我々が投げるべき砲丸は何か
1940(昭和15)年に発表された『オリムピア』(「小林秀雄全作品」第13集)で小林秀雄は、砲丸投げの選手が砲丸を投げるように、我々は思想や知識を投げる。さらに詩人が投げるものは言葉であるという。詩人の言葉は観念から生まれるものではなく、ありのままに在るものだ。感受性をもって、言葉を選び、工夫し、詩という形で表現する。小林秀雄はそんな詩への憧憬を決して隠さない。
『私の人生観』においても小林秀雄は、やはり砲丸投げの選手を引き合いに出す。
オリンピック選手、ここでは砲丸投げの競技であるが、何のために競うのか。その答えが、とても真っすぐ語られている。己に克つためだ。努力とか根性とか勇気とか血と汗と涙とか「お国のため」だとか「楽しみたい」だとか「感動を与えたい」とか、昨今の薄っぺらい言葉は一切見当たらない。
そして小林秀雄の視線は、選手だけでなく、観客にも向けられる。
努力とか根性とか勇気とか血と汗と涙とかで語られるのは、ケガや挫折、敗北からの復活物語。「お国のため」というのは日本を代表して出場するのだから、その地位と誇りに恥ない振る舞いと結果を残せという軍国主義のような期待。そんなプレッシャーに押しつぶされることなく、自分らしく競技をすればいい、スポーツは本来、楽しいものだからという知ったかぶりな共感。寒くもないのに「鳥肌がたった」「感動を与えてくれてありがとう」という受け身な陶酔。これらはすべて、選手ではなく、傍観者の視点である。
それから半世紀あまり。日本においては、かろうじて戦争が起らずに済んでいるけれども、着々とその日が近づいている印象がある。そこに感受性をもって、ありのままの言葉を選び、並べ、工夫し、訴えるのは、やはり詩人なのかもしれない。
我々が投げるべき砲丸は、何なのだろうか。
(つづく)