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詩人が投擲するものは

砲丸投げの選手が、
左手を挙げ、
右手に握ったつめたい黒い鉄のたまを、
しきりに首根っこに擦りつけている。

鉄の丸を枕に寝附ねつこうとする人間が、
鉄の丸ではどうにも具合が悪く、
全精神を傾けて、
枕の位置を修整している、

鉄の丸の硬い冷い表面と、
首の筋肉の柔らかい暖い肌とが、
ぴったりと合って、
不安定な頭が、
一瞬の安定を得た時を狙って、
彼はぐっすり眠るであろう、
いや、
咄嗟とっさにこの選手は丸を投げねばならぬ。

どちらでもよい、
かく彼は苦しい状態からいまに解放されるのだ。
解放される一瞬を狙ってもがいている。

『オリムピア』「小林秀雄全作品」第13集p97

何の予備知識も先入観もなく、小林秀雄の『オリムピア』のこの部分を読んだとき、これは何なのだと驚いた。しばらく黙り込んだあとで、気がついた。これは詩なのだと。

引用したのは、もともと一つの段落に収まる文章であり、散文である。それを句読点で改行し、適宜空行も入れてみた。すると、4連からなる現代詩だと言っても通じる。小林秀雄の文章にしては、読点がちょっと多いような印象なので、さらに読点を削ってしまえば、もっと詩の様式に近づくだろう。

しかし、考えてみると、僕等が投げるものは鉄の丸だとか槍だとかに限らない。思想でも知識でも、鉄の丸の様に投げねばならぬ。そして、それには首根っこに擦りつけて呼吸を計る必要があるだろう。単なる比喩ではない。かくかくと定義され、かくかくと概念化され、厳密に理論付けられた思想や知識は、僕等の悟性にとっては、実に便利な満足すべきものだろうが、僕等の肉体にとってはまさに鉄の丸だ。鉄の丸の様に硬く冷く重く、肉体は、これをどう扱おうかともだえるだろう、し本物の選手の肉体ならば。

『オリムピア』「小林秀雄全作品」第13集p97

オリンピック選手にとっての砲丸のように、我々は思想や知識などを投げるのだ。己の肉体と同化させるように、首の付け根に押し付け、一体化したと感じたときこそ、解き放つタイミングである。円弧を描き、できるだけ遠くに。

その後の一文で、辻褄が合った。

詩人にとっては、たった一つの言葉さえ、投げねばならぬ鉄のたまであろう。

『オリムピア』「小林秀雄全作品」第13集p97

詩人にとって、言葉は観念から生まれるものではなく、ありのままに在るものだ。感受性をもって、言葉を選び、工夫し、詩という形で表している。「肺腑の言」という言葉をたとえにして、言葉の故郷は肉体であり、感受性、感覚、感性こそ、言葉の第一歩であり、肉体から飛び出た言葉は、遠くに響いていく、広がっていく。まるで、オリンピック選手の、鉄の丸のように。

小林秀雄は、詩を渇望している。もともとは志賀直哉に憧れ、小説を書いていたが、自分には批評のほうが向いていると少しずつ感じるようになり、文芸時評で批評家として名を馳せた。しかし、詩人であり、批評も書いたシャルル・ボードレールを批評家としての原点に持つ以上、詩への憧憬は薄れるはずもなく、むしろ濃くなるばかりだ。

詩人は、自分の悲しみを、言葉で誇張して見せるのでもなければ、飾り立てて見せるものでもない。一輪の花に美しい姿がある様に、放って置けば消えてしまう、取るに足らぬ小さな自分の悲しみにも、これを粗末に扱わず、はっきり見定めれば、美しい姿のあることを知っている人です。

『美を求める心』「小林秀雄全作品」第21集p251

小林秀雄は、「詩」人になりたいのだ。

(つづく)

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既視の海
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