詩人が投擲するものは
何の予備知識も先入観もなく、小林秀雄の『オリムピア』のこの部分を読んだとき、これは何なのだと驚いた。しばらく黙り込んだあとで、気がついた。これは詩なのだと。
引用したのは、もともと一つの段落に収まる文章であり、散文である。それを句読点で改行し、適宜空行も入れてみた。すると、4連からなる現代詩だと言っても通じる。小林秀雄の文章にしては、読点がちょっと多いような印象なので、さらに読点を削ってしまえば、もっと詩の様式に近づくだろう。
オリンピック選手にとっての砲丸のように、我々は思想や知識などを投げるのだ。己の肉体と同化させるように、首の付け根に押し付け、一体化したと感じたときこそ、解き放つタイミングである。円弧を描き、できるだけ遠くに。
その後の一文で、辻褄が合った。
詩人にとって、言葉は観念から生まれるものではなく、ありのままに在るものだ。感受性をもって、言葉を選び、工夫し、詩という形で表している。「肺腑の言」という言葉をたとえにして、言葉の故郷は肉体であり、感受性、感覚、感性こそ、言葉の第一歩であり、肉体から飛び出た言葉は、遠くに響いていく、広がっていく。まるで、オリンピック選手の、鉄の丸のように。
小林秀雄は、詩を渇望している。もともとは志賀直哉に憧れ、小説を書いていたが、自分には批評のほうが向いていると少しずつ感じるようになり、文芸時評で批評家として名を馳せた。しかし、詩人であり、批評も書いたシャルル・ボードレールを批評家としての原点に持つ以上、詩への憧憬は薄れるはずもなく、むしろ濃くなるばかりだ。
小林秀雄は、「詩」人になりたいのだ。
(つづく)
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