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【9通目】死を前にして人が求めるものは——宮野真生子・磯野真穂『急に具合が悪くなる』【書評】

拝啓

いつもは季節感のある書き出しをしようと心がけているのですが、今回は興奮か混乱か、まだ思考も虚空をただよったままペンをとりました。むしろ整理するのを拒みたくなるような読後感です。

いつかは往復書簡集か、またはその形式の小説を紹介しようと思っていました。しかし、本書は偶然に出合い、準備なしに読んだところ、思い切り揺さぶられました。宮野真生子・磯野真穂『急に具合が悪くなる』です。

宮野は哲学、磯野は文化人類学をそれぞれ専門とする研究者。もともと二人は面識がなく、学問のイベントで知り合ったところ、宮野は「単なる勘」で磯野にある秘密を打ち明けることに。それは宮野が重いガンを患っているということです。さらに後日、磯野は医療人類学も研究していることから、自分のような病を抱えて生きることの不確定性やリスクについて、一緒に考えていけないものかと、往復書簡を交わすことを提案し、二人の思索は始まったのでした。

書簡はおよそ二ヶ月間で十往復。かなりの頻度です。当初、宮野は身体に重い「ガンを飼っている」にもかかわらず、ふつうに大学の教務や研究者の仕事をこなしています。しかし書簡では、医師からホスピスを探すよう告げられたことも赤裸々に綴ります。一人称としての自分と二人称である家族や身内の認識のずれもあれば、三人称として自分をガン患者の一人ととらえ、さらに不特定多数を示す三人称複数としてガン患者を取り巻く人々のずれもある。そのうえで「選択する」とはどういうことなのか、迷い、悩みます。身体も心も決して穏やかではいられません。

宮野が、「私は不幸なのか」「不運ではあるが不幸ではない」と自問自答し、磯野が「不運は点であり、不幸は線である」と考察するところは、たしかにそのとおりだが、そんなにたやすく普遍化できるものかと、ページを繰る手をとめて二人と一緒に考え込んでしまいました。

往復書簡も後半に入ると、書名どおり、宮野の体調が急に悪化します。覚悟はしていたとはいえ、否が応でも死が意識のなかに入り込んできます。磯野も戸惑います。ただ、ここから宮野は本来、みずから望んでいたように、哲学者として自分自身を考え抜くことを始めます。磯野も文化人類学の「ライン」という概念を用いてお互いを解釈し、自らを律していきます。宮野は病に苦しみながらも、研究対象だった九鬼周造の哲学にとどまらず、宮野真生子の哲学として「偶然性」の意味を考え抜くところに、こちらの胸も締めつけられました。

同じ哲学者で、やはりガンを患った池田晶子は『暮らしの哲学』において、人は自分が確実に死ぬとわかったとき、必ず「言葉」を求めるはずだと言っています。生死すなわち人生の真実を語る言葉、正しい考えを語る正しい言葉を求めるはずだというのです。『暮らしの哲学』は、もとは週刊誌連載だったので、ガンを患い、迫り来る死についての言葉、そして死ぬ自分についての言葉が、ページが進むごとに増えていきます。

宮野も、偶然の病がもたらした死の恐怖やガンによる痛みを打ち払うように考え、「言葉」にしていきます。痛みと死において自分を取り返し、その自分に立ち止まるために語りを紡ぎ出す。哲学とは「ある」ものではない。哲学「する」ものだ。考えるとは、言葉を紡ぐことだ。哲学者を研究する「哲学者」ではなく、考える者、すなわち本当の「哲学者」の絞り出すような言葉に、こちらは逆に言葉を失い、ただ沈黙するばかりです。

一読しただけで、わかったつもりになりたくありません。とくに哲学の本は。本書はこれから、何度も読み返すことでしょう。再読に値する書物こそ、よい書物です。再読に値しない本は、はじめから読む必要などないと、先人は語っています。

まだ熱さの残る頭を、冬の空気で冷やしてきますね。

あなたからの返事を楽しみにしています。

既視の海

今回もかなり推敲しました
なぜ、表紙も本稿のヘッダーも野球なのか。それは宮野が無類の野球ファンだったからです。

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既視の海
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