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デレラの読書録:木田元『反哲学史』
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木田元,2000年,講談社学術文庫
哲学という営みを、西洋で起きた思考様式であるとすれば、哲学史とは西洋の思考様式の歴史である。
では、哲学史が西洋の思考様式の歴史ならば、ここで言われる「反哲学史」とは何か。
それは西洋の思考様式が前提としていることを指摘して、その無意識の前提を乗り越える反哲学の視座と言えるだろう。
相手の無意識を指摘する、というのは、まさにソクラテスが得意とした「アイロニー」である。
西洋の哲学は、自己批判のための「アイロニー」をすでに用意していた。
プラトン、アウグスティヌス、デカルト、カント、ヘーゲルと続く西洋的な形而上学的(超越論的)思考への自己批判である。
その担い手は、シェリング、マルクス、ニーチェである。
彼らは何を指摘したのか。
それはプラトン的な形而上学(哲学史)が有機的な自然観を抑圧していた、ということである。
さらに言えば、本質存在と事実存在に峻別し、本質存在こそ真の存在であり、事実存在は単なる素材にしてしまった、ということ。
シェリングの積極哲学、マルクスの自然主義(人間主義=自然主義)、ニーチェのニヒリズムは、それを鋭く指摘する。
彼らの批判はこう要約できる。
つまりプラトンはイデア界と現象界の区別を作った、そしてイデア界こそ真の世界と言うわけだが、そもそもイデアと現象の二分法自体が「詐欺」である、と。
確かに形而上学は、わたしたちの後見人である。
それがなければ、わたしたち人間は「存在論的不安」に駆られるだろう(神を失えば人は不安になるのだ)。
しかし、形而上学的存在は死んだのだ。
深淵を覗き込んだとき、そこにいるのは神ではない。
神を失い不安に駆られる人間(覗き返す自分)である。
西洋哲学の要旨をスッキリと説明してしまう木田元の『反哲学史』は、現代のわたしたちにも突き刺さるだろう。
アルゴリズム、ビッグデータ、AI、新たな形而上学を人間は生み出しているように感じる。
デジタル化されたデータの深淵を覗き込むのは、間違いなく存在論的不安に駆られた現代人だろう。
新たな神を作るのではなく、わたしたちに必要なのは新たなニヒリズム、新たな自然主義、新たな積極哲学であり、デジタル化との相互作用のなかで、人間を変えていくことなのかも知れない。
反哲学史は、哲学という思考様式が「不安への抵抗」のためのものであったということを明らかにする。
そして哲学とは別の仕方で、不安への抵抗を行う思考、それが反哲学であると言えるかもしれない。