分かりあえなさを超えて——エリザ・スア・デュサパン『ソクチョの冬』【書評】
湿った重い雪のように、分かりあえなさが積もる。
分かりあえないのは、出自が違うからなのか、価値観が異なるからなのか、言葉が異なるからなのか。
真冬の凍てつく空気でうまく呼吸ができないような息苦しさを感じる。それでも息を吸わなければ生きていけない。小刻みに吸ったり吐いたりしながら、エリザ・スア・デュサパン『ソクチョの冬』の分かりあえなさを考え続ける。
韓国の北東部、北朝鮮との国境に近い海沿いの町、束草の旅館に住み込んで働く「わたし」。街の魚市場で働く母親は韓国人だが、フランス人だという父親の顔は知らない。大学時代から付き合っている恋人ジュノは首都ソウルで就職し暮すことを望んでいるが、「わたし」は母ひとりを束草に残していけないと考えてしまう。
その旅館に冬の間、フランス人でバンド・デシネ作家の中年男ケランが滞在する。バンド・デシネはフランスのマンガともいえるが、1ページをいくつかのコマで割ってストーリーを展開していく日本のマンガとちょっと違い、コマ割りをしてあったとしても、見開きの2ページを使った絵柄で一つのまとまりや話題を見せていく。ケランはある考古学者が世界を旅するバンド・デシネを描いていて、次の訪問地として束草を選ぶ。
父親がフランス人だとしても、「わたし」とケランは一切血縁はない。恋慕のような匂いをただよわせることはあっても、物語の最後まで互いに恋に落ちることはない。「わたし」はソウルの大学でフランス語を学んだが、父親やケランの祖国に足を運んだことはない。二人はぎこちない英語で言葉をかわす。
「わたし」は老いつつある母親を抱え、恋人ジュノのように都会で成功するという夢も抱かず、冬の海を前に凍りついている。ケランはバンド・デシネこそ売れているが、自分の作品に空虚も感じている。お互いのことはよく見える。けれども自分のことはそれぞれ見えない。そして自分を分かってもらいたいけれど、思い通りに分かってもらえるわけではない。そうしてケランの帰国のときが近づく。
巻末の「訳者あとがき」によれば、作者エリザ・スア・デュサパン自身がフランス人の父親と韓国人の母親との間に生まれ、フランス語圏で生まれ育ちながらも韓国文化に属しているという気持ちを強く抱いていたという。作者いわく「ケランと主人公が体現するのは、西洋と極東のコミュニケーションの困難」とある。まさに、分かりあえなさを描いた。
ただ、「わたし」とケランそれぞれの「困難」は異なっている。
ケランにとってのコミュニケーションは、描くということ。そしてケランの困難は、女を描けないこと。それを「わたし」に指摘されてケランは沈黙する。物語の終わり近くになってようやく妻がいることに触れるほか、ケランは「わたし」を女として誘い込むこともない。バンド・デシネも含め、あらゆる表現というのは自画像だ。ケランはいう。「ひとたびインクで線が描かれると、それはもう変えられない。その描線は完璧であってほしい」。それに対し、「主人公と交わる権利を得るのに、女たちはどれほど完璧でなければならないのだろう。ケランはそれを女たちに期待しているのだろうか?」と「わたし」はかすかな反発を覚える。
「わたし」にとっての困難は、他者とのコミュニケーションではなく、アイデンティティに関するものだ。たしかに「わたし」は「母に理解できない言葉を話したくて」大学ではフランス語を学び、いつかはフランスに行ってみたいと思い、海外で勉強を続けるための奨学金に応募しようとも考えている。それは作者エリザ・スア・デュサパンとは逆に、韓国で生まれ育ちながらも、フランス文化に属している自分を見出したかったのではないだろうか。
バンド・デシネは、フランス文化の換喩だ。そこに登場するフランスの女性と差異なく「わたし」が描かれること。そうやって「フランス」に刻み込まれている自分を感じたい。それが「わたし」とケランそれぞれの分かりあえなさを超えていく。
「わたし」はケランと、フランス語で話したなら、物語は違ったものになったのではないか。人は、別の言葉を使うと、別の筋肉を使い、別の思考を用いて、別の人になる。先人から脈々と受け継いできた言葉こそ血や肉なのだ。言葉は道具ではない。言葉が自分をあらわし、言葉が自分をつくる。自分を信じていないから、言葉を信じられないのだ。人は言葉を生きているのだ。次に「わたし」とケランが会うときは、フランス語で話してほしい。できれば、フランスで。切に、そう願う。