このときばかりは、全身の水分が圧力に逆らって駆けのぼり噴き出そうだった。
まだ、泣いちゃだめ。
ぐっと奥歯を噛みしめ、電話台の上に置かれたアドレス帳から市役所の番号を探してダイヤルを回した。
覚えているのはそこまでだ。
「環、たまき。大丈夫か。よくがんばったね」
耳朶にやさしく響く父の声にようやく気づいた。受話器を握ったまましゃくりあげ号泣している環を、父が膝をついて全身で抱きしめてくれていた。涙と洟水でぐしゃぐしゃの顔を父がタオルで拭ってくれる。泣き叫びすぎて声がかすれて出ない。頭も目も靄がかかったみたいに鈍くかすんでいた。
ピンポーン。インターホンが鳴った。
――お母さん!
心臓が飛び跳ねた。だが、聞こえてきたのは、隣のおばさんの声だった。
「奥さんのことでお伝えしたいことがあるんやけど。近所の目があるから、玄関先まで入れてもらえんやろか」
「いま開けます」
父はインターホンを切ると、「環はソファで横になっとき」と言って玄関を開けに行った。
――おばさんは、お母さんがどこにいてるか知ってるんや。
出てくるな、と父にやんわりと諭された環は、リビングの扉を少しだけ開け、壁にもたれて耳をそばだてた。
「お昼前に庭の掃除をしとったら、お宅に男の人が訪ねて来はったんやわ。しゃれたスーツ着てはってセールスかと思った。セールスやったら、次はうちにも来はるかもしれんやろ。せやし、様子をうかがってたら」
「奥さんが大きなボストンバッグを提げて男と一緒に出てきはって。その先に停まってたタクシーに二人で乗って行ってしまいはった」
そこで話を切ると、おばさんは首をのばして奥をうかがい声をひそめた。
「まだ帰って来てはらへんのやろ」
「こないなこと言うたら、あれやけど。男つくって出ていかはったんとちゃいますか。お宅の奥さん、美人さんやったし」
「そやったら、近所じゅうに行方をたずねて回らはったり、警察に捜索願なんか出さはったら、変な噂が立ちますえ。せやから、おせっかいとも思うてんけど、はよお知らせしとかなって」
それだけまくしたてると、おばさんはそそくさと帰っていった。
小学三年生の環には、「男をつくって出て行く」が何を意味しているのかはわからなかったけれど。母が帰ってこない、ということだけはわかった。
泣き叫ぶ気力は残っていなかった。リビングの壁にもたれ、魂が抜かれたように腕をだらんと垂らしてへたり込む。
涙が頬をとめどなく流れ落ちた。
第4話:Proposal
リストランテの庭をぼんやりと眺めながら、環は22年前の誕生日をたどっていた。もう涙をともなって思い出すことはない。ただ喉の奥が苦く乾くだけだ。
通された個室は三方が白い漆喰の壁で、庭を臨む正面は天井まで全面ガラス張りだった。一枚のクリアなガラスが、部屋と庭とが地続きのような錯覚をおこす。
日本庭園には借景という技法がある。遠くの山並みを庭の背景に取り込み一幅の絵となす。それにならえば「借庭」と呼べばいいだろうか。小さな部屋だったが、庭もその一部となし解放感があった。
庭は枯山水を模していた。
ほどよくライトアップされた庭は、ほんのり闇に浮かびあがり幻想的だ。
白砂が一定方向に線を描く。その間にタイルのように表面のつるんと平らな丸や正方形の黒石が配されている。あの艶やかさは黒曜石かもしれない。庭の奥の塀に沿って孟宗竹がきっちりと並んで植えられている。その根もとや黒石の傍らで、小さな赤い実をたわわにつけた南天が風に枝先を揺らす。ガラス質の珪素を含む白砂は、室内から漏れる灯りを反射してきらきらと輝いている。
伝統の枯山水の庭園では、白砂は水の流れをあらわす。
だが、この庭の白砂が描いているのは水流ではない。効果的に配された黒い丸や四角を白い線が規則正しく囲っている。そこにあるのはデザイン的な構図だ。
白い砂に黒い石と、竹の緑に南天の小さな赤いドット。
素材はいずれも和の範疇にあるのに、色の対比や幾何学的な形の配列が全体の印象をまぎれもなくイタリアモダンにしあげていた。一つひとつが計算の積み重ねによって結果がデザインされている。現実であるのに現実的でない景観が、さびた記憶へと夢遊させたのだろうか。いや、「誕生日」というワードがトリガーだった可能性が高い。
つくづく誕生日は嫌いだと思う。
「本日のドルチェをお持ちしました」
我に返って環は視線をテーブルに戻す。
和紙を巻いたシーリングライトがやわらかな光量でテーブルを照らしている。鏡面しあげの真っ白なテーブルはなめらかに輝き、見おろした顔が影となって映る。
黒塗りの細長い漆器の角皿が置かれた。
わずかに四隅が翻った縁高の漆器は黒ひと色で細い筋目が入っている。その上に一枚、緑のみずみずしい葉蘭が敷かれている。漆器の黒い筋目と葉脈が平行線でつながる。葉先がくるりと巻かれ、赤い実をつけた南天の小枝が添えられていた。
葉蘭の舟にはひと口サイズのドルチェが一列に並ぶ。
「当店人気のビジューショコラトルテをご用意いたしました。左から、カシス、抹茶、聖護院蕪、ブルーベリー、柚子でございます」
緑の葉の上にルビー、エメラルド、ダイヤ、サファイア、トパーズがひと粒ずつきらめいているようだ。
心がうつむきかげんだった環は、美しい色の粒にわずかに胸が華やぎ、ようやく苦い過去から意識をリセットさせる。
目の前の正孝は、まだ、緊張を肩に這わせていた。
やれやれ、と環はため息をつく。
私も苦い記憶に翻弄されてほとんど料理を味わっていなかったけれど。たぶん彼は私以上にどんな料理を口にしたかすら覚えていないのではないだろうか。残念なことだ。
それにしても、この人はどうして、まだ、こんなに緊張しているのだろう。個室だから、他の客はおろか店員の目すらないというのに。
「料理はこれが最後となります。食後酒のディジェスティーヴォなどのご要望がございましたら、なんなりとお申しつけください。では、ごゆるりとお楽しみくださいませ」
恭しく一礼すると、給仕は静かに扉を閉めた。
環が燕尾服の去った扉から視線を戻すと、テーブルに革張りの白い小函が置かれていた。側面の中央に金の線が入っている。おそらく、そこが蓋と本体の境目だろう。ひと目でジュエリーボックスとわかる。
「誕生日のプレゼント……かしら?」
環がおそるおそるたずねる。
つきあっていると言えるかどうかも不確かな関係で、それも知り合って二カ月ほどで、誕生日プレゼントに指輪とは。
環はとまどい、切れ長の美しい瞳が箱と正孝の間をふらふらと往復する。
シーリングライトのやわらかな光に照らされた正孝の顔は、背後の白い漆喰の壁のせいだろうか、それとも極度の緊張のためだろうか、青白く透けていた。上唇で下唇を何度もなめ、口を開きかけてはつぐむ。水面であえぐ金魚のようだ。
誕生日プレゼントにジュエリーなんて、いただけないわ。
と環が言いかけたそのとき、空気がゆらっと動いた。
「ぼ、ぼ、僕との結婚を考えていただけませんか」
まるでひと息に言ってしまわなければ世界が終わってしまう呪文のように、最後は早口でまくしたて、語尾が不自然にあがった。目の前の正孝は、さっきまで青白かった頬を紅潮させ、動悸を鎮めるかのように胸を左手で押さえている。
「えっ?」
環は耳になじみのない外国語を聞いたのかと思った。
頭のなかでゆっくりと吐かれた言葉を反芻し、ようやく自分の迂闊さにめまいがしそうになった。
正孝はリストランテの雰囲気に緊張していたのではなかった。
人気店の個室を奮発したのは、誕生日祝いが目的ではなかった。
環の誕生日にプロポーズをするためだったのだ。
どうしてそのことに思い至らなかったのか。
「ごめんなさい。知りあって二カ月足らずで、まさかプロポーズされるなんて思ってもなくて。そもそも結婚をまともに考えたことがないの」
環はとまどいに震える瞳のまま、おずおずと言葉をのせる。
「けど、婚活パーティーに参加してはったよね」
「あれは、詩帆に無理やり連れていかれて。せやから、詩帆の付き添いみたいな感覚でしかなくて」
向かいの席で正孝の紅潮していた顔が、みるみるうちに陰る。
環はあわてて言葉をつぐ。
「ちゃんと考える。だから、返事は待ってもらえへんやろか」
「もちろん。今日、返事をもらえるとは、さすがに思ってへんよ」
正孝が生真面目な顔をあげ、環をまっすぐに見つめる。
ああ、きっと、テーブルの下で両手を握りしめているのだろう。肩がまた張っている。誠実には、誠意をもって応えなければ。
「二週間はどう? ちょうど二週間後がバレンタインでしょ。それまでに考える。はっきりした答えが出せるかどうかは、わからへんけど。前向きに検討することだけは約束する」
正孝が無言で鶏のようにこくこくと首をふって叩頭する。
「とりあえず、この指輪はお返しするわ」
環が白い小函をそっと押しやる。
「いや、持ってて。ノーなら、そのときに返して」
正孝が両手で太ももをつかんで腕をつっかえ棒のようにしながら訴える。
その真剣さに環は思わずうなずいて白いジュエリーボックスを手に取る。
脳の奥で何かがチカッと微かに光った気がした。
第5話:Reason
環は瑠璃と『オールド・クロック・カフェ』のテーブル席で向きあっていた。
こぽこぽとサイフォンが声をたてると、フラスコから漏斗へ湯がするすると上がっていき、コーヒーの深い香りが漂う。規則正しく、だが、自由に時計たちがそれぞれの時を刻む音が重なり、いくつかが和音となってはほどけるを繰り返す。音の重なりが心地よかった。音楽は美しい数学だと思う。
環は物理や数学が好きだ。
この世のあらゆる現象を数式であざやかに解き明かす物理が好きだ。法則に従い論理の道筋をたどれば、唯一絶対の答えに導かれる。それが環を安心させる。原因と結果が直線で結ばれている確実なものが好みだった。
「プロポーズに迷ってるのは、なんで?」
瑠璃のくりっとした形の良い大きなアーモンドアイで見つめられると、環は視線をそらすことができない。
「正孝さんには一度会っただけやけど」と瑠璃が環に視点をあわせる。
十二月はじめの土曜だった。観光客と買い物客で肩がぶつかる賑わいの四条通りを正孝と歩いていて、高島屋から出てきた瑠璃夫婦と鉢合わせした。偶然に環も驚いたけど、瑠璃のほうが、環に連れ添う正孝の存在に大きな瞳をまるくしていた。買い物を済ませたばかりの瑠璃は、紙袋を二つ、三つ、両腕にさげている。せわしなく行き交う師走の人波は、東からも西からも不規則に押しよせ、立ちつくす四人の淀みに舌打ちを投げる。環が「またね」と軽くかわそうとすると、瑠璃がその腕をぐっとつかんだ。「お茶しよ」そういって、高瀬川沿いにあるクラシック喫茶『フランソワ』になかば強引に連行されたのだった。
瑠璃が正孝に会ったのは、この一度きり。それもコーヒー一杯ぶんの時間だけだった。
「宇治市役所職員。無口で誠実でまじめそう」
「環の結婚の条件はクリアしてる」
「そうよね?」
瑠璃のつぶらな瞳で見つめられると心の底まで見透かされそうで、環は視線をすっと外し椅子の背もたれに身を引く。
そうだ。なぜ答えをすっぱりと出せないのか。オイラーの公式やフェルマーの最終定理よりもずっと簡単なはずなのに。条件の整ったイエスかノーかの二択問題にすぎないというのに。
話が長引きそうだと思ったのだろう。桂子が「注文が決まったらお呼びください」と告げてさがろうとすると、瑠璃がその手をつかまえた。
「桂ちゃんも、ここにお座り」
瑠璃が自分の隣の椅子を引いて、桂子に座るようにうながす。
えっ、でも。と桂子がためらう。
「他にお客さんもおらんし。ちょっと、この人説得するの大変やから、桂ちゃんにも助けてもらわんと」
とにかく座ってと、瑠璃にお願いされると桂子にはあらがえない。座り心地のよいゴブラン織りの座面に浅く腰掛け、環に向かって唇の動きですみませんと伝える。
瑠璃が柚子茶に添えたマドラーで、だるまストーブが温めた空気をくるくる搔きまわす。
「なんで市役所勤めの人が、ええの?」
「お父さんが京都市役所に勤めてるのは知ってるけど。それが理由?」
瑠璃がマドラーを環の鼻先に突きつけ首をかしげる。
「八歳の誕生日に母が出て行った話。瑠璃にはしたよね」
当時、市街の北の宝ヶ池近くに住んでいた。申しわけ程度の庭がある小さな一戸建ての家だ。
母が突然いなくなった翌日から父は仕事をしばらく休んだ。父の動きはすばやく三日後には市役所近くの御池通のマンションに引っ越しが決まっていた。
新しいマンションからは市庁舎の建物が見える。父は夕方五時に仕事を終えると五時半には帰って来るようになった。どんなに遅くとも六時を回ることはなく、環が学童教室から帰ると、すでに帰宅していて「おかえり」と迎えてくれる。環がひとりで過ごす不安な時間は、母の失踪以来、一度もなかった。誰もいない家に帰る恐怖に脅えるようになった環を父の静かな「おかえり」の声が救ってくれた。
「今でも、そう。お父さんの方が先に帰ってる」
「私にはひとり暮らしは無理ね、きっと。明かりのついてない、ひと気のない家に帰るのは……もう怖くはないけど、やっぱり、いや」
環はそこで口をつぐむ。桂子がちらっと隣の瑠璃に視線を走らす。瑠璃はおそらく、幼い環を想っているのだろう。何かをこらえるように、唇を真一文字に引き結んでいた。
「市役所勤めなら定時に帰れる。それが、ひとつめの理由」
現実はそんなに甘いものではないと、社会人になって知った。定時に帰るために父は出世を断念し閑職に甘んじてきたにすぎない。
だから、この理由は絵の入っていない額縁のようなものだ。それでも環にとっては、父が守ってくれた時間を象徴する大切な理由でもある。
「ひとつめ?」
瑠璃がオウム返しで語尾をあげる。
「そう。ふたつめは……」言いかけて、環は柚子茶をひと口喉に流し込む。
「不確実なものを私が嫌いなのは、知ってるよね」
母は予測のつかない人だった。思いつきの行動が多く、いつも何かを夢見て、ふわふわと落ち着かず、タンポポの綿毛のように気の向くままに飛んで行ってしまいそうな危うさがあった。ある日、学校から帰宅するなり連れ出され、京都駅から新幹線に乗せられた。「あ、ここ、ここ。このお店よ」と名古屋コーチンの有名店に入る。どうやら昼間のテレビで紹介していたらしい。そんなことがよくあった。その最悪の結果が、突然の失踪劇だ。
かたや父は確実な人。突飛な行動をしない。なにごともきっちりしていて予定調和の範疇からそれない。授業参観にはチャイムが鳴ると同時に教室に入り、忘れるなどありえない。母は終わるころに走って飛び込むのは、まだ良いほうで、日付そのものをまちがうことも多かった。
父の行動は原因と結果が一直線で結びつく。その確実性が、私を安心させる。
「私にとって市役所職員のテンプレは父なの。条例や法律に従って正確に業務をこなすことが求められる。だから、まじめで誠実。不確実性などかけらもない。平均値をとったら、そういう人が多いと思う」
「それが、ふたつめの理由よ」
理路整然と語る環を見つめながら、瑠璃は「だいぶこじらせてるなあ」と心の内で深く息を吐く。
「正孝さんはその基準を満たしてるのに、それでも迷ってるんでしょ。いつもの環やったら、とっくに答えを出してるよね。結婚は一生の問題やから、よく考えた方がいい。でも、何かが引っかかってるんとちゃう? 自分では気づいてない、何かが。せやから、時のコーヒーを……」
言いかける瑠璃の言葉にのしかかるように、環が早口でまくし立てる。
「私は母が出て行った日のことをぜんぶ覚えてる。いちばん忘れたい記憶を覚えてるのよ。これ以上、何を思い出すことがあるいうの?」
環がまなじりを上げて、挑むように瑠璃を見返す。
瑠璃は余計なスイッチを押してしまったことを悟り、ため息をもらす。こうなったら環を説得するのは至難の業だ。議論で環に勝てたことなどない。
「あの……」
桂子が控えめなまなざしで環を見つめ、おずおずと口をはさむ。
「あの時計の形、変わってると思いませんか」
桂子が十六番の時計を指さす。丸い文字盤の両サイドに細長い緑の翼か葉のようなものが伸びていて、文字盤の下に楕円形の錘が二本ぶら下がっている。
「そうね、こんな横長の柱時計見たことないわ」
「他の時計も変わった形のものが多くないですか」
環が椅子を引いて店内を見回す。
「長刀鉾そっくりの時計もあるのね。アールヌーボーっぽいのも。木がからまってるみたいなのも。いろいろね」
環が感心する。
「祖父は変わった意匠の時計を見つけると買ってたみたいです。形に惹かれるんや、いうて」
「形」
「長刀鉾でも、鳩時計でもなくて、あの横長の時計が鳴ったことに意味があるんやないかと。あの形に見覚えありませんか」
「心当たりは……ない気がするけど。意味がある、か」
環が噛みしめるように繰り返す。
「何か意味があるのだとしたら、それが何かを探求しなきゃ、研究者の端くれとしては名折れになるわね。時のコーヒー、飲んでみるわ」
瑠璃がぱんとひとつ拍手をして、桂子に抱きつく。
「さすが、桂ちゃん。ありがとう」
ぼーん、ぼーん、ぼーん。
十六番の時計が同意するように鳴った。
「桂ちゃん、時のコーヒーを二杯作ってね」
瑠璃が体を話しながらいう。
「え?」
「環がメニューを手にしたとたん時計は鳴った。けど、ひょっとしたらあたしに鳴ったのかもしれんし。ほんまに時計が選んだ人にしか効力がないかの検証も必要やろ。こういうのを、えーっとなんていうんやっけ。対照実験? 必要よね、環」
瑠璃は環の守備範囲にある単語を使って同意を求める。瑠璃が環の不審をやわらげようとしているのだと桂子は理解した。だから。
「では、十六番を二杯ご用意しますね」と承った。
第6話:Time Coffee
「お待たせしました。16番の時のコーヒーです」
白磁に緑でエキゾチックな植物柄が描かれたカップが置かれた。
白くもやる湯気が肢体をくねらせて昇っては立ち消えしている。白いニンフたちが群舞を舞っているようだ、と環は思った。漆黒の水面は、底からの対流でゆらゆらと揺れていた。
「うーん、いい薫り」
瑠璃がカップを口もとでゆらし満足げな笑みを浮かべる。
瑠璃が口をつけるのを見て、環もカップに手をかけた。
ほんとうに不思議が起こるのだろうか。
「忘れてましたが、時計の鳴った時刻が記憶に関係してるそうです」
桂子が首をそらして古時計を見る。
針は斜めに開いて、4時50分を指している。
「あの時刻に覚えはありませんか」
「数字は好きだから、わりと覚えてるほうだけど。わからない」
環が首をふる。
だいたい何を忘れているというのか。これまでのすべてを記憶しているというほど傲慢ではないけれど、記憶力には自信がある。得体のしれないコーヒーの力に縋ることなどない。説明のつかない不思議なんて、この世にはないはずよ。
環は動揺を悟られないようさりげない所作でひと口、喉に流し込んだ。
味覚芽は舌にあるというが、幾重にも折りたたまれた酸味やコク、ほろ苦い甘みが口の内側でほどけ、舌だけでなく口の隅々に広がり喉を滑りおりていく。おいしい。
環はひとつ深い吐息をもらす。
ほら、何も起こらないじゃない。
緊張が胸からはずれて気分が軽くなる。ほがらかな笑みを浮かべながら、ふた口めをゆっくりと味わう。
確かな意識があったのは、そこまでだった。
* * * ☕ * * *
ぼーん、ぼーん、ぼーん。鼓膜の奥で時計が鳴っている。
そのくぐもった音が潮のごとく引くと、むせるような熱気が環の五感を刺激した。暑い。だるまストーブのやわらかな温もりではない。じっとりと腋の下が汗ばみ、襟足をハンカチで拭いたくなる。だが、何も見えない。動かすべき手も、有るのか無いのかわからない。意識だけが宙に浮いているようだと思ったとたん、それまで暗かった視界の中央に赤茶色のでこぼこした肉厚で大きな唇のようなものが浮かびあがった。
――あれは何?
よく見ようと意識を集中した瞬間、その穴から熱帯植物のシダやツタを思わせる緑が次々に出現し、縦横無尽にうねうねと広がり絡まり、たちまち画面のすべてを覆いつくすと、フラッシュがはじけたような眩しい光が降りそそぎ、視界が開けた。
閃光が霧散すると現れたのは、繁茂する緑だった。ジャングルに生い繁る巨大なシダやソテツ、メキシコの平原に並ぶ棘だらけのサボテン、熟す前のバナナは緑の房をたわわにさげている。その鬱蒼とした熱量の多い緑のあいまから、派手で色鮮やかな花が、あるものは房となって垂れ下がり、あるものは巨大な花弁をこれみよがしに開き、あるものは繊細な糸の束を風にゆらしている。
冬のさなかに目にする光景としては異様だった。
ここは、どこで、季節はいつだろう。
視線を斜め上にあげると、ガラス張りの屋根が見えた。
あ、北山の植物園の温室ね。
それほど強くはない陽ざしが通過するガラスの天井から、視線をゆっくりと降ろすと、モスグリーンのコートを右手にかけて佇む女性の姿が目に入った。白いモヘアのセーターにオレンジのスカートを合わせ、ベージュのヒールを履いている。植物園の温室にそぐわない格好だが、あれは私だ。
その足もとで大きなリュックを背負いグレーのダウンジャケットを無造作に着てうずくまっている男は、かつての恋人、松永翔だ。
そうか、これは、22歳の誕生日だ。
頭数合わせで頼まれ、しかたなく出席した合コンで隣に座っていたのが翔だった。理学部生物学科の大学院生で、環は物理学科の三年生だった。
環はどちらかというと無愛想だ。それをクールビューティと評する人もいる。場を盛りあげようとしゃべったり、愛想笑いをすることはない。女子校育ちというのもあって、男性と何を話せばいいのかわからない。だから、合コンは苦手。その夜もいちばん奥の席に座って料理に集中していた。
ところが、隣の翔はおかまいなしに話しかけてくる。あいづちを求めるというよりも、一方的に自分の興味がある話題を語っていた。人間の目は脳に騙されているとか。伊能忠敬は鮭の皮が好きだったとか。役に立つのか立たないのか紙一重の雑学を次から次へと披露する。
泳ぎ続けないと死んでしまうマグロのようだと、環は思った。
だが、好奇心のおもむくままに語る翔に惹かれ、気づいたら恋人になっていた。
環が公言していた「誠実でまじめ」は当てはまるけれど、公務員の父にある「確実性」や「きっちり」とは程遠かった。物をよく失くすくせに、どうでもいい物を拾い集め整理しない。残飯にカビが生えると喜んで顕微鏡を準備する。常識や世間の目を気にする感覚は翔にはなく、うらやましいくらい自由だった。
環が「結果には原因がある」というと、女のくせに頭がいいとこれだ、とあからさまに顔をしかめる人もいた。だが翔は、「研究者にはたいせつな考えや。だから、不思議を解明したくなる」と肯定してくれた。
翔は、環がはじめて切なくなるような「好き」という感情を抱いた異性で、後にも先にも環の胸を高鳴らせたのは彼だけだった。
デートはたいてい標本採集をかねての山歩きや水辺の散策だった。人気のアウトドアとは違う。藪に分け入って虫を捕まえる、うす暗い山道でユウレイソウを見つけてはしゃぐ。雑誌で特集されるデートに憧れる気持ちは、環にはみじんもなかった。それよりも、植物や虫について、あるいはルーン文字や反物質について翔が語る話のほうがよほどおもしろかった。
でも、その日は、ほんの少しだけ期待してしまったのだ。
誕生日だったから。
苦い記憶を翔が塗り替えてくれるかもしれない。
1月31日が誕生日だと話したことはない。同じ学部の誰かに聞いたのかと思った。ディナーかランチを予約してくれているかも。そんなあわい期待を抱いて、ちょっぴりおしゃれをした。だが、待ち合わせに現れた翔はふだんと変わらぬかっこうで、行く先は植物園だった。
「これが世界三大珍植物の一つ、キソウテンガイだよ」
「まさに奇想天外な植物なんや」
大きな石がごろごろして乾燥した岩場のような展示。その石のすきまから厚い唇状の突起が自己を主張するように顔を出し、それを起点に左右対称にまるで緑のゴムベルトのような葉がうねうねと伸びている。
「こいつは五十年ほどしか経ってない若い個体で、まだ赤ん坊」
「五十年で赤ん坊?」
「ああ。こいつらは千年以上生きると云われてる。二千年も生きてる個体もおる」
「二千年?!」
「そう、西暦のスタートからやで。すごいやろ」
「こんなに長生きやのに、生えてくる葉はたったの二枚なんや。ほら、これも二枚だけ」
「何枚もあるよ」
うねうねと曲線を描く奇妙な葉が幾枚も束になっている。
「そう見えるだけ。これで一枚。茎とくっついてる根元を見て」
翔が唇のような部分の縁を指さす。
「これは、茎?」
「そう。こっから葉が左右対称に二枚だけ出る。葉は伸びると、ねじれたり擦れたりして裂け、何枚もあるように見えるけど根元はつながってる」
「生息域は限定的でアフリカのナビブ砂漠のごく限られた場所だけ。ナビブは世界で最も古い砂漠で、海に面して延々と赤茶色の砂の平原が続き、年間降水量は百ミリ以下。そんな過酷な環境をたった二枚の葉で二千年も生き抜く。キソウテンガイもナビブの固有種やけど、ナビブは固有種の宝庫。過酷な環境でこそ進化を遂げる。生きものってほんますごいやろ」
翔が紅潮した顔をあげ、膝に両手をついて立ち上がる。
「左右一対の葉だけで二千年を生きのびるって、なんかさ、二人で力を合わせて生涯を添いとげるカップルみたいやなって。そんなことも想像させてくれる」
ははは、柄でもないか。と、翔がぼさぼさの頭を掻いて照れる。
「ずっと現地で研究したかった。ようやくナミビア大学で研究できることになった」
照れる翔の顔をほほ笑ましく見ていた環は、いつもの雑学の続きのような調子でさらりと重大なことを告げられ、一瞬、聞き逃しそうになった。
――えっ? 今、現地に行く言うた?
「あ、忘れるとこやった」
そう言って、翔はリュックの中をごそごそとかき分け、くちゃくちゃになった紙袋を取り出した。
「はい、これ」
女子大生のあいだで人気のジュエリーショップのロゴが入っている袋だ。中をのぞくと、角のへこんだ白い箱に水色のリボンがかけられているのが見えた。
「誕生日のプレゼント?」
「えっ、今日は誕生日なんか? 知らんかったわ。おめでとう」
翔がにこにこしている。
「じゃあ、これは何?」
「ぼくの気持ち、かな」
また、照れながらくしゃくしゃと頭を掻き、翔は左腕にはめた時計に目を走らせる。
「4時50分か、閉館やな」
環は急展開に頭が混乱していた。大切なことを訊き忘れている気がする。ぐるぐると焦りだけが空回りする。思い余って顔をあげると、環を穏やかなまなざしで見つめている翔の視線と絡みあった。
翔が環の両頬を手で持ちあげ、唇にそっとキスをした。
「愛してる」
それまで聞いたことのない言葉が、さらに環を混乱させる。
その囁きが脳の奥で自動再生機のように勝手にリフレインし、しだいに小さく微かになっていく。視界が白く透け遠のく。
ぼーん、ぼーん、ぼーん。
代わりに耳膜の奥から時計の音が響き、三半器官をゆさぶる。それに呼応して文字盤が浮かびあがった。時計の針は4時50分を指しキソウテンガイの葉のごとく斜めに開いていた。
第7話:Friends
環はふた口めをすすり、カップをソーサーの上に戻した。それが合図だったのか。スローモーションでまぶたが閉じる。椅子に背をあずけ、傾いた首と頬を肩が受けとめる。横髪が顔に垂れ、幾本かが唇にはりつく。一連の流れるようなさまを瑠璃は向かいの席で眺め、「時のコーヒー」が不思議な力を発動したことを確信した。
環は「時のコーヒー」のまどろみの中にいる。
現在進行形で何を見て、何を思い出しているのだろうか。
――どうか、環が幾重にも掛けた鍵をあけ、心の鎖をほどくことができますように。
淡い西日が聖アグネス教会のバラ窓を通過し、ステンドグラスが中央通路に光の色を躍らせていた。平安女学院の高校生だった瑠璃と環は、シスターの許しを得て、冬の放課後、礼拝堂の硬い木の長椅子に並んで腰かけた。その日は環の十七歳の誕生日だった。
「放課後つきあって」
昼休みの終わりを告げるチャイムの音にまぎれるように、環が瑠璃の肩をつかんでささやいた。肘まである長いストレートの黒髪が風にあおられ環の顔をおおう。瑠璃からは表情が見えなかったけれど、声にためらうような翳りがあった。瑠璃は「オッケー」と言うかわりに、環の前で親指を突きあげ了解のサムアップのしぐさをした。
向かった先が礼拝堂なのに驚いた。
聖アグネス教会は瑠璃の憧れの場所で、このチャペルがあるから平安女学院に進学したくらいだ。ここで結婚式をあげる。それが瑠璃の幼いころからの夢。チャペルに一歩入るだけで、瑠璃の胸は弾む。
赤レンガの教会は交通量の多い烏丸通りに面しているが、一歩中に入ると静謐が支配する。立ち止まって高い天井を見あげる。前を歩む環は平静を装ってはいてもどこかぎこちなく、祭壇から三列めの長椅子を選んだ。
美人なのに自覚がなく無愛想な環と、愛らしい顔立ちなのにサバサバした性格の瑠璃は、学内でも目立つ存在で、だからというのでもないけれど、磁石のN極とS極が引かれあうように、気づくと親友と呼んでもいいほどの仲になっていた。他人に隙を見せない環が、唯一、心を許しているのが瑠璃だ。父ひとり、娘ひとりという家族の相似形も作用していたのだと思う。
「瑠璃には話しとこう思って。というか、聞いてほしくて」
そう前置きして、底冷えのするチャペルの硬い椅子に腰骨から背筋をぴんと伸ばして座り、祭壇を見つめ、環は八歳の誕生日に何が起きたかを感情をゆらすことなく語った。母が見知らぬ男と姿を消した日の記憶を。めちゃくちゃになってしまった誕生日を。祭壇に視線を据えて淡々と。
その内容に驚愕し、瑠璃はかける言葉を見つけられず、ただ聞くしかできなかった。「誕生日は嫌い」と環は抑揚をつけずに明かす。でも、お父さんには言えない。気にしてるから。それでねと、ようやく瑠璃のほうに向き直り、みんなからの誕生日プレゼントを抱えて今日もとびっきりの笑顔で帰るのと、静かに笑った。
おそらく、と瑠璃は思う。知って欲しかったのだ、環は。幼い日に負った傷と行き先を見失った感情のことを。ずっと守ってきてくれた父には言えないことを。言ってもいい相手が欲しかったのだと。
瑠璃は五歳のときに母を交通事故で亡くした。母が恋しくて何度も泣いたけれど、しだいに時間が気持ちをなだらかにしてくれたし、何よりも母との記憶は美しいままで、いつでも瑠璃をなぐさめてくれる。二度と会うことはかなわないけれど。
でも環は。母のいない穴を、母の思い出で補うことができない。
それなのに。記憶の奥底に閉じ込めてしまいたいはずの八歳の誕生日のことを鮮明に覚えている。ううん、忘れまいとしている。目をそらしたら負けだとでもいうように。母を忌避し嫌悪しそして渇望しているのだ、たぶん。
瑠璃は環の寝顔を眺めながら、少し冷えたコーヒーをすすっていた。
――いちばん忘れたい記憶を覚えてるのに、これ以上何を思い出すことがあるの。
環の言葉を反芻する。あれ以上に、記憶の奥底に押し込めて忘れたい何があったのだろう。
つーっとひと筋、環の頬を涙が流れた。
あわてて瑠璃は古時計を振り返る。
ぼーん、ぼーん、ぼーん。
環がゆっくりと目をあける。
「おかえり。何か思い出した?」
「22歳の誕生日」
「そう。で、なんで涙流してるん?」
はい、と瑠璃はハンカチを渡す。えっ? 環は気づいてなかったのだろう、あわてて中指で目尻をこする。
「……続き、も……思い出したから」
22歳の誕生日に植物園の温室であったことを環は語った。
キソウテンガイという二枚の葉だけで二千年も生きる奇妙な植物があること。恋人だった翔が、誕生日と知らなかったのに、アクセサリーをプレゼントしてくれたこと。はじめて「愛してる」といってキスされたこと。そして……翔はキソウテンガイの研究をしにナビブ砂漠に旅立ったこと。
事実だけをただ淡々と。
あの日、帰宅するとすぐに、環は翔からのプレゼントを開けた。
角が少しへこんでリボンも型崩れした箱に、白い革のジュエリーボックスが収められていた。そっと取り出すと、中央に小さなメレダイヤがひと粒ついたプラチナのリングが姿を現した。
驚いて口もとを両手で押さえ、瞳がまたたく。胸を小さく弾ませがら、そっと右手の指でつまんで左手の薬指に嵌めてみる。
するりと落ちる。ぶかぶかだ。中指でも大きい。
サイズがまったく合っていない。ペンダントトップにするしかないわね。無頓着な翔らしくて、くすっと笑みがこぼれる。
――お礼を言わなくっちゃ。
当時はまだ二つ折りだった携帯をあけ、翔の番号を押す。三度でコール音がとぎれた。「翔、ありが…」言いかけた環の声に機械音声が重なる。
――現在、電波ノ届カナイ場所ニアルカ、電源ガ入ッテイナイタメ……
口を半端に開けたまま、言いかけた礼の言葉と胸の高鳴りが空に消える。
しかたないわね。あとでかけ直そう。
だが、その夜、何度かけ直しても無機質な機械音が流れるばかりで、気づけば日付が変わっていた。体温のないテキストメッセージではなく直接伝えたかったけど、しかたない、メールを残しておけば気づいた翔から電話がかかるかも。
けれど、どんなに待っても、朝まで携帯が鳴ることはなかった。
翌朝、陽がのぼるのを待ちかねて、出町柳の翔の下宿を訪ねた。
ブザーを鳴らしても扉をノックしても反応がない。携帯電話は相変わらずの機械音を吐き続ける。研究室で徹夜してるのかも。環は研究室へ急いだ。
「環ちゃん、どないしたん、こんな朝早うから」
標本や資料の散乱した研究室から、ぼさぼさの頭を掻きあくびをしながら出て来たのは、翔の同僚の安本だった。
「あの、翔、松永さんは」
「あれ、翔から聞いてへんか? あいつは昨日、ナミビアに向けて日本を発ったはずやけど。なあ」
言いながら、安本は部屋の奥に声をかける。
「翔先輩、ルフトハンザの最終便に乗るって言ってはりましたよ。ミュンヘン経由でナミビアに行くって」
何日も風呂に入ってなさそうな姿の男が、山積みの資料のすきまから顔を出した。
「ナミビア大学に行くことになったって昨日聞いたところで。まさか、昨日、出発だとは思ってなくて」
環がおずおずと答える。
「ええ、なんじゃそりゃ。もう、あいつは、いっつも肝心なところが抜けとるんや。まだフライト中やから携帯はつながらんな。連絡あったら、伝えとくわ」
「すみません、ありがとうございます」
どうやって家まで帰ったか覚えていない。
――また、捨てられた。また、捨てられた。また、捨てられた。また……。
その七文字が経文のごとく、ぐるぐると壊れたレコードさながら繰り返し繰り返し脳の奥で回り続けた。
「それで?」
「それっきりよ」
「メールの返事は?」
「着拒にした。それっきり、忘れた」
瑠璃は呆然とした。八歳の誕生日に追い打ちをかけるような記憶。パンドラの箱を開けさせたのは私だ。時のコーヒーを飲めと強要したのは、うちや。どうして環にそんな辛い記憶を見せたの、どうして。瑠璃は激しく後悔し、やるせない思いをこめて緑の時計をにらみつける。
「翔さんからのプレゼントは、まだ持ってる?」
「たぶん。クローゼットの奥に突っ込んでると思う」
「それ持って、北山の植物園に行こ」
「指輪とキスと、置き去りにした意図を確かめに行こ」
「もう、いい。もう、十分。誕生日に私は二度も大切な人に捨てられた。それだけのこと。それ以上、どんな意味があるっていうの」
環が瑠璃をにらみ、そして、ぷいっと視線をはずし、かすかに顎をあげ天井をにらむ。横を向いた頬がぴくぴくと小さく痙攣している。
環は涙をこらえている。これまでも、そうしてきたように。彼女のプライドが感情を押し込める。それを解きほぐしてあげたい。
「正孝さんのプロポーズを受けるにしても。翔さんへの気持ちに、ちゃんとケリをつけんと前に進まれへんのとちゃう?」
「結果には原因があるんやろ。それを確かめに行こ」
第8話:Ring
「これが、キソウテンガイ?」
ごつごつした赤茶けた石の転がるすきまを縫うように濃い緑のゴムベルトの束が、地を這って伸びている。ベルトの束を結ぶ中央では、表面にぶつぶつした腫物がついた厚い唇のようなものが、しまりなく口を開けている。緑のベルトはその根元から左右に伸びていて、唇みたいなのは、周囲に鋲のついたセンスの悪いバックルのようにもみえた。
瑠璃は腰に手をあてて、変な植物、とつぶやく。
「これが二千年も生きるん?」
「らしい。これはまだ五十歳くらいやから、赤ちゃんなんやって」
「これで赤ちゃんかあ」
うねうねと匍匐前進しながら伸びた葉の先端は、展示スペースに収まりきらず縁石にそって曲げられている。これが不毛の砂漠に生えているのか。
瑠璃は仁王立ちで腕組みし、上体をかしげてのぞきこむ。
「なんか、すごいやん」
「えっ?」
「二千年もほんまに生きるんやろか、灼熱の砂漠で。一対の葉だけで二千年って、永遠に添いとげるカップルみたい。よくさ、連理の枝とか、比翼の…えっと、何やったけ」
「比翼の鳥でしょ」
「そうそう。結婚式のスピーチでよく聞くやつ。あれって夫婦の象徴なんでしょ。似てるよね、この形。ここを中心に向き合ってるみたいにみえる」
しゃべりながら瑠璃は、中央の楕円をさす。
環は「あ」の形に小さく口をあけて固まる。あの日、翔も同じようなことをぼそぼそと照れながら言ってた……気がする。
――カップルみたいに見えるやろ。
翔の声が耳管の奥でかすかに響く。ナミビア行きに動転して聞き飛ばしていたけれど。翔は何が言いたかったのだろう。
巻き戻せない時間に胸がきしむ。
「環、指輪を見せて」
瑠璃が環の胸の前に手のひらを向ける。
植物園を訪れる前に環の自宅マンションに寄った。指輪を探しに自室に向かう環の背に、一緒に探そか、と瑠璃は声をかけたが、大丈夫やから待ってて、といなされた。
整理整頓の行き届いたリビングの掃き出し窓から、ベランダ越しに白っぽい石造りの市庁舎の尖塔が見える。八歳から環が見続け心のよりどころとしてきた風景。瑠璃は幼い環のまなざしを追う。ヒヨドリがベランダに舞い降りて、何かをついばむと、せわしなく飛び立った。
「お待たせ」
静かな声に驚いて振り返る。五分も経っていなかった。
そんなにすぐに見つかるものを、今日までほんとうに忘れていたのだろうか。瑠璃はいぶかしがる。
環は理性的で論理的で隙がなくて。「結果には原因がある」なんて憎たらしいことを平然というけど。小さな矛盾や綻びがけっこうあるくせに、ちっとも気づいてなくて。そこが環のかわいいところだと思う。本人は絶対に認めないだろうけど。瑠璃はくすっと小さく笑う。
「なに?」環がめざとく詰問する。
「なんもない。はよ、植物園に行こ」瑠璃は環の肩をぽんと叩いて、玄関へと向かった。
ショルダーバッグから取り出した白いジュエリーボックスを、環はためらいながら瑠璃の手のひらに乗せる。
ガラス張りの天井から冬の日ざしがそこはかとなく降る。
季節にそぐわない熱気に首筋にうっすらと汗がにじむ。
開けるよ、と念を押し、環がうなずくのを確認してから瑠璃はそっと蓋を開けた。
メレダイヤが光に反射して、プラチナのリングが輝く。
ごく小粒のダイヤの両側にほっそりした花びらにも葉にもみえるデザインがほどこされていて、葉脈のような線が2本ずつ浅く彫られていた。
瑠璃は蓋をあけたまま、キソウテンガイの前にかがむ。
「ねえ。似てない?」
環も隣にしゃがみ、瑠璃の伸ばした手の先の指輪とキソウテンガイを見比べ、そういわれれば、と瞠目する。
瑠璃は指輪を台座から抜き取って、冬の淡い日にかざす。
ダイヤがチカッと光る。
光の反射に薄く目を眇めて、瑠璃は「あれ?」と気づいた。結婚指輪のようにリングの内側に文字が刻まれている――。
――Waiting for you in Namibia
「ウェイティング フォー ユー イン ナ…ミ…ビア?」
最後の単語をたどたどしく一文字ずつ声にし、これで合っているのかとかすかに語尾をあげる。
「ナミビアで待っている? 君をナミビアで待ってるっていうメッセージやない?」
瑠璃が興奮して声がオクターブあがる。
「ほら、環も見て」
キソウテンガイを見つめたままフリーズしている環の手をつかんで、手のひらに指輪を乗せる。
環はじっと手のひらの上の指輪を見つめる。小刻みに震える右手で指輪をつまみ、目の前にかざす。リングの内側に刻まれている英文字を確かめるようにたどるそばから、アルファベットが霞んでにじみだす。焦点が定まらない。
――Waiting for you in Namibia.
君をナミビアで待っている。君をナミビアで……。
最後に「愛してる」とつぶやいてキスした翔を思い出した。
翔のボキャブラリー・リストには決して並んでいない単語。少女マンガのようなセリフに環はとまどい、深く考えることをしなかった。そのひと言に翔がどれほどの想いを乗せたのかを。
キソウテンガイに似た指輪。
指輪に刻まれたメッセージ。
「愛してる」とセットになったキス。
ナミビアへの旅立ち――。
すべてが一本の糸でつながっていたのだ。
翔は、翔なりの精いっぱいで伝えようとしていた。
それなのに。
捨てられたと思い込み、携帯を着拒にして、記憶の奥底へと粗大ゴミのように無理やり押し込め、鍵をかけ、忘れることで環は心を守った。傷つくことを恐れて。
「結果には原因がある」と主張しながら、原因を検証することを怠った。
――あれから八年。もう時間は巻き戻せない。もう遅い。もう何もかも手遅れね。
後悔が圧搾機のように胸を締めつけ涙を絞りだす。号泣とは違う。嗚咽はない。両のまなじりから涙がとめどなく流れ落ちるだけ。頬が川になる。
瑠璃は、静かに涙を流す環の頭をつかみ自分の胸に抱く。
環の頭に顎を預け、右手の薬指でそっとみずからの目尻に浮かんだ玉をぬぐうと、瑠璃はバッグからスマホを取り出し操作しだした。
「ナミビアと日本の時差は七時間。今は一時を回ったところやから、ナミビアは朝の六時。ちょうどええんやない」
環が顔をあげる。
「着拒にしたって言ってたけど。翔さんの番号まで消しちゃったの?」
古い記憶をたどっているのだろう。涙に溺れたままの環の目が泳ぐ。
「あの後すぐにスマホに替えて。データはショップで移してもらったから、たぶん残ってると思う」
低くかすれた声でいう。
「そう、良かった。ここでは落ち着かへんから、うちに行こ」
第9話:long time no see
「桂ちゃんみたいに上手に淹れられへんし、コーヒーメーカーまかせやけど」
「はい」といって瑠璃が湯気のあがったマグカップを二つ、大きな杉板のテーブルに置いた。
鴨川は左右の岸で表情が異なる。
西岸は河原にせり出すように店やビルがひしめき合い、夏になると川床を張りだすが、東岸は樹木が縁どり、春には桜がうす桃色に堤を染め花びらを散らす。川端通りは鴨川べりに沿って走る唯一の大通りで、そんなところが瑠璃は気に入っていた。
昨年の六月に結婚したばかりの瑠璃の新居は、川端二条を東に入ったところにある町家だ。仕舞屋ふうのつくりで、通りに面した一間が出格子になっている。格子窓の内側には横長の大きなデスクを置いていた。夫の啓介の仕事机だが、瑠璃は啓介がいないとき、そこに座って通りを行き交う人の息づかいや鴨川の風が運んでくる季節を感じて時を忘れる。
玄関引き戸をすべらせ、ほら入って、と瑠璃は笑顔で振り返る。
「奥まで土間の走りやってんけど。さすがに台所が土間なんは、冬は寒いし使い勝手も悪いから、板を敷いてもろてん」
格子戸の向こうは一間ほどが黒光りのしている細長い「走り」と呼ばれる土間で、自転車が一台置いてあり、若草色の麻の暖簾が土間とその奥の板の間とを仕切っていた。土間の天井は高く、二階まで吹き抜けの昔ながらの造りだ。
「一階はほぼ事務所やけど。ここの方が話しやすいから。こっからあがって」
夫の啓介は建築士で事務所兼住まいにしているらしい。
土間の右手が部屋で、玄関口から一本目の柱まで上がり框のかわりに柾目の杉板がわたしてあり、それがそのまま板の間の台所へと続いている。合理的でセンスの良いリフォームだ。
「今日はお客さんの家で打ち合わせしてる。夕方まで帰って来んといてってラインしたし」
ほら、はよあがって、とうながす。
通りに面した部屋は六畳の和室で啓介の仕事部屋になっている。続くひと間は手前よりも広く、十人は座れそうな大きな杉板のテーブルが置かれていた。仕事の打ち合わせにも使うし、作業台にも食事のテーブルにもなるらしい。腰高の棚が台所との境界も兼ね、本や資料が収められている。
瑠璃は環の前にマグカップを置くと隣に腰かけた。淹れたてのコーヒーの薫りがほわりとカップからあがってくる。
「スマホ出して」
環はバッグからスマホを取り出し、翔の番号を表示させテーブルに置いた。胸が痛いくらい縮まり、動悸が加速度的にあがる。画面の数字がすぅっと遠のいていく気がする。震える指で画面をすべらせた。
トゥルルル、トゥルルル、……六回、七回……、コール音を数える。
十回を数えて、ほらね、とあきらめと落胆の混じった気持ちの傍らで、ほっとする気持ちもあった。もう切ろうと指を伸ばしたときだ。
「ハロー」
心臓が跳ねあがった。
機械音で少しくぐもっているけど、鼓膜が覚えている懐かしい声がした。ずっとこの声が聞きたかった。
「しょう」とかすかに息を漏らすと、環は両手で口をおおった。
言葉よりも先に涙がこぼれる。喉がきゅっと縮まり声帯をふさぐ。
「もしかして……たまき? 環か?」
スピーカーから寝起きが吹っ飛んだといわんばかりの甲高い声が響く。
環は口を押さえたまま微動だにしない。
はらはらと涙を流すその横顔を見つめ、瑠璃はスマホに話しかけた。
「翔さんですか? はじめまして私は環の友人の瑠璃です」
「え!瑠璃ちゃん? ほんまに瑠璃ちゃん?」
「私をご存じですか?」
「うん。環からしょっちゅう聞いてた」
しゃべれそう?と、環に小声で尋ねると、激しく首を振る。
「環、泣いてて話せそうにないんで、私が代理で。時間、大丈夫ですか」
「時間は気にせんでええよ。こっちはアバウトやから。いやあ、瑠璃ちゃんと話せるなんてうれしいなあ」
まるで昨日も会ってたような気軽さの、のんびりとした声音に、瑠璃は身構えを少しほどく。だが、失敗は許されない。環の記憶の蓋をこじ開けたのは、私なのだから。
「八年も経って、今さらって思わはるかもしれませんが」
「翔さんがナミビアに旅立った日から今日まで、環は植物園のことも指輪のこともすっかり忘れてました。たぶん自分で記憶に鍵をかけたんやと思います、心を守るために。せやから、堪忍したってほしいんです。そのうえで八年前のことについて、いくつか確かめたい。厚かましいのは承知してます。でも、ここをクリアせんと環が前に進まれへんのです」
瑠璃はスマホの画面に前のめりになる。
「うん、ええよ。なんでも訊いて」
拍子抜けするほどのどかな声が返ってきた。スピーカーからふわりと風が吹いた気さえした。
瑠璃も緊張していた。会ったこともない男性。環が心の奥にしまい込むほどたいせつな人。八年間の音信不通。どのくらいの距離感で話せばいいのか。せっかくの機会を潰してしまったらどうしよう、その恐怖感。腋に冷たい汗がにじむ。
それらを、やわらかくすぅっと吹き飛ばしてくれるような風だった。
瑠璃はいつもの瑠璃にもどる。
「じゃ、遠慮なく。八年前に指輪をプレゼントしたのは、なんでですか? あの日が環の誕生日って知らなかったんですよね」
「うん。誕生日と聞いてびっくりした。プレゼントは指輪でなくても良かったんや」
「どういうことですか?」
「女性にはアクセサリーをプレゼントするもんやって、研究室の同僚に言われて。へえ、そんなもんか。あげたことないなあ、言うたらどつきまわされた。あんな美人を彼女にしとって、お前、何してるんや。はよ、買いに行けって、店の地図を渡されて」
光景が目に浮かんで、ぷっと瑠璃は吹き出しそうになる。環も泣き笑いしてる。緊張はあとかたもなく散っていた。
「あんなキラキラした場所、入ったことなかったから、目がちかちかして。ぼーっとしとったら、店員さんが何かお探しですかって。アクセサリーって言うたら、ネックレスですか、指輪ですか、ブレスですか、ピアスですか」
「なじみのない単語をばぁっと並べられて。わかったのが指輪だけやった」
「それで指輪にしたんですか?」
思わず瑠璃の語尾があがる。
「うん、そう」といって、翔がスマホの向こうで笑う。
「でも、指輪にしてよかったよ。キソウテンガイに似てるのがあったから」
「やっぱり。あれはキソウテンガイのイメージだったんですね。似てるなと思いました」
「そやろ。瑠璃ちゃんもわかってくれたんか。うれしいなあ」
ほのぼのとした声が返ってくる。
「指輪の内側のメッセージなんですけど。あれは、なんで?」
瑠璃はふたつめの疑問を問う。
「何て彫りますかって訊かれて。無料でメッセージ彫ってくれるんか。えらい親切やなあと思った」
「あれ、結婚指輪でしょう。結婚指輪にはお互いのイニシャルを刻印するんです。from S to Tとかって、ふつうは」
「あ、そうなん? それでかあ。店員さんが困った顔して奥に引っ込んで、追加料金がかかるけど、ええか、いわれた」
「でも、伝えたかったのは、あれやかったからなあ」
「Waiting for you in Namibia」瑠璃が暗唱する。
「環が気づかなかったら、どうするつもりやったんですか。ていうか、実際八年も気づかなかったんですけど」
「気づかんでも、ええと思ってた。ぼくの勝手な想いやから。ナミビアで環のことを想ってる。それを伝えたかった」
「環を連れてくつもりはなかった、いうことですか」
「うん、まだ学部生やったし。環の人生はこれからで、ぼくが潰すわけにはいかん。おまけに行き先はアフリカ。ナミビアは治安はええけど、衛生状態とか行ってみんとわからん部分もあった。ぼくにとっては夢がかなうチャンスやけど、環を巻き込むなんて考えられんかった」
それはわかる、わかるけど。
「じゃあ、なんで、愛してるって言ってキスしたんですか」
「二年つきあってたのに、まともに気持ちを伝えてなかった。次、いつ会えるかわからんし、日本に帰って来るかもわからん。せやから、ちゃんと伝えとこうと思った。キスは気持ちが昂ったというか」
翔もまっすぐで誠実だ。多少、常識に無頓着でも。恋愛のイロハに疎くても。それなのに。
「どうして……」
とつぜん絞りだすような声が左隣から聞こえた。
「どうして、あの日、最終便で立つことを教えてくれなかったの!」
環が泣きはらして充血した目をきっとつりあげていた。
「だから、また、捨てられたと思って……着拒にして……」
「また?」
「またって、どういうこと?」
翔のいぶかしがるトーンが機械ごしに伝わる。
環が、はっと、口を両手で押さえる。
ああ、お母さんのことを話してなかったのか、と瑠璃は理解した。
糸がもつれた根本はそこにある。話すのが辛いんやったら私が代わりに、と言いかけたけれど、思い直し、環の二の腕をそっとつかみ目で合図する。
だいじょうぶ勇気をだして。瑠璃は環の肩に後ろから手を回す。
「八歳の誕生日に……」
一瞬、言い淀むと、すっと環は背を伸ばした。
「私は母に捨てられた。母は男と出ていったの」
スマホの向こうが沈黙する。
「誕生日は最悪の日に変わった。でも、あの日、22歳の誕生日に、翔は指輪をプレゼントして愛してるって言ってくれた。うれしかった。翔が、私の誕生日を塗り替えてくれたと思った」
「せやのに。携帯はつながらんし、朝になって下宿に行ってもいてへん。思い余って研究室を訪ねて、最終便で旅立ったと知った」
「また、誕生日に私はたいせつな人に捨てられた……そう思った」
最後はまた涙が声をにじませる。それでも、環は美しい姿勢を崩さない。
「……そんなことが、あったんか」
翔から明るい声音は消えていた。
「ごめん。環、ごめんな。ほんまに、ごめん」
「ナミビア行きをぎりぎりで告げたら、環が悩まんですむと思ったんや。物理的にまにあわへんタイミングで知ったら、一方的にぼくのせいにできるやろ。最終便に乗るのは……。言うつもりやってんけど、言えんかった。環との糸が切れてしまいそうな気がして。ナミビアに着いたら連絡しようと思ってた。ごめんな。自分のことしか考えてなかったんやな」
言葉を一つひとつ選んでいるのが、スマホ越しに伝わってくる。
環はみじろぎもせずに画面を見つめている。
「自分の夢に環を巻き込むつもりはなかった。けど、心のどっかで環がついて来てくれるのを期待してたんやと思う。ほんまに環のことを考えたら、きちんと別れて解放してやるべきやった。愛してるって一方的に告げてキスするなんて、自分の気持ちばっかりや。指輪のメッセージも、think of you で良かった。勝手に想ってるんやったら、それで十分。それを無意識にでも『待つ』にしたのは、独りよがりな気持ちがあったんやろな。自分のことしか考えてなかった、ごめん」
環が無言で何度も首を振っている。
瑠璃はその肩を撫で、スマホに向き合った。
これだけは訊いておかなければ。
「もう、結婚はされてますか」
「してないよ」
「今、つきあってる女性とか、結婚の約束をしてる方とかいますか」
「いない」
「じゃあ、指輪のメッセージはまだ有効なんですね」
「うん」
瑠璃は大きくひとつ息をはく。さあ、これでしあげよ。
「環は、今、別の人からプロポーズされてます」
水面に小石がひとつ落ち、画面の向こうで波紋が広がる。
「でも、返事に迷ってる。だから私が今日、無理やり環の記憶をこじ開け、やっと八年前のことを思い出したところです。指輪を探して植物園に行って。勇気を振り絞って翔さんに電話をしました。一日でほんまにいろんなことがあって。環は、たぶん、気持ちの整理が追いついてません」
「だから、もうちょっと待ってやってもらえますか」
波紋は鎮まっただろうか。
ひと呼吸の静寂のあと、明るい声がかえってきた。
「うん、ええよ」
「二千年も生きる植物を研究してるんや。十年、二十年待つぐらいたいしたことない。いつまでも待ってる」
第10話: Wander
「お母さんと」
翔との電話を切ったあと、冷めたコーヒーの代わりに煎り番茶を沸かしながら瑠璃が話しかける。
「そろそろ向き合っても、ええんとちゃう? 会う会わないは別として」
もう一つおせっかいを言ってもいいかな、と断って瑠璃は続けた。
「八歳の誕生日で環の時計は止まってる気がする」
「八歳の環にはわからなかったことも、今の環なら受けとめることもできるやろ。ずっと我慢してきた想いにケリをつけてもいいころよ」
我慢してきた。私は何を我慢してきたのだろう。
白い湯気のあがった湯呑を環の前に置き、熱いから気いつけて、と瑠璃はつけたした。煎り番茶は京番茶ともいう。茶葉を揉まずに燻してあるため煙草のような匂いがすると嫌う人もいるが、京都では昔から家庭で愛用されてきた。その独特の強くスモーキーな薫りが部屋じゅうにただよう。あくは強いのに懐の深い京の匂い。環は黙してすする。
ぼーん、ぼーん、ぼーん、ぼーん。
カフェの時計の音が耳管の奥でこだました気がして、環は顔をあげる。音をたよりに振り返ると、鈍い飴色にひかる柱に架けられている時計が午後四時を告げていた。
体をよじって見あげていると、瑠璃が湯呑を手に時計の下に立った。
「桂ちゃんのおじいちゃん、つまりカフェの時計を集めた人ね、が結婚祝いにくれたの。文字盤の青いガラスを嵌めたのは、うちのお父さん」
瑠璃が時計を愛おしそうに見あげる。瑠璃はまわりから愛されていると思う。それがときどき環はうらやましくなる。とりわけ、こんな日は。
夕飯もすすめられたが断って環は帰った。
川端二条から御池までは十五分もあれば帰りつく。だが、まっすぐ帰る気になれず鴨川の河川敷に下りた。川面を吹きあげる二月の風の冷たさにコートの襟を立て首をすくめる。カップルが等間隔に座ることで有名な河原も、こうも風が冷たいと犬の散歩をする人かジョギングをする人くらいだ。
今日はジェットコースターのような日だった。
「時のコーヒー」の力を借りて、22歳の誕生日を記録フィルムを観るようにたどり、記憶の奥底にしまい込んでいた翔と指輪を思い出した。植物園の温室でキソウテンガイと再会し、指輪にメッセージが刻まれていることを知った。翔に電話して八年ぶりに懐かしい声を聞いた。明るくやわらかな声が、まだ鼓膜をゆらしている。思い出すだけで胸がきゅうっとなる。私は今でも翔が好きなんだ。
二年つきあった翔と、二カ月ちょっとの正孝とを単純に比べることなどできない。おまけに翔への気持ちはコールドスリープして時のはざまに置き忘れていた。フリーズドライした気持ちを、今日、溶かしたところだ。八年前の想いが、時を飛び越えて突然あざやかに胸によみがえった。
もしも、と思う。
あの日、ナミビア行きを理由にきちんと翔と別れていたら、八年という歳月が少しずつ熱量をそぎ落としてくれていたのだろうか。物理的な時間の作用を受けることなくタイムカプセルに収められていた感情は、さびつきも色褪せもせず環を襲う。一度はあきらめた気持ちに希望の灯りがともったのだ。高ぶる波にのみこまれそうになる。
このまま、この気持ちに身をゆだねていいの?
環が八歳のころから望んできたのは平穏だった。不確かなものに翻弄されることを厭い、父のような確実性を求め、結婚するなら市役所職員と思い込んできた。
結婚と恋愛は別、よく聞くことばだ。
結婚は条件よ、誰かがいう。
結婚に幻想を抱きたがるのは男で、女はシビアでずっと計算高い。だって、人生がかかっている大博打だもん、と詩帆が言っていた。
詩帆の意見に全面的に賛成する気にはなれないけど。
いっときの感情に身をゆだねるなど、母と同じではないか。とも思うのだ。
ああ、また、お母さんだ。結局、この壁にぶち当たるのね。
瑠璃のいうとおりだと思う。
翔とのすれ違いも、源をたどれば八歳の誕生日に母が出て行ったことに突き当たる。怖くて逃げてきた感情と向き合わなければ、先に進めない。いいかげん終止符を打たなくちゃ。三十路なんだし。お母さんが出て行った年齢にも手が届きそうなのに。
「ゆく川の流れは絶えずして、しかも、もとの水にあらず。淀みに浮かぶうたかたは、かつ消えかつ結びて、久しくとどまりたるためしなし」か。鴨川の流れを詠んだ有名な一節が不意に口をつく。
環は足もとの小石を蹴る。石は低い放物線を描いて川に着水し、波紋が連鎖して広がる。
消えかかりそうな冬の日を受けて、川面がかすかに光る。
淀みの葦に引っかかったまま動けずにいる葉は私だ。父という葦にすがって動こうとしなかった。すべての原因が八歳の誕生日にあるなら、止まった時を動かさなければ。結果には原因がある。そういいながら、結局、私は原因から目を背け続けてきたんだ。苦い自嘲が頬をゆがめる。
鴨川は下流から淡く茜色に染まりつつあった。西岸のビルが影をのばす。瑠璃は空を仰ぐ。とりあえず、お父さんと話そう、そこからだ。
「お父さん、夕飯の前にちょっといいかな」
父の好きなアールグレイを淹れたマグカップを二つテーブルに置いて、環は向かいのソファに腰かけた。緊張でほんのわずかに声が裏返る。おそらく父は気づいただろう。でも、何も言わない。いつもと変わらぬ穏やかな表情で、環が話し出すのを新聞をたたんで待っている。
怒涛のようだった今日の一日をはじめから話した。瑠璃に連れていかれたカフェで飲んだ「時のコーヒー」のことも、植物園のことも、翔との電話の内容も。正孝からプロポーズされていることも。ぜんぶ。
ひと息にそこまで話すと、環は紅茶をすすり口をつぐんだ。
言葉にするのが怖い。八歳の環が胸のうちで怯える。
どのくらい時計の針は進んだろうか。ここで止まったら、また、同じことの繰り返しだ。同じ場所をうろつき回るだけ。
環は切れ長の眸をきっとつり上げ、小さく深呼吸して胸のなかに淀んでいたものを吐きだした。
「ほんまは誕生日がずっと、ずっと嫌いやった」
「誕生日は私がお母さんに捨てられた日やから」
喉の奥から苦いしずくが上がってくるのを、ぐっとこらえる。
まだ、泣いちゃだめ。吐きださなければ、訊かなければ、ずっと胸に巣くってきた不安を。
「私は……私は、お母さんに愛されてなかったんやろか」
環のまなじりは溢れてくる涙を支えきれない。
あいづちひとつ打たずに聴いていた父は、環の濡れる視線を受けとめ、静かに口を開いた。
「お前はよく、結果には原因がある、いうやろ。そのとおりやと思う」
まばたきほどの一拍を置くと、娘の覚悟と想いに対峙するかのように細く吐きだした息をすぅっと一気に吸い込み父は語りはじめた。
「母さんが、綾が出ていった原因をつくったのは、父さんなんや」
「そもそも私が親友を裏切って、綾を奪ったんだよ」
そう言って、父は顔をゆがめた。
第11話:The day we were
「高遠とは高校からのつきあいでね」
長くなるが聞いてくれるかと断って、父は語り出した。
高校一年のクラスが同じだった。私はこのとおり、まじめしか取り柄のない男だが、彼にはなんというか人を惹きつけるところがあってね、いつも人の輪の中にいた。まぶしい存在やったよ。なぜ親友になれたのか、いまだに不思議なくらいだ。
あれは一学期の中間テスト最終日だった。テストが終わった解放感から、皆、遊びに行ったり、部活に行ったりして、あっという間に教室には誰もいなくなった。私にはまだ友人と呼べる存在もなくて、だが、家に帰る気にもなれず、朝、出がけに兄貴の部屋から拝借した『スウィングジャーナル』というギター雑誌のページをめくっていた。ウォークマンのイヤホンをはめコルトレーンか何かをボリュームいっぱいで聞きながら。開け放った教室の窓から無遠慮に射しこむ初夏の光が、つるんとした雑誌のページで反射してまぶしいと思ったそのとき、ページがいい具合に影った。驚いて視線をあげると、高遠が机の前に立って開けたジャズの特集ページをじっと見ていた。
「ギターは弾けるか」
ぽかんと見あげる私に尋ねる。
「うまくはないけど」
「ベースは? ベースは持ってるか」
「兄貴のなら」
よしっ、と小さくガッツポーズして
「お前、部活は?」と訊く。
「まだ、入ってない」
「学校にベース持ってこれるか」
「たぶん」
よっしゃー!と右手を突きあげて叫ぶと、私の肩をばんばんと叩いて
「明日の昼休み、ベース持って屋上に集合な」
一方的に告げると、じゃ、といって鞄を肩にかける。
さぁああっと風が吹いて、カーテンが舞う。
気づくと高遠の姿は消えていた。夢を見ていたのかと思った。
翌日の昼休み、半信半疑でベースを抱え屋上の扉を開けると、真昼の太陽に何かがきらっと光り目を眇めた。ゆっくり視線を戻すと高遠がアルトサックスを手にして、にっと笑っている。
文化祭でさ。サックスとベースのデュオでジャズのスタンダードナンバーを演奏しようぜ、とサックスを撫でながらいう。人前で演奏できるほどの腕はないと私が断ると、
「俺かってサックスはじめたばっかや。できへんから練習するんやろ」
あ、と思った。できなければ練習すればいい。実にシンプルだ。目から鱗とはこのことかと思った。自分を覆っていた靄が晴れたような気がした。
屋上での練習がはじまった。遮るもののない夏の太陽。したたる汗。弦はすぐに切れ、音はぜんぶ空に吸い込まれた。あんなにもひたむきに何かに夢中になったことはなかった。やる前から諦める癖のあった私を高遠が動かした。モノトーンだった高校生活はあざやかに塗り替えられた。
大学に入学するとすぐ二人そろって「ジャズ研」に入った。
そこで、綾と出会ったんだよ。
その日、私たちは講義にも出ず部室に入り浸っていた。他には誰もいなかった。
ドラムは欲しいよな、とバンドの構成について話していたときだ。遠慮がちなノック音がして振り返ると、淡いサックスブルーのワンピース姿の女子学生が立っていた。丁寧におじぎをしてゆっくり顔をあげストレートロングの髪を片耳にかけた。黒目がちの涼やかな目。きれいな楕円を描く輪郭。すっと通った鼻梁。桃色にひかるふくよかな頬。それらが塑像さながらの美しいバランスで整っていた。
スポットライト。
むろんそんなものは煤けた部室にはない。だが、彼女の周りは空気が輝いてみえた。その光のなかで微笑んでいた。
呆けたように固まっている私の隣で、がたがたっと音をたてて高遠が立ちあがり両手を机について身を乗り出した。
「入部希望ですか」
「ここの学生ではないんですけど、入部できますか」
清水綾と名乗った女性は、K女子大のピアノ科の学生だという。どうやら先輩たちは女子大まで勧誘に行っていたらしい。
「もちろん」
「ちょうどピアノのパートを探してた。俺たちと組みませんか」
――えっ、探してたのはドラムじゃ?
高遠を上目づかいで見あげる。
「俺は高遠迅。アルトサックスをやってる。こいつは杉森祐人、ベースだ。よろしく」
高遠はさっと右手を出す。彼女はまだイエスの返事をしていない。
まっすぐ差しだされた手に女性はとまどい、切れ長の瞳を高遠と私に交互に走らせる。
高遠の持って生まれた力なのだと思う。夏空のように明るい笑顔は万有引力と同じベクトルで人を惹きつける。
綾はふっと小さく息を吐くと、にこっと微笑み右手を伸ばし高遠と握手を交わす。私は慌てて立ちあがろうとしてパイプ椅子を倒した。高遠が握手したまま左手で私の手をつかみ、二人の手の上に乗せる。部室の古いスピーカーからはサッチモの『What a Wonderful World』が流れていた。
あの時なんで綾を誘ったのか高遠に尋ねたことがある。探していたのはドラムだったのにと。「ビジュアルは重要やろ」と片目をつぶる。バンドの人気のため。それは照れ隠しだ。高遠もそして私も、あの瞬間、綾にひとめ惚れしたのだ。私は呆けて動けず、高遠は動いた。それだけのちがいだ。
私たちは練習に明け暮れ、たいていの時間を三人で過ごした。女子大のピアノ室を使うこともあった。高遠と綾が恋人になるのは時間の問題だと、はじめからわかっていた。
つきあうことになったと告げられたとき、覚悟をしていたとはいえ、私は指先からすぅと冷たくなり胸に小さな穴が穿たれた気がした。バンドから抜けたほうがいいのだろうか。
「まあ、なんも変わらんけどな。これまでどおり三人で練習して三人で遊ぶだけや」
高遠は同意を求めるように綾をみる。綾もうなずく。
なぐさめられているのか、バカにするなと思ったけれど。啖呵を切って離れていく勇気は私にはなかった。綾も高遠も、同じくらい大切だったから。
ところが、驚いたことに高遠の言葉に嘘はなかった。練習だけでなく遊びにも当然のように「土曜の九時、四条大橋東詰め集合な」と私に告げる。それまでと何ひとつ変わらなかった。
「俺がおったらデートにならんやろ」というと、
「祐人がおらんと誰が俺たちのラブラブ写真撮るんや」
そういって、太陽のように笑い私の肩に腕を回す。綾もころころと笑う。三人の時間が永遠に続くような気がした。
卒業すると私は京都市役所に、高遠は電気メーカーに、綾はアパレルに就職した。二人は数年で結婚すると信じていた。
社会人になってまだ三カ月の七月はじめだった。高遠から話したいことがあると連絡があり、土曜の昼に久しぶりに三人で会うことになった。
とうとう結婚を決めたんか。披露宴の相談やろか。
逸る心で高瀬川沿いのクラシック喫茶『フランソア』の重い木の扉を開けると、エルガーの『愛の挨拶』が聞こえてきた。
「六月末付けで会社を辞めた。アメリカでサックスの修行をする」
かぶりついたミックスサンドを口から落とした。
「えっ?」
綾と私は、ほぼ同時に引き攣れたような声をあげた。綾が口もとを両手でおさえ、目を見開いて高遠を凝視し固まっている。
くそっ、綾にも相談してなかったのか。
高遠は決断力も行動力もある。だから、たいていのことはひとりで決め、周りを巻き込む。私は優柔不断だし、綾にいたっては約束の時間を忘れるようなうっかりしたところがあった。だから私たちは、頭を高遠に預ける癖がついていて彼のリーダーシップに頼りきっていた。今から思えば、それも良くなかった。
「アメリカに立つ前に婚約しときたい」
高遠は綾の前に赤い革張りの小箱を置く。
「給料の三か月分らしいけど、まだ、三カ月働いてへんし、アメリカに行くのに貯金はたいたんで。すまんけど、これは安物で仮や」
綾は視線を箱に固定したまま動かない。手は膝に置いたままだ。
高遠はそんな綾を気に懸けるでもなくさっと蓋を開け、ハート型にルビーが三粒並んだリングを手にとると、綾の左手薬指に嵌めその手を握る。
「三年待ってくれるか。それであかんかったら帰ってくる。祐人は綾を支えてやってほしい。こんなこと頼めるのは、お前しかおらん」
高遠が頭をさげる。綾が私にすがるような目を向けている。綾のまなじりには今にもこぼれ落ちそうな滴が浮かんでいた。それが嬉し涙なのか、悲しみの涙なのか、私にはわからなかった。
翌週の日曜、高遠は綾の両親に挨拶に行った。それまでにも何度か食事を共にしたこともあったそうだから、婚約を了承されるものとたかをくくっていたのだと思う。だが、父親の怒りはすさまじく、二度と敷居をまたぐなと追い返されたらしい。
高遠はそんなことで決心を変えるやつではなかったから、二週間後にはニューオーリンズに向けて旅立って行った。
残された綾がかわいそうでね。パスポートは取りあげられ、電話の取次ぎはおろか手紙も処分される。そのことに気づいてから、綾宛てのエアメールは私の住所に送られてくるようになった。それを私が綾に渡す。綾と二人きりで会う機会が増えたことを皮肉に思ったよ。
三カ月ほど過ぎたころだった。綾から職場に電話がかかってきた。そんなことはこれまでになかったから驚いた。
「今日、仕事終わってから会える?」
「飲みに行くか?」と尋ねると、
「ごめん。夕食は家で食べんとあかんから、フランソアで待ってる」
綾はステンドグラスの下の席に座っていた。あの日と同じ席だ。偶然か、それとも綾が選んだのか。通りの灯りがステンドグラスの陰翳を綾の顔に浮かびあがらせていた。憂いを帯びた横顔はため息のでるほど美しかった。
「見合いをさせられるの」
私が席につくのも待たずにいう。「どうしよう」と言ったとたん涙が堰を切って溢れだし、綾の美しい頬に筋をつける。
「会うたこともない人と……結婚…させ…られる」
他人目もはばからず綾が泣く。私はどうしていいのかわからなかった。せめて好奇の視線を遮らなければと、向かい席から綾の隣に座り直し、ためらいがちに肩に手を置いた。私の胸に顔をうずめ泣きじゃくる綾の肩を撫でているうちに、胸に灯った小さな怒りの炎はしだいに大きくなっていった。
――なんで綾を泣かせるんだ。なんで綾をおいてアメリカに行ったんだ。せっかく就職したのに。夢を追いかける? 勝手だ。いい加減にしろ。こんなにも綾に愛されているのに。なんで綾を苦しめる。綾を支えてくれだと、ぜんぶお前のせいじゃないか。俺だって綾を愛してるのに、ちくしょう。
細い肩を震わせて綾は嗚咽を繰り返していた。
その肩を抱きながら、こんなふうに抱きしめたかったんやないと思った瞬間、怒りが制御しきれなくなっていた。魔が差したといってもいい。
「俺と仮に婚約するか? そしたら見合いは回避できるんやないか」
綾の肩を撫でながら耳もとで囁いた。
綾は私の胸から顔をあげ、真っ赤に充血した目で私を見つめた。
じっと黙っている。
その沈黙の重さに、自分がとんでもないことを言ってしまったと悟り、取り消さなければと思ったが、喉がからからに干あがって言葉が出なかった。
第12話:Time goes by
運ばれてきたコーヒーの薫りが私を正気に返らせた。ひと口すすると、ひび割れた大地に水が浸みこむように喉を潤しようやく呼吸ができた。声帯がふるえ意味のある声になる。
「今のは忘れてくれ。綾がアメリカに行く方法を考えよう」
綾の肩から手を離し向かい席に戻って、失言を覆い隠そうと私はしゃべり続けた。
まずはパスポートや。親に取りあげられたんやったな。紛失届を出そう。パスポートは海外で失くすより、国内が多いんや。ほんで‥‥‥。
綾の涙は止まっていたが、じっと黙っていた。その沈黙が怖くて壊れたレコーダーのように同じフレーズをぐるぐる繰り返す。何周目だったろう、綾が貝のように閉じていた口を開いた。
「祐人、私のこと愛してる?」
ステンドグラス越しの灯りが綾の顔に美しい陰翳をつけ、泣き濡れた目が私をとらえる。何を言い出すんやと思った。だが、綾のまなざしは真剣だった。私が怯むほどに。
「ああ、はじめて会った日から、ずっと」
「あ、でも。高遠と君の交際は応援してたし、結婚も心から祝福するつもりやった」
早口で付け足す。
うん、わかってると綾はつぶやくと
「祐人と婚約する」とかすれた声を絞りだした。
店内にはドビュッシーの『月の光』が静かに流れていた。
簡単には認めてもらえんやろと覚悟していたが、目を閉じ腕組みしていた綾の父親は顔をあげると「善は急げや。結婚の準備を進めなさい」といって座敷を立った。北山にある綾の家の庭では紅葉が色づきはじめていた。
京都市役所勤めが効いたのか。愛娘を目の届くところに置いておきたかったのだろう。私たちの小細工など端からお見通しで、本気を示せといわんばかりに、三カ月後には式を挙げる手はずが当人たちを置き去りにして決まっていった。
綾は淡々と受け入れていた。
私は自らの失言が、いや失言ではない、心の奥底に押し込めていた妬心と欲心が鎌首をもたげた結果がもたらした事の重大さに震えていた。
「同居するだけ、結婚は形だけで仮や」
そんなことを新婚旅行先で雪のちらつく兼六園を歩きながら話した。
せやから、寝室は別にするつもりやと。
綾は、なんで?と小首をかしげる。
「私は祐人と結婚したんよ」
歩みを止めて私に向き直る。
「迅と居るといっつも16ビートで心臓が跳ねてた。頭の回転が速くて、ぱっと決めて行動する。振り回されてばっかり。ジェットコースターに乗ってるみたいで、ドキドキしておもしろくて惹かれた。でもね」
と、雪の舞う空を見あげる。傾けた傘の上を粉雪がすべる。
「三年後に迅が帰ってきても結婚は認めてもらえん。夢破れての帰国はもちろん、成功してもお父さんはミュージシャンなんか認めない。私をアメリカに連れてくいうなら、なおさら」
結婚して綾のパスポートが手に入ったら、アメリカ行きを算段すればいいと考えてた自分の甘さに臍を噛む思いだった。綾はあの長い沈黙のあいだにそこまで考えて覚悟を決めたのだ。
「だからやないよ。祐人と結婚したのは」
「迅に振り回されがちな私を祐人はフォローしてくれてた。迅がアメリカに行ってしもて気づいたの、祐人の優しさに。迅は私の手を引っ張るけど、祐人は私の背を支えてくれる。迅との恋は刺激的で楽しかったけど、結婚生活にジェットコースターはいらんもん」
「祐人の隣でなら、安心して呼吸できる気がする」
私たちの結婚の経緯を報せると、高遠からの音信は途絶えた。
環が生まれてほんまに幸せやったけど、親友を裏切ったという罪悪感が消えることはなかった。この幸せは高遠のものやったのに、と。
あの日、高遠が迎えに来たとピンときた。だから、探さんかった。胸に刺さったままやった棘がとれたような気がした。
それが環をこんなにも深く永く傷つけてしもた。かんにんな。
お母さんは、環も連れて行きたかったはずや。けど、私のために環を残してくれたんや。
そこで話を切ると父はソファから立ちあがり、リボンのついた箱を抱えて戻ってきた。高島屋の包装紙は赤いバラがうすぼんやりして、リボンも色褪せ、角もところどころへしゃげている。
「開けてごらん」
父にうながされリボンの先をそっと引いて包装紙をはがす。
あっ。環は小さく声をあげた。
現れたのはシルバニアファミリーのキッチンセットだった。八歳の誕生日にリクエストしていた。環は視線をあげる。
父はうなずく。
お母さんはそれをボストンバッグに入れて隠してた。そのバッグにうっかり荷物を詰めて持っていったんやな。あとで気づいて送ってきたけど、届いたのは一カ月後で同じものはすでに買い直してたし、環が悲しみをぶり返してもと思って渡せずにいた。
お母さんは最後まで迷ってたんやと思う。
「ジャズサックス奏者のJinって、知らんか?」
名前なら聞いたことがある。世界レベルで有名な日本人ジャズサックス奏者だ。
「Jinは、高遠や」
えっ。環の声が裏返る。
「当時、東京でJinの凱旋コンサートがあった」
何日か前に高遠から連絡があったんとちゃうやろか。あの日のフライトでアメリカに帰る予定の高遠は、綾の意思なんか気にもとめず、待ち合わせの時間と場所だけを伝えたんやろ。学生時代も予定を決めるのは高遠で、日程と場所だけ伝えてくる。おまけに綾は約束の時間をまちがえることも多かった。せやから高遠は、時間になっても綾が来んのは忘れてるんやと迎えに来た。急いでたからバッグに荷物を詰めたのは高遠かもしれん。
けど、綾は迷ってたんとちがうかな。ケーキを作ってたくらいや。ほんまに忘れてたのかもしれん。あの日は環の誕生日で、たぶん綾の頭にはそれしかなかった。せやし、高遠が急にやって来ておろおろしたんとちがうやろか。そんな綾を高遠は「時間がない」と強引に引っ張っていった、目に浮かぶよ。
毎年、環の誕生日にお母さんはプレゼントを送ってきてた。「こっそり渡して」と頼まれてたから、お父さんからのプレゼントはいつも二つあったやろ。誕生日プレゼントだけやない。環のお気に入りの赤いカーディガン。あれは綾が編んだ。水玉のワンピースも、リボンのついたセーターも、ピアノの発表会のドレスも。ぜんぶ綾が作ったものや。ほんまは一緒に祝ったり笑ったりして環の成長を見守りたいやろうと思うと切なくて。写真とビデオを送るくらいしかできんかった。
ああ、それでか。
父はことあるごとに環の写真を撮りビデオを回した。何枚も何枚も連写で撮るから恥ずかしくなって、もうやめてと言っても父は撮影をやめようとしなかった。
「キソウテンガイは一対の葉で二千年も砂漠で生きるいうてたな。私と綾はキソウテンガイにはなれんかった。はじまりをまちがえてしもたから」
「しかたなかったんやないの、お見合いを回避するには」
父はゆっくりと首を振る。
「それでもな、順番をまちごうたんや。綾がアメリカに行けんのやったら、私が行けばよかった。高遠に帰って来い、お前が帰って来んのやったら俺が綾と結婚するぞ、それでもええんかと説得して了承を得るべきやった」
「それを……」
父は何かを堪えるように口をつぐむ。
「うやむやにしといたほうが綾と結婚できると、薄汚れた下心がすべてを歪めた」
「お父さんは、最愛の女性を二人とも不幸にしてしもた」
「環にはまちがって欲しくないんや。お父さんやお母さんのように。翔君と正孝君と。環がほんまに好きなんはどっちか。困難な状況になっても一緒に乗り越えられるのは、キソウテンガイのようになれるのは、誰となのか。条件とかしがらみとかお父さんのこととか、余計なことは考えんと、自分のここに訊いてみなさい」
といって、父は私の胸を指さした。
「うん、わかった。でも……」
と環はうなずいたあとで、ふだんは柔和な父のまなざしが自責で強張っているのが悲しかった。
「ほな、なんでお母さんは出て行ったん? 私のことを愛してたんやったらなんで? 行くつもりなかったんやったら、なんで? お母さんが高遠さんについて行かんかったら良かっただけやない。引っ張られても拒否したら良かった。お父さんのせいとちゃう。結局、お母さんは高遠さんを……」
と言いかけて環は、はっとした。父をかばうつもりが、逆に父に刃を向けている。
「それは私にはわからん。お母さんに直接きかんとなあ。本心を言うてくれるかどうかは、わからんけど」
父はふっと目を細める。凪いだ湖面のように口もとがかすかにゆるんだ。
「ええ潮時かもしれん。時のコーヒーと古時計やったか、それが私たちの止まった針を進めてくれたのかもしれんな。お母さんに会いに行くか」
「えっ? アメリカに行くの?」
「いや、お母さんは、大津にいてるよ」
第13話: Confession
「はい、どうぞ」
カウンターのいつもの席で新聞を広げている泰郎の前に、桂子はコーヒーとチョコレートを三粒のせた白磁の豆皿を置く。淹れたてのコーヒーの湯気がひそりと残っていた二月の冷気を抱いてゆらゆらと昇る。熟れた果実にも似た芳醇な薫りがふわっと漂った。新聞をたたみ泰郎は、おやっとチョコレートの皿から桂子に視線を移す。
「バレンタインやから」
「今日はバレンタインか。瑠璃が結婚したから忘れてたわ。桂ちゃん、おおきに」
二月の京の朝はまだ寒い。だるまストーブがあたためた空気が窓を白く霞める。
からからから。
格子戸が開く音がして、桂子と泰郎がそろって戸口に顔を向ける。
「環ちゃんやないか。おはようさん」
「おじさま、ほんまに毎朝いてはるんやね」
「日課やかさかいな。ここでコーヒー飲まんと一日がはじまらん」
瑠璃と来たのかと、泰郎は首を伸ばして環の後ろをうかがう。娘の顔は見たい。見たいが、カフェで会うと、お父さんはまた油を売ってとなじられ、早々に退散せんとあかんのもかなわん。新聞を広げ顔を隠しつつそれとなく環の背後に目をやる。
風にあおられた暖簾にからかわれ入って来たのは男だった。
おや、環ちゃんが珍しい、と泰郎は新聞を鼻先まで下げる。
あれだけの美人やのに男っ気がないのが不思議やったけど、ええ人ができたんやな。それにしても、ぱっとせん男やなあ。
環について入って来た男性は、顔にまとわりつく暖簾をはがしながら背を向けて格子戸をきちんと閉め、向き直ると、柱時計が壁を埋め尽くす店内の景色に、眼鏡の奥の細い目を見開き口をあんぐりと開けて固まった。不動の魔法をかけられたみたいにぴたっと止まっている。その姿がどことなくおかしくて桂子は小さく笑う。
「いらっしゃいませ」
カウンターを出て頭をさげる。
「こちらは、店長の桂子ちゃん」
環が桂子を紹介すると、男はあわててコートの内ポケットから革の名刺入れを出し
「宇治市役所総務部市民税課の時任正孝と申します」
と手本のようなマナーで桂子に名刺を渡した。
桂子は名刺と男の顔を交互に見やり、滑稽なくらいの生真面目さに思わず頬がゆるむ。
「ここにはね、時計に選ばれた人だけが飲める『時のコーヒー』っていう不思議なコーヒーがあるの」
語りながら環が振り返る。
てっきり後ろに控えていると思っていた正孝がいない。視線を左右にゆらすと右の壁際で鳩時計に顔を近づけ、伸びあがったり、振り子をのぞいたりしている。後ろで組んだ手がそわそわしている。触りたいのだろう、まるでこどもだ。こんな正孝を見たことがない。
くすっと笑みをもらして、環は緑の横長の時計の前の席に腰かけた。
「時計がお好きなんですか」
盆を提げた桂子が正孝の背に声をかける。
「振り子とぜんまいと歯車の動きで正確に時を刻む。すごいですよ」
正確さに惹かれるところが正孝らしいと環は思った。
その背を眺めながら、環は22年ぶりの母との再会をなぞっていた。
母は大津駅からタクシーで十分ほどの住宅地で暮らしていた。
はらはらと涙をこぼす頬にはほうれい線が深く刻まれ、目尻に走る皺でファウンデーションはひび割れている。重力に抗うことを諦めた頬と瞼。確かに母ではあるが微妙に歪んだパーツの違和感がぬぐえず、記憶にある若く美しい母と直線で結びつかない。22年の歳月は容赦なかった。
高遠との暮らしは三年で破綻したという。
夫と幼い娘を残してアメリカに渡った不義理に激怒していた綾の父親は「京都の地を踏むな」と帰国した娘に厳命し、代わりに大津の家を与えた。愚かな行為は許せんけど、娘のこれからは心配という親心やね。私はみんな不幸にしてしもた。謝って済むことやないけど、かんにんえ。
うつむいた頭はしばらく上がらなかった。
その程度の謝罪で22年を帳消しになんかできない。
「なんで高遠さんについていったん? まだ、愛してたから? せやったら、なんで三年で帰って来たん?」
「愛してたかどうかは、ようわからんの。恋焦がれるほどの想いは消えてたけど、迅への気持ちは宙ぶらりんのままやったから。埋火のようなもんは残ってたかもしれん。確かなのはあの日、さもしい下心を抱いたいうこと。成功した迅と一緒に行ったら私も同じ舞台に立てるかも。ジャズピアニストになれるかも。そんな甘い夢を見てしもた」
だが、その夢はまるっきりの夢ではなかったらしく、迅は綾をバンドのメンバーにごり押しで入れた。けれど。
ピアニストは一日弾かんと自分でわかり、三日弾かんとお客さんに気づかれる。ピアノから遠ざかってたし、家事のあいまに二時間も弾けばええほうやったから。指が回らん。プロの演奏についていけへん。容赦ない罵声を浴びた。それでも迅は使ってくれたけど、それが辛かった。半年ほどでバンドから抜けて狂ったように練習した。環と祐人を犠牲にして来たんやもん、がんばらんと、と思った。環のことを思わん日は一日もなかったよ。風邪ひいてへんやろか、熱出してへんやろか、今日は誕生日やとか。自分が捨ててきたくせに、ほんまに勝手やけど、環のことを思うとがむしゃらにがんばれた。でも、練習のしかたをまちごうたんやね、腱鞘炎になってしもて。そのうち迅ともすれ違うようになって。腕も心もぼろぼろで……。
そこで絶句した母のあとを父が続けた。
「高遠から、迎えに来てくれと連絡があってね」
えっ? 環は事態がのみこめなくて混乱した。
「ピアノの腕は罵倒される。練習したくても腱鞘炎で弾けない。頼りの高遠は不在がちでひとりぼっち。お母さんは自分で自分を追い詰めて、うつになってしもたんや」
「高遠は自分が日本まで送ってやりたいけど、スケジュールが詰まってて身動きがとれん。全米一周ツアーもあってひとり残しておくのも心配や。こんなことお前に頼める立場やないことはようわかってる、せやけど、言うてな。お父さん、アメリカに一週間行ったことがあったやろ、あれはお母さんを迎えに行ってたんや」
そういえば、北山のおばあちゃんが泊まってくれたことがあった。六年生の夏休み前で祇園祭の宵山も祖母と出かけた。
「高遠はな、すまんかったって謝ってくれた。はじめに祐人が裏切ったんやから俺が奪い返して当然やと意地になってた、それが綾をこんなふうにしてしもた、すまんて何度も頭をさげた。高遠は自分の非をごまかさずに認める。私は卑怯な自分との違いを痛感したよ」
父は口をゆがめる。母はハンカチを握りしめた手を膝に置いてうなだれている。
「そもそも高遠さんがアメリカに行かんかったら、良かったんとちゃうの」
「ああ、そうかもしれん。けど、そしたら世界のJinも、Jinの音楽も生まれてへん。環、お前もな」
それはそうかもしれんけど。たった一つのボタンのかけ違いは、もうどうにもできんのやろか。
「綾を連れて帰って来る飛行機の中で、も一回やり直さへんかって訊いたけど、そんな都合のいいことはでけへん言われてな。そのときは綾の心の状態も不安定やったし、環も思春期に差しかかってたし、もうちょっと様子みよかと考えたんや」
「それがこないに長いことかかってしもて。環、お前にはほんまに悪いことをした。すまんかったな」
「ごめんね、環、ごめんね。ごめんね。ごめんね」
母は消え入りそうな声でつぶやき続ける。
「お前にはまちがえてほしくないんや、お父さんやお母さんのように」
父のフレーズに母の「ごめんね」がシンコペーションで重なって鳴りやまなかった。
ぼーん、ぼーん、ぼーん。
十六番の時計が環を現実に引き戻す。
はっと気づくと、正孝が向かいの席に腰かけるところだった。
第14話:Merry go round
正孝は時計に夢中になり過ぎていたことに気づいた。
環は中央のテーブル席に座ってぼんやりこちらを見ている。
カフェに入った瞬間から正孝は気持ちが高揚していた。壁を埋め尽くす柱時計に圧倒された。ひとつとして同じものはない。正確に等時運動を繰り返す振り子。針が時を刻む音。一日中でも眺めていられると恍惚としながら、はたと我に返った。
いや、今は時計どころではない。プロポーズの返事を聞くのだから。
緊張が喉へと逆流する。二週間前のプロポーズから、期待不安不安、後悔後悔後悔、期待後悔不安後悔のリズムで気持ちの波が寄せては引いてを繰り返している。
脱いだコートを椅子の背に架けていて、環の視線を感じた。正孝が座るのを固唾をのんでみている……気がする。
環さんも緊張してる?
色よい返事はしやすいけど、断りは言いにくいもんな。
桂子がグラスを置き、ちらっと環と視線をからませる。グラスの水が大きく波立ち跳ねる。
桂子まで緊張しているようにみえるのは気のせいだろうか。
「この時点で時計が鳴らんかったら、時のコーヒーは不発?」
「そうですね。お客さんが席につかれるタイミングか、メニューをお出しするときに鳴ってましたから」
二人の会話の意味がさっぱりわからず正孝が怪訝な顔をしているのに、環が気づく。
「このカフェには、時のコーヒーいう不思議なコーヒーがあるの。時計に選ばれた人しか飲めないコーヒーで、過去の忘れものに気づかせてくれる」
何を言っているのか。理知的な環がどうしたのかと正孝はとまどう。
「正孝さんも飲めるかなと期待してんけど。時計は鳴らんかった」
「環さんは飲まはったんですか」
「うん。これから話すけど、まずは注文ね。桂ちゃんが待ってるし」
環がメニューを広げ正孝の前に置く。
「私はモカを。正孝さんは?」
「6時25分のコーヒーってなんですか?」
「よくわからないんです」
桂子が申し訳なさそうにいう。
「ここはもともと祖父の店で。時計もぜんぶ祖父が集めました。店を継ぐときメニューの時刻についても尋ねたんですけど。おもろいやろ言うだけで。『6時25分のコーヒー』て書かれた缶の豆を挽いて淹れます。目覚めの一杯にあう爽やかな味です」
「ぼくはそれを」
「かしこまりました」
カウンターに戻る桂子の背を目で追っていると、環が話しだした。
「こないだ瑠璃に連れられてはじめて来たの。そのとき私が席につくと、この時計が鳴った」
テーブルに方ひじをついて顎を乗せ、環は横長の緑の時計を見あげる。斜めに向けた横顔が美しい。
「私も冗談かと思った。でも。カウンターに座ってる男の人、瑠璃のお父さんなんやけど、あの人も時のコーヒーを飲んで瑠璃との約束を思い出したいうし。なにごとも検証せんとあかんやろって瑠璃に痛いところつかれて」
環は片頬をあげて苦笑する。
「思いきって飲んでみたら、22歳の誕生日が映画みたいによみがえって。それがトリガーやってんね、ずっと私を縛ってきたものに気づいた。時計が私の止まってた時間を動かしてくれたの」
環が正孝を見つめる。
「ちょっと長くなるけど聞いてくれはる?」
瑠璃とカフェを訪れた日のことをなぞりながら環は語った。
恋人だった翔のこと、キソウテンガイという奇妙な植物、翔から贈られた指輪。ナミビアに翔が旅立ったことも。なぜ記憶を封印したのかも。八歳の誕生日に母に捨てられたこと。八年の時を超えて翔と電話で話したことも包み隠さず話した。若かった父と母と高遠との間に起こったできごとも。母と22年ぶりの再会を果たしたことも、ぜんぶ。
コーヒーはすっかり冷めていた。ぬるくなったそれをひと口すすり、正孝を見る。眼鏡ごしの細い目は感情が見えづらい。あいづちはなかったが背筋を立てて聞いてくれていた。その気真面目さに横隔膜のあたりがちくっと痛む。ぬるいコーヒーをもうひと口流し込むと、環は覚悟を決め唾を飲みこむ。
白い革のジュエリーボックスをテーブルに置くと、
「ごめんなさい」と頭をさげた。
くせのない髪がはらりと垂れて横顔に紗をかける。言葉が続かない。何度も予習した文言が口の裏まであがっては泡となって消える。規則正しい振り子の音が耳膜でこだまする。
「ナミビアに行く決心はつきましたか」
うつむいた環の頭上に正孝の平坦な声が降ってきた。はっと顔をあげる。眼鏡の奥がやわらかにゆるみ正孝が微笑んでいる。
正孝自身こんな気持ちになるのが不思議だった。
環は言葉を選びながら、ときに口ごもり、また何かに憑かれたかれたように語り続けた。他人に打ち明けたくないたぐいのことばかりなのに。隠すことなくためらうことなく真摯に言葉を継ぐ。事実のなかから真実を見いだそうとするドキュメンタリー番組のように。
まっさきに語られた22歳の誕生日で環の心が翔にあることはわかった。プロポーズの返事はノーだろう、まちがいなく。それなのに落胆も悲嘆も一滴も湧いてこなかった。自分が当事者であることを忘れ、映画かドラマの観客さながら、主人公の環を応援する気持ちに駆られた。環の父にシンクロし、どうか環がまちがえませんようにと願った。
環はだれもが振り返るほどの美人だ。でもそれを誇ったり飾りたてたりしない。謙虚でつつましい人だと思っていた。だが、ちがう。自己肯定感が低いのだ。幼い日に母に捨てられたと思い込んだから。
正孝も自己肯定感が低い。おとなしい性格、平凡な容貌。良くも悪くも目立たない。欠席しても気づかれない存在。取り柄といえるものもない。同じように自己肯定感の低いぼくが、環を救うことはできない。砂漠を生き抜くキソウテンガイの片葉にはなれない。
だるまストーブの炎が、空気をまあるく暖める。
「ぼくは計算高くて小心者なんです。箱は開けてみた?」
環が首をふる。
「開けてみてください」
正孝にうながされて蓋を開け、あっと小さく驚く。
からっぽだ。
正孝は頬を少しあげている。それは微苦笑という表現がふさわしいほど、かすかに引き攣れた笑みだった。
「叔父が三十三間堂の近くで宝石店をやってて箱だけ借りた」
「成功の確率は1パーセントもないと思ってたから。ずるをしたんです」
はは、と笑いながら首筋を掻く。
「ぼくはね、これまで他人から関心をもたれることがなかった。居てもいなくても気づかれん影の薄いやつ。名前だってロクに覚えてもらえん。時任を時田はまだええほうで、戸田とか伊藤とか。社会人になって誰彼かまわず名刺を渡した。それでも仕事関係の人にも、まともに覚えてもらえん」
正孝が薄く自嘲する。
「婚活パーティで名刺を渡したのも習慣でね。どうせまたゴミ箱行きやろと。そやのに、あなたは、ぼくとぼくの名刺に関心をもってくれた。そんなのは初めてで。たとえそれが宇治市役所職員やったからだとしても、ぼくという存在に気づいてくれたのがうれしかった。それもこんな美人が。こないなチャンスはもう二度とないかもしれん。焦ってイチかバチかの暴挙にでてしもた」
額に浮いた汗をきっちりと畳んだハンカチで押さえる。
「環さんと歩いてると、みんなが振り返る。もちろんあなたが美人やからやけど。なんかぼくまで注目されてるようで誇らしかった。大いなる勘違いとわかっててもね」
ひと息ついて姿勢を改める。
「せやから環さんが気に病むことはない。謝らなあかんのは、ぼくのほう」
正孝は膝に両手をついて頭を深くさげる。
いややわ、正孝さん。頭あげて。環がおろおろと懇願する。
「これで、おあいこです」
正孝がにたっと笑う。そんな表情の正孝をはじめて見た。
「そのペンダントトップは、翔さんの指輪?」
「うん」
「サイズが大きい言うてたね」
正孝はスマホを出してどこかに電話しだした。
「叔父さん、正孝です。今から杉森環さんいう美人が店に行くから、指輪のサイズ直しをしてほしいねん。うん……うん。もちろんタダで。30分くらいで着くから、よろしく」
スマホを切ると名刺を一枚抜き取り、裏に何かを書き始めた。
「叔父の店は三十三間堂の二筋手前を西に折れたところにある。今から30分で行くいうてあるから」
名刺の裏には簡単な地図が描かれていた。
さあ、と環をうながし正孝が立ち上がる。
「言いにくいこともぜんぶ話してくれて、ありがとう。おかげで、環さんのキソウテンガイは自分やないとわかった。ふられたショックはびっくりするくらいなくて。心から翔さんと幸せになってほしいと思てる」
うまく言えなくてごめん、といいながら正孝は右手を環に差し出す。
「何年かかるかわからんし、一生見つからんかもしれんけど。ぼくも自分のキソウテンガイとなる葉を探します。ぼくに気づいてくれて、ありがとう。あなたが勇気をくれた。だから幸せになって」
環の白く細い手をそっと握る。
さ、叔父が待ってるから、はよ行って。
ぼーん、ぼーん、ぼーん。
十六番の緑の時計が環をはげますように声をあげると、店じゅうの時計がいっせいに鳴りだした。
環はなんども振り返っては頭をさげ格子戸を開ける。カウンターに泰郎の姿はなかった。とっくに帰ったのだろう。
まだ、泣いちゃだめ。
戸口で見送ってくれる桂子に、ありがとう、と小さくつぶやき格子戸を閉めた。
切れ長の双眸から熱いきらめきがにじみ出る。それをひとさし指の関節でぬぐいながら二月の空を見あげる。銀色の雲のすきまから冬の日が白い筋となって祇園の町並みに降り注いでいた。
――私は愛されていた。なのに気づこうとしなかった。
靄がうっすらと晴れていく。「結果には原因がある」といいながら、雲の下にあるものを見ようとしなかった。
ナミビアに行こう。翔のもとへ。
古時計が、正孝が、瑠璃が、父と母が背中を押してくれたのだから。
砂漠で二千年を生きるキソウテンガイをこの目で見よう。
「よろしかったら、柚子茶をどうぞ」
十六番の時計の前に立って伸びあがって眺めている正孝に、桂子は湯気のあがるグラスとチョコレートを盛った豆皿を置き、声をかけた。
「ありがとうございます。いいですね、この時計」
細い目に興奮をのせて桂子を振り返る。
「ほんまに時計がお好きなんですね」
「ええ。ぼくも、さっき気づいたばかりです。自分にはなんの取り柄もないと思ってたけど、夢中になれるものを見つけました」
晴れ晴れとした顔を向ける。
「もうちょっと眺めててもいいですか」
「ええ、お好きなだけ」
「また、来てもいいですか」
「ええ、いつでもお待ちしてます」
* * * The End * * *
「またのお越しをお待ちしています」 店主 敬白
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