ポール・ボウルズ『シェルタリング・スカイ』
ポール・ボウルズ『シェルタリング・スカイ』を読む。
調べると、2010年以来の再読。偏愛作品といいながらも、感じる主題の重さに身構えてしまう。数ページをめくっただけでも、締めつける胸苦しさに、幾度となく本を閉じてしまったことか。些細なことも、これから起こる予兆ととらえ、気分を沈み込ませてしまうのは、主人公キットの思考なのだが。
結婚して10年を過ぎて、なかなか倦怠期から抜け出せないポートとキットの夫婦。二人に快活さを与えてくれる若い友人タナーと3人で、米国ニューヨークから北アフリカのモロッコを訪れ、サハラ砂漠へと旅をする。
冒頭で、本作でよく知られている「観光客」と「旅行者」の定義がポートの口から語られる。
好奇心は強いが旅行では青二才のタナーは所詮観光客でしかなく、結婚前から旅が好きで、結婚後もカリブ海地域や南米で暮らしていたポートとキットは旅行者であって、このサハラ行でも、気に入った場所があったら1〜2年は滞在するつもりだという。たしかに夫婦にとっては永い旅となる。
男2人女1人で旅をすれば、何らかの色恋沙汰は起こる。ましてやポートとキットは倦怠を抱えて旅に出たという動機もある。ポートはタンジールに上陸して直ぐに私娼とトラブルになるし、キットとタナーも酔っていたとはいえ早い段階で関係を持つ。ポートは後に砂漠の小さな町でも盲目の踊り子に執着する。
タナーに対する疑念と嫉妬を抱くポート。ポートに対する罪悪感に苛まれるキット。それぞれの思惑は異なるが、やはり夫婦二人きりになりたという思いから、旅先で出会った怪しげな親子を利用してタナーと別行動をとる。
しかし、観念的で孤独に耽溺するポートと、悲観的だが心でポートと通じ合いたいキットの間にある溝は、サハラ砂漠の奥へ奥へと進むにつれて、さらに深まっていく。
単なる風邪だと軽く考えていたポートの体調がますます悪くなり、二人ではこれ以上進めないというところへ、タナーも合流するものの、そこから3人の運命が分かれていく。
読んでいる間ずうっと、ぎらつく太陽のもと、口の中は流砂でざらつき、砂嵐の音が鳴り響きながら、黄色い砂に足は取られていた。意気揚々と異文化に踏み込んでいくものの、行く先は破滅だろいうと感じながらも、ポートやキットに声を掛けてあげられないのが読者の「無力」なところ。わが国には「滅びの美学」というのもあるが、本作は余韻の残る切なさともまた異なる。
今回の再読に先駆けて、巨匠ベルナルド・ベルトルッチによる映画版も再び観てみた。映画も偏愛作品ながら、ポートが病魔に倒れてからが重くて、なかなかDVDを手に取れないでいた。
文庫版でも400ページ超の原作を、2時間あまりの映画に収めるのだから、やはりストーリーは簡略化している。映像だけでは描写しきれていない感情の襞もある。DVDのメイキングを観ると、原作どおりに撮影しているものの、本編ではカットした場面も多い。それでも砂漠好きにはたまらない映像美だし、坂本龍一の音楽も地味に染み渡る。
原作と映画、どちらか一方だけを選ぶなら、2対8ぐらいの割合で映画に軍配が上がるだろう。ただ、今回は映画評よりも書評にしたのは、やはり原作は原作で味わい深い。
原作でも映画でも同じ場面。モロッコからサハラ砂漠へ向かった最初の町で、ポートとキットが二人、地平線が見えるような砂漠のまっすぐな一本道を自転車で走る。(予告編の1:05あたり)
そう。見た目には平らでも、実は緩やかに上っていることもあれば、下っていることもある。それが二人の関係。二人の未来。映画では、あまり分からない。小説ならではの味わいだ。
その後、二人は自転車を置き、崖になったところから、見下ろすように果てしなく広大な砂漠をみつめる。そこで、「天蓋の空」となにか、ことばになる。それは原作を読んだり、映画を観たりして感じたい。