【書評】エリック・ファーユ『プラハのショパン』
チェコやプラハときくと、訪れたこともないのに、懐かしくて、胸騒ぎがする。
まっさきに思い出すのは、ミラン・クンデラの小説『存在の耐えられない軽さ』。主人公テレザは写真家として1968年の「プラハの春」という、ソビエト連邦の戦車がチェコスロバキアの自由化運動を押しつぶす様子を撮影する。現実ではヨゼフ・クーデルカが撮影し、そのフィルムを西側に持ち出し発表したことで、後にクンデラ同様に亡命せざるをえなかった。祖国を追われた悲しみが写真集『EXILS』に結実している。
といっても本作『プラハのショパン』は、「プラハの春」についてはまったくといいほど言及しない。
そして音楽への疎さで何の違和感もなくタイトルを受けとめるが、ショパンの故国はポーランドであり、音楽家としての活動はフランスが中心だった。著者エリック・ファーユもフランス人作家。
それでも本作の舞台は、「プラハの春」が夢見た自由主義社会を実現した1989年の「ビロード革命」から6年、チェコとスロバキアに分割した後も、監視と密告の痛みがまだ残るプラハ。音楽経験がなく、どこにでもいるような普通の中年女性ヴェラに、ショパンの霊が降りてきて、死後の世界で作ったという曲を口述させているという。専門家からしても、ショパンの作風が感じられ、音楽界隈ではショパンの「新曲」として注目を集めている。そんな降霊術のペテンを暴くドキュメンタリーを制作しろと、テレビ局に勤務し科学的な視点が売りであるジャーナリストのルドヴィークが上司ノヴァークに指示される。
はなから詐欺だと思い込んでいるルドヴィークはカメラマンのロマンを連れ、ヴェラの自宅に向う。音楽の素養もないというヴェラは、カメラと二人の目の前で、降霊したショパンが見えるといい、口述された新たな曲を譜面におこす。デッサンが上手なヴェラに不意打ちで素描するように頼むと、ヴェラはモデルが眼の前にいるかのようにショパンを描く。インタビューや撮影を重ねれば重ねるほど、真実味は増していく。
別方法から攻めようと、ショパンの「新曲」によって、「ショパン夫人」と呼ばれるヴェラがどのくらい儲けるのか、一獲千金をもくろむ黒幕がいるかもしれないと調べるが空振りに終わる。こっそり楽曲を提供している何者かがいるはずだと、社会主義時代にスパイだった私立探偵チェルニーをつかってヴェラを尾行するも無駄足に終わる。ノヴァークには制作を急かされ、眼の前で起こっていることを信じ始めているロランとは意見がすれ違うようになり、ついにはヴェラ不在の深夜にルドヴィークとチェルニーは自宅に侵入するも、何も出てこない。追いつめられたルドヴィークは追加の調査をしたうえで、番組として編集作業を始める会議に臨み、「真実」を伝える。
ミステリー仕立てで物語は進んでいくが、終わった監視社会に郷愁さえ抱いている元スパイのチェルニーや、社会主義時代における密告者としての実績で自由主義に移行した現在の地位を確立した上司ノヴァークなど、歴史性や社会性を帯びた人物の描写もよくできている。すっかり物語にのめり込んでしまった。
本作は、小説でありながら、こんなのは現実にあるはずがない、詐欺だ、ペテンだというルドヴィークと同様な視点でヴェラを見てしまう自分もいれば、小説であっても、どこか納得できるような、科学的な落としどころがあるはずだと期待する自分にも気づく。
でも、科学的って何だろう。何をもって「真実」というのだろう。科学的に証明できるならば真実であり、証明できないならばペテンなのか。たしかに、すでにショパンは亡くなり、新作はありえない。しかし、降霊して口述した楽曲を、ショパンのものか、そうでないものかを信じるのも、信じないのも、聴き手次第かもしれない。もちろん「ショパンの作曲だ」と言えば嘘になる。「ショパン風の味付け」なら、あとは好みの問題。いいなあと思えば、そのCDを喜んで買う人がいるかもしれない。3000円は高いけど、2000円なら買ってもいいと、相手が付けた価値を、自分で価値判断してもいい。同じ値段で果汁100%のオレンジジュースと、一緒に並んでいる無果汁炭酸のオレンジジュースのどちらを買うか。そのときに、科学的にありえない、詐欺だなどと考える人はいない。
では、何を信じるのか。「ショパン風の味付け」であっても曲を信じるのか。降霊術はありえないと「科学」を信じるのか。降霊が本当かどうかを問わず、ヴェラという人間を信じるのか。そういえば、「プラハの春」の指導者ドプチェクは「人間の顔をした社会主義」を唱えていた。モノや仕組み以前に、人間を信じる。「真実」よりも「信実」が大切なことがある。『プラハのショパン』というロマンティックなタイトルとは大きくかけ離れた哲学的な問いが、いつまでも頭から離れない。