大河ファンタジー小説『月獅』53 第3幕:第14章「月の民」(2)
前話(第52話:第14章「月の民」1)は、こちらから、どうぞ。
これまでの話は、こちらのマガジンから、どうぞ。
第3幕「迷宮」
第14章「月の民」(2)
レルム・ハン国の王宮は六芒星の形をしている。その北の頂点に月夜見寮はある。背後にはノリエンダ山脈が聳え、月夜見寮は王宮の北を守護する重要な砦でもある。一方、星夜見寮は南の頂点にあり、レルム海を一望し、海上からの襲撃を見張る。ふたつの寮は星と月の運行から王国の命運を占うとともに、守りの要でもあった。
シキは辞書を片手に『月世史伝』の解読に励んだ。ラザール様からは「史伝を持ち出すわけにはいかないだろうから、わからない箇所は書き写しておいで」とおっしゃっていただいた。シキを悩ませたのは、単語の語尾がさまざまなことだ。おそらく語尾の変化形なのだろうと推測をつけても、どんな意味に変化するのかがわからない。辞書も薄く主要な単語しか載っていない。それにどうやら現代のレルム語とは文のつくりが異なるようなのだ。一文がどこで終わっているのかを示す記号も見当たらない。海図のない海に放りこまれたようだった。
まだわずかしか解読できてはいないが、レルム・ハン国がこの地を治める以前、ここには月を信仰する「月の民」という古い民がいたことはわかった。シキが最初に見た絵は月と交信するための「月の塔」だった。いにしえの忘れられた民である月の民の史書、それが『月世史伝』であった。
遅々として進まない解読に疲れると、シキは月の塔の図をながめた。そういえば、月夜見の塔も屋上に半球の天蓋をもつ。月の塔と形が似ているとシキは思った。
その日は、蔵書の点検があるからと昼過ぎに追い出された。図書寮に籠りっきりだったので、昼の陽がまぶしい。『月世史伝』のことで頭がいっぱいだったからか、気づくと見慣れぬ塔の横にいた。ここはどこか、と辺りを見回していると、ふいにバシャリと頭上から水が降ってきた。ひとつに束ねた黒髪がびしょぬれになった。額からぽたぽたと滴がたれる。あわててシキは書写した紙束を前垂れの下にいれ、塔から離れようとした。
ぎいっと鈍い軋みを立てて扉が開き、衛兵が現れた。
「おまえは星童か」と尋ねるので首肯すると、
「水をかけて申し訳なかった、詫びがしたいと、塔の住人が申している」
「すぐに乾きます。それより、ここはどこですか」
「なんだ、迷ったのか。ここは東の砦にある巽の塔だ。エステ村領主のイヴァン様が幽閉されている。ひと言謝りたいそうだ。いいから、ついて来い」
衛兵はくいっと顎をしゃくり、背を向ける。シキはしかたなく従った。
なかは小窓がいくつかあるだけで薄暗かった。外は汗ばむくらいの陽気だったが、石造りの塔のうちは冷やりとしていた。明るい戸外から入ったため視界が白くかすむ。ようやく目が慣れると、ラザール様よりは若い壮年の男が立っているのに気づいた。身なりから貴族とみえる。
「エステ村領主のイヴァンだ。水をかけて申し訳なかった。めったに人が通らぬものだから、確認もせず盥の水を捨ててしまった。風邪をひいてはいけない、これでよく拭いなさい。温かい飲み物をいれよう。アチャの実茶は、いかがかな」
(to be continued)
第54話に続く。