大河ファンタジー小説『月獅』9 第1幕:第3章「森の民」(3)
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第1幕「ルチル」
第3章「森の民」(3)
「ルチルか、久しいな。天卵を宿したか」
足音は聞こえなかった。近づく気配もなかった。
ルチルはびくっと反射的に身を強張らせる。
おそるおそるふり返ると白く輝く鹿の王がいた。
だが、よろこびに染まりかけた笑顔は一瞬で固まり、安堵の吐息は喉の手前で霧散した。
記憶の奥底にたいせつにしまっていた御姿との、あまりの違い。ルチルは驚きを通り越して絶句した。
かわらず胴体は白く透けていたが、その体躯は明らかにひと周り、いやそれ以上に小さくなっている。六歳の夏には見あげる山のように感じた巨躯も、今は鼻先がルチルの目と同じ高さでしかない。シンの頭のほうがずっと高い位置にある。これではふつうの鹿と変わらない。
――白の森の王に、何があったの。
謎の流行り病に脅えている森。
――白の森に、いったい何が。
王の来臨にシンが片膝をついて川原に跪拝した。あわててルチルもそれに倣う。
「待たせて悪かったな。川を閉じるのに難儀いたした」
――川を閉じる?
ルチルはそっと顔をあげ、そして目を瞠った。王の背後にあるはずのルビ川が、つい先ほどまで流れていた川が、一滴も残さず干あがっている。
「王様、森は、‥‥白の森にいったい何があったのですか」
森を映した深く濃い翡翠の瞳がルチルをとらえる。躰が小さくなっても王は王であった。辺りを薙ぎはらってあまりある懐の深い威厳。
ルチルが、森が、王の言葉を待っていた。
「きっかけは、蝕であろうな」
「蝕?」
ルチルがオウム返しで訊く。
「ルチルよ、これから話すことは森の存続にかかわる秘事である」
「故に朕はまだ迷っておる、そなたに話すべきか否かを。話した後で、そなたの記憶を消すべきか否かを」
ルチルは唾を飲み込む。
「王よ、僭越ながら私めの考えを申し上げてもよろしいでしょうか」
ルチルの緊張を察したのか、シンが声をあげる。
「シンか、申してみよ」
「先にも奏上いたしましたように、流行り病の源はルビ川の水と考えられます。植物の枯れが川に沿って顕著だからです」
「うむ」
「ルビ川の水源はノリエンダ山脈にあります。さすれば山脈を擁するノルテ村でも病が広がってしかるべきです。ですが、偵察に行かせた鷹の報告ではそのような事態は見受けられなかった。それに、森の外ではルビ川の存在自体が今や伝説でしかなく、ルビ川の水脈を知る人間などいないはず。それなのに感染源がルビ川であること。また」
シンはここでひと息つくと王に視線を据える。
「蝕の年でさえなければ、川原の苔や葦に異変が見つかった時点で、本来の王の力を持ってすれば食い止めることができたのではございませんか。
一連の事態には、作為的なものを感じます。それも、非常に巧妙な。じわじわと森をむしばむような巧妙さです。それらが蝕の年に起こった。これは偶然でしょうか。相手はおそらく、蝕のことを知っている。今年がその年であることも。王もお気づきなのではありませんか。だからこそ、『きっかけは蝕だ』と仰せられた。違いますか?」
跪拝したまま顔をあげて訴えるシンの翡翠に輝く瞳を、王はまっすぐに受ける。それは王と同じ森の色だ。
「そちには、かなわぬ。続けよ」
「森の機密を知っているものがいる。白の森に精通しているといっても過言ではありません。けれど、それがどこの誰なのか。ノルテ村のものなのか、ノルテ村を陥れようとするものなのか。あるいはもっと別の思惑をもつものなのか。現時点で我われには見当もつかない。姿の見えない敵と対峙するには、外の世界に味方を増やすしかないのではありませぬか。
ですが、やみくもに誰でも、というわけにもまいりません。そもそも森は人間を排除することで成り立ってきました。だから、緊急避難的に受け入れた者も、記憶を消して外に帰す。ところが、九年前に受け入れたルチルの記憶は消さなかった。私は王の判断を訝しみました。だが、今となっては慧眼に感服せざるを得ません。ルチルは王との約束を、森の秘密を守り、いみじくも自身が信頼に値することを証明いたしました。加えて、天卵の母となった。それらを勘案すると、ルチルほどうってつけの人間はいないように思うのですが、いかがでしょうか」
王は黙したままシンとルチルを見つめる。
「穿った見方をすれば、九年前にルチルが白の森と縁をもったことも、何やら見えざる天意のように思えてなりません」
シンが最後のひと押しをする。
「まこと、そうかもしれぬな。相わかった。ルチルには蝕の仔細を語るとしよう。だが、ここでは支障がある。萌えの褥に参ろう。ついて来るがよい」
(第3章「森の民」了)