「自分の頭で考えよう」〔クリシェ【凡百の陳腐句】10-1〕
「自分の頭で考える」。
このテーゼがそのままタイトルとなっている本が数多く世に出回っている昨今、「自分の頭で考えること」の大切さはことさらに叫ばれてる。悪くない趨勢だろう。
ただ、これに関してフォーカスすべき点が一つ。
「自分の頭で考えよう」。この言い方がテーゼとして成り立っていること自体について、である。
例えば、「自分の口鼻で呼吸しよう」「自分の足で歩行しよう」といった言葉を耳にすることはない。当たり前のことだし、阻害要因がないからだ。
「自分の頭で考える」ことは本来、呼吸や二足歩行と同じくらい"人として当たり前の営み"のはずである。
それにもかかわらず、「自分の頭で考えよう」。これのみが"テーゼ"として声高に叫ばれてる状況がある。
それは、「自分の頭で考える」にあたっては、阻害要因たる"アンチテーゼ"が一方で存在するから、に他ならない。
すなわち、「人の話を聞く」である。
思うに、「自分の頭で考える」ことと「人の話を聞く」ことは、本来"矛盾"する。
人の好み・価値観・考え方は皆それぞれ違うゆえ、ある人と別の人のそれらは基本的に食い違って当たり前だからだ。
ある人が「自分の頭で考えて」出した結論を貫くということは、そのぶん別の人の「異なる考え」を"聞かずに退ける"ということだ。
つまり、「自分の頭で考える」とは、人の話を"聞かない"ことである。あたかも、イエスマンしか周りに置かないワンマン経営者のごとく。
それは、逆もしかり。
「人の話を聞いてばかりの人」は、そのぶん例えば「それは違うんじゃない?」という自分の考えを殺している。
まさに「人の話を聞いてばかりいた」結果、自分の頭で考えることを"辞めている"のだ。あたかも、教祖に従順な信者のごとく。
後者のケースが非常に多く、またそれによる弊害が看過し難いものだからこそ、「自分の頭で考えよう」というテーゼに意義があるのだろう。
しかし一方で、ただ単に自分の頭で考えればよく、人の話をすべて退ければいいかといえば、そういうわけにもいかない。
厄介なことに「人の話を聞く」ことも、それはそれで正しいことが多いからだ。
幼子は親の言うことを聞くべきだし、職場の新人は先輩や上司の言うことを聞かなければ仕事にならない。素人がプロの意見を無視した方いいケースなど、まれであろう。
「人の話を聞く」こともまた、「自分の頭で考える」のと同じくらい重要である。
このように、「自分の頭で考えること」は推奨されてしかるべきだ。しかし、一方で「人の話を聞くこと」もまた正しい。
どちらも重要でありながら、相反する二つのテーゼ。それらの折り合いをどうつけたらよいだろか。
例えば、そういったテーマについて「自分の頭で考える」のである。
…といえば答はあらかた出ているのであるが。
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(参考文献)
・『自分のアタマで考えよう 知識にだまされない思考の技術』(ちきりん ダイヤモンド社)
・『自分の頭で考える』(外山滋比古 中公出版)
・『「道徳」を疑え!自分の頭で考えるための哲学講義』(小川仁志 NHK出版新書)
・『考え方のつくり方 自分のアタマで考えるメソッド』(渡辺パコ 大和書房)
・『自分の頭で考えるということ』(茂木健一郎 羽生善治 大和書房)