非一般的読解試論 番外編「カカシとカラス」
こんにちは。デレラです。
非一般的読解試論という連載記事を書いてます。連載は第二回まで公開中。現在、第三回と第四回のネタを仕込み中です。
今回はヘッダーのイラストを紹介します。そのため「番外編」としました。
1.カカシ
非一般的読解試論は、読書感想文についての連載です。でも普通の読書感想文とは少し違います。何かを読んで、その感想を書き続けるわけではありません。
簡潔に言うと、感想を持つことは何を意味するのか、そもそも「読書感想文=読んで感じたことを書く」とはどのような営みなのか、について考える連載です。
「私の読書感想文」という私個人の非一般的な営みを、好き勝手に私自身が読解する。さみしい奴です。まさに一人で突っ立ってる「カカシ」のようですね。
私が思うことを思うように書くこと、それは私が「カカシ」であるということです。
2.カラス
それでも、私はこの個人的な連載を不特定多数の人に読んでもらえる機会がある「note」で書こうと思いました。そこには、私のしょうもない承認欲求が横たわっていることも事実です。しかし、それだけではありません。
誰かが読むことを前提に文章を書く。これが「自由な読み書き」の大前提だからです。
自由に文章を読み解き、自由に書くためには、自分ではない「絶対的な他者の存在」が必要です。
他者がいたら自由に書けないし、自由に読めないじゃないか、と反論したくなる人がいるかもしれません。
そこで、私がどういう意味で、「自由な読み書きには他者が必要だ」と言っているのか、少し説明させてください。
「絶対的な他者」とは、私とは異なった環境で生まれ育ち、生活し、様々なことを体験しているような存在です。言い換えると、私が生きている文脈とは異なる文脈で生きている存在です。
この「異なる文脈で生きる他者」は、私の文章を見た時、私の言いたい意味とは「別の意味」を読み取るかもしれません。なぜなら他者は、私の書いた言葉を「私の知らない感覚で解釈する」からです。
だって、他者は、私とは違う別の存在なのですから。私とは違う経験を積んで、違う感覚を習得している、だから違う解釈になるでしょう。
つまり、私が何か文章を書いて、それを読んだ他者は「こいつ、何書いてんだ、間違ってる、面白い、面白くない、ダサい、かっこいい」など多様に解釈する可能性がある。この解釈の多様性にこそ自由があります。
私一人では、私の解釈だけになってしまう。他者がいないと解釈は多様性を失ってしまう。カカシがとるポーズを見て、それを「滑稽だ」と笑う他者が必要なのです。
滑稽だと笑われるとき、私の言葉は自由になり、空に解き放たれる。
今回この連載をするにあたり、連載用のヘッダー画像を絵描きの友人にお願いしました。この記事の上に表示されている「カカシとカラス」の絵がそれです。
友人にはカカシの絵を描いてほしいと依頼しました。私は、私自身をあざ笑うために、常にカカシを掲げてこの連載を書こうと思ったからです。
でも、友人は、意識してか、無意識にか、カカシの絵に「カラス」を描いてくれました。
このとき、友人が意識していたかどうかは関係ありません。友人は「カラス」を描いた。偶然かもしれないけれど、この事実が、私に読解の機会を与えてくれます。
「カラス」が「カカシである私」を笑ってくれる可能性。
3.カカシとカラス
青空を自由に飛びたいカカシ。
自由に飛び回れるカラス。
カカシにとっての絶対的な他者。
カカシはカラスに憧れてポーズをとります。
カラスはそれを見て笑っています。
カカシは青空の下で、両手を大きく広げます。
カカシは言います。
「見てよカラスさん、ほら、僕も君のように空を飛んでいるみたいでしょう?」
カラスが答えます。
「奇妙なことを言うカカシだね、でも君がそう思うなら、そうなのだろう」
カカシにとっての絶対的な他者。
カラスがカカシを笑っています。
私は、仮想の読者に憧れて、この文章を書いています。そしてこの絵は、そのことを端的に表現してくれています。
第三回以降も頑張って書こう。
今回はここまで。
第三回は、図式論です。私が本を読んだり、映画を見たりする時に、何かを感じる。その枠組み=図式について考えてみるつもりです。
もっと自由に書くために。
おわり