見出し画像

アゴタ・クリストフ『文盲 アゴタ・クリストフ自伝』

『悪童日記』三部作を読み、著者アゴタ・クリストフが、母語ではないフランス語で書くことの意味に触れたくて、『文盲 アゴタ・クリストフ自伝』を手に取る。

新書判の白水Uブックスでも、本文は90ページにも満たない。巻末の解説によれば、『第三の嘘』を上梓した後にチューリッヒの雑誌に連載していたエッセイが土台になっているという。「自伝」とはなっているが、時系列で自らの来し方を綴っているわけではない。幼い頃から、ひたすら読み、ひたすら書く人間だったこと。ハンガリー動乱のあと、生後4か月の娘を連れて21歳で祖国から脱出した足どり。そして、どのような経緯で『悪童日記』が日の目を見たか。それらを、小説と同じように感情を抑えた静かな筆致で書く。

『悪童日記』を読んだときに、母語の外に出て小説を書くという営みについて、民主化運動のあとでチェコスロバキアを追われたミラン・クンデラを思い浮かべた。チェコ語で書いた『存在の耐えられない軽さ』をフランス語に翻訳して発表し、さらに手を加えて真正テクストとしたのもフランス語だった。また、アメリカのピュリツァー賞作家にも関わらずイタリアに移住し『思い出すこと』『あなたのいるところ』をイタリア語で書いたジュンパ・ラヒリ、また日本語で『彼岸花が咲く島』を書いて芥川賞を受けた台湾出身の李琴峰なども想起した。

だが、ミラン・クンデラはすでに、チェコ語で執筆する著名な作家だったので、祖国を追われてからフランス語で書くようになったのは、みずからの意志だ。ジュンパ・ラヒリと李琴峰も、みずから外国語を学び、それで小説を書くことを選んだ。それに対し、アゴタ・クリストフは難民としてハンガリーからスイスに流れ着き、そこで初めてフランス語に触れる。当初は身の回りの単語すら理解できない。暮らしていくうちに日常会話は可能となるが、読むことも、書くこともできない。それが自伝のタイトルが『文盲』である所以だ。26歳ではじめて外国人向けのフランス語講座で読み書きを学んだのである。

だからアゴタ・クリストフにとってフランス語は「敵語」である。みずから選んだわけではなく、運命によって課せられた言語。そして、ハンガリー語という母語をじわじわと殺しつつあるという。ジュンパ・ラヒリや李琴峰の場合と、まったく異なる。そこに言いようのない衝撃を受けた。

『悪童日記』の、素朴だが表現に乏しいともいえる文体。あれは、母語ではないフランス語で書いたがために、かえって深みを増すのだと、半ばおめでたく考えていた。しかし、アゴタ・クリストフは、フランス語を母語とする作家のようには書けるはずがないと自覚し、それでも自分にできる最高を目指そうと挑戦していることに、胸いっぱいの賛意をおくりたい。

そのうえで、この『自伝』で印象的だったのは「執拗しつように」という言葉だ。小説を書く前には、「長年にわたる執拗な努力を経て」フランス語で二篇の戯曲を書き上げた。『悪童日記』の断章をノートに書きためたあと、すべてタイプライターで打ち、修正し、またタイプで打ち直し、余分な部分を削ぎ、「これでもか、これでもかと修正を加え」、ようやく人に見せられるテクストに仕上がったという。

人はどのようにして作家になるかという問いに、わたしはこう答える。自分の書いているものへの信念をけっして失うことなく、辛抱強く、執拗に書き続けることによってである、と。

p83

外国語を学ぶのに含蓄のある文章もある。

 子供だちからある単語の意味を、あるいはその綴りを問われるとき、わたしはけっして言うまい。
「知らない」と。
 わたしは言うだろう。
「調べてみるわ」
 そしてわたしは、むことなしに何度でも辞書を引く。わからないことを調べる。わたしは熱烈な辞書愛好家となる。

p90

「ひとりの文盲者の挑戦」として、アゴタ・クリストフは辞書を引く。読んでは書く。書いては読む。

存命ならば、会いたかった。ひざまずき、教えを請いたかった。デビューが遅かったので、残された作品も多くない。亀の歩みにも劣るほどゆっくりとフランス語を独学しているが、彼女の作品はもちろん、翻訳されていない評伝や研究なども、読めるようになろうとひそかに決意する。

まずはご遠慮なくコメントをお寄せください。「手紙」も、手書きでなくても大丈夫。あなたの声を聞かせてください。