『オールド・クロック・カフェ』6杯め「はじまりの時計」(4)
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* * * Time Coffee * * *
あたたかな何かに浮かんでいる心地がした。閉じた瞼の裏のようだ。何も見えないのに真珠色の光に包まれている感覚だけがある。このぬくもりを桂子は知っていると思った。意識が目覚める前のまどろみの海にあるころの記憶。羊水はもとから子宮にあるのではなく、子を孕むと満たされるのだという。母と子で作りだす最初のもの。胎内にいた記憶など残っていないけれどおぼろげな既視感が透ける。無意識の深淵に格納されている最初の記憶があるとしたら、これなのかもしれない。あたりを包んでいた光が一点に集まり強く輝きだす。闇が光に収斂されていく。意識が回転しながら進み、光の欠片が粒となってきらめく。光に追いすがろうとした瞬間、ぱんとはじけ視界がホワイトアウトした。
まっ白な空間にふたつの渦があった。はじめは小さく段々激しく、しだいに回転の中心から色がついていくと、真紅と白の長い毛がばさっばさっと大きな律動をもって回っているのだとわかった。視線が斜め後ろに引くにつれ周縁が姿をあらわにし、舞台の中央で紅白の親子獅子が毛を振り回していた。『連獅子』のクライマックスの毛振りだ。
「中村屋!」の掛け声が大向こうから飛び、万雷の拍手が劇場をゆるがすと、黒柿萌黄の三色の定式幕が舞台下手へと引かれ客席がぱっと明るくなった。幕間を報せるアナウンスが響く。
宙に浮いた意識は朱の欄干に囲まれた桟敷席をとらえる。
ここは南座だ。二階三列目中央の左通路側席に肩までのボブカットで形も髪型もよく似た頭がふたつ並んでいる。あれは中学一年生の私とお母さん。二人で観た最後の顔見世だ。
「はい、これ」
母が紙袋を桂子に手渡す。
「もうなんでサンドイッチやの。顔見世のお弁当いうたら幕の内やのに」
母はぶつぶつ言いながら美濃吉の幕の内を膝に広げていた。
万季の意識も宙にあった。
視線を上に向けると南座特有の黒くがっしりした格天井が照明を反射している。
たった今くぐり抜けてきた光の映像。あれは何だったのか。追い縋るように光の先へ手を伸ばした。
――お母さん、待って。
ひた隠しにしていたひと言が無意識のはざまからこぼれ、熱いものがあふれそうになる。五年前に亡くなった母久乃への屈折した思慕が万季の胸をきりきりと締めあげる。
あそこに座ってる桂ちゃんとうちは、まだ仲が良かった。
公介さんと結婚してからは親子三人で顔見世観劇が年の瀬の恒例やった。この年は公介さんに急な出張が入って桂ちゃんと二人で。この日のことはよう覚えてる。桂ちゃんが幕の内やなくてサンドイッチを買ったことも。桂ちゃんが真っ赤なピーコート、うちがオフホワイトのショートコートやったことも。そして。
あの男を見つけたことも。
やっぱり、あれがあかんかったんやろか。
万季は形のないため息を吐く。
(to be continued)
第5話に続く。
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