西行が明恵に語る歌論
太平洋戦争が深まる1942(昭和17)年に、小林秀雄は『当麻』や『平家物語』など日本の古典文学や芸能について批評を書いた。そのなかの一つが、50首以上もの歌を引用して論じた『西行』だった。
それから7年後、講演録に加筆した『私の人生観』を発表する。ここでは、西行の歌は一首たりとも引用していない。しかし、すでに『私の人生観』で触れていた高山寺の明恵上人に対し、晩年の西行が語ったとされる歌論を紹介する。
西行は1118年生、明恵は1173年生。55歳の差がある。明恵の弟子である喜海が、明恵から聞き書きしたのが『栂尾明恵上人伝記』であり、そこで西行が明恵に語ったとされる。しかし喜海が記したもう一方の『明恵上人行状記』には、西行と明恵が出会ったことは記されていないので、事実かどうかは疑わしい。それでも別の見方をすれば、明恵が解釈した西行の歌論だともいえる。
西行はいう。花や郭公、月、雪など、興を覚えるものすべてが虚妄だ。だから花を詠んでも実の花とは思わないし、月を詠んでも月とは思わない。すべては仮象である。しかし、詠んだ歌はすべて真実となる。虚妄を詠みながらも、詠んだものは真実であるとは、小林秀雄顔負けの逆説だ。
虚空の如くなる心の上において、種々の風情を彩っていく。これはどういうことだろう。そこで小林秀雄は、仏教の「空」の思想について説明を加えていく。
(つづく)
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