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「平和」-かく呼ばれし"人造幸運"〔フォーカス【現象の考察】8-2〕
1945年8月6日8時15分、"かの広島"にて。
爆心地より500m以内にいながらも、生存した人が78人いる。
そのうちの一人は、たまたま地下倉庫にいたおかげで熱線や爆風による直撃を免れたそうだ。
彼ら彼女らの「なにが」生死を分けたのだろうか。
「目標達成のために人一倍の努力していた」からだろうか?
「誰かのために誠心誠意真心込めて働いていた」からだろうか。
「類まれなる才覚よって、多額のお金を稼いでいた」からであろうか。
「才能・努力」や「日頃の行い」が、死の淵より彼ら彼女らを救ったのだろうか。
否、
「幸運だった」から。
(それも「"大不運中"の大幸運」)。
これだけのことである。
戦争は「ジェノサイダル・ロシアンルーレット」。
「そのときどこにいたか」
により生死を分つ、超高確率の「死亡ガチャ」を、大量規模の人間に、強制かつアトランダムに押し付ける。
善人か悪人か、優秀か無能か、努力家か怠け者かといった、"それ以外の個性"はすべて踏み躙って。
それはもはや、それ自体が大量虐殺を"良し"とする"人間によってもたらされた"「大不運」だ。
それは逆もしかり。
「戦争」が、"人間によってもたらされる"「不運」なら、「平和」もまた、"人間によって創られる"「幸運」。
現在、私たちがそのような「デスゲーム」にまったく怯えることなく暮らせるのは、「幸運」である。
「人の命」よりも「俺が儲けたい」「俺は正しい」に重きを置き、大勢の人間に不運をもたらす為政者が(今のところ)"実行"していないという「幸運」。
大多数の人間が「平和」を望み、それが「一大勢力」となって現れて、「戦争をしたい者」にある程度対抗しえている「幸運」だ。
しかし、それは決して必然的なものではない。
「すべての人が、幸せに生きるための前提である、『人間の環境』それ自体」、それが「平和」。
それは「人の手で創ることのできる幸運」。
「為政者たる私たちの手」によって。
(以前投稿した記事の続編)