茶道衰退の原因は「敷居が高い」にある
またぞろ「敷居が高い」と使う人たちがいます。本当にこの誤用辞めませんか?
特に茶人や茶道家の方々。
敷居が高いの誤用の拡大
第一には誤用の拡大を推進してしまうからです。
敷居が高いは「義理を欠くなどして、相手の家などに行きにくいという心理的状態を表す言葉」です。ハードルが高いというのは「気が引ける」とか「分不相応に感じる」ということです。
日本語は正しく使いませんか?
こういうと、「広辞苑などの辞書には掲載された!」とか「言葉は変化するものだ!」と反論する人が居ますが、辞書に載っているから正しいというのは誤りで、辞書や百科事典でも間違えることはあり、それは版を重ねると修正されていきます。世の中で比較的辞書が最も誤謬が少ないから判断の基準になるのであって、それさえも絶対ではないことに注意が必要です。
また、言葉は変化するものですが、それは「転訛」という言葉の拡大解釈や転用、音便変化を言うのであって「誤用」は「誤用」に過ぎません。
概ね、言う人は、自分は文化を大事にしていると自覚しているつもりなのですから、先ずは自らの母国語を正しましょう!と言いたいのですよ。
言葉と服飾は文化の基本なので。
敷居が高いは実は差別意識である
茶道が高尚なものであるというのは幻想――というか嘘です。
確かに上手い正客振りや上手な亭主になるには多くの教養を必要としますが、無ければできないものではないからです。
茶道をなさらない人たちは、「敷居が高い」と言う人たちが誤用する意味での「敷居が高い=分不相応」などとは露程も思っておらず、「縁遠い」とか「何が面白いかわからない」と思っています。
「敷居が高い」と使う人たちが「敷居が高い」と言えば言うほど、参入障壁を高くしている(=小難しくて面白くなさそうと思わせている)のです。
つまり、伝統文化の衰退の原因は「敷居が高いを誤用する人自身の発言と意識」であって、「敷居が高い」と言えば言うほどそのジャンルを衰退させています。
茶道の発展のために必要なのはカジュアル化でも、簡略化でも、改革でも、ハードルを低くすることでもなく、「面白さのアピール」であり、「大寄せ茶会に入るためのお茶券の購入のしやすさ」や、「お茶会をやっていることの露出の増大」なのです。ただし、低料金化はいただけません。それでは催す側の負担となってこれまたやる人が減ってしまいます。
それと客振りを稽古できる場がもっと必要とされています。
ただ、今までの茶道がこういう意識高い系の人に支えられてきたのことは厳然たる事実です。
だから、
当代に はびこる茶の湯 三者あり
似非侘び 嘘寂び 紛い数寄者
なんて状態なのでしょう(即興で詠みました/笑)。
利休が十年を俟たず侘数寄は廃れると言いましたが、それは事実で、上辺だけを真似た「似非侘び」が流行しています。
さらに悪いことに、2020年代では、下の句が「映え侘び 映え寂び 映え数寄者」としたほうがいいような状態に悪化してまして、心のありようよりも、物語よりも見た目重視の世の中になってしまっています。
これでは、益々、茶の湯は衰退するばかりではないでしょうか。
今こそ客稽古茶会・客稽古茶事を
私はこの必要性を感じて九年前から「お茶会へ行こう」をはじめました。
回を重ねるごとに茶名をお持ちの方ばかり集まるようになってしまいましたが、勿論初心者・未経験者も大歓迎なのです。ただ、一般家庭でやっている限界もあり(立派な茶室がある訳ではないので)、なかなか苦戦しているといえます。
それに加え、余り知られていない流派なので、興味を持って来てくださる方が他流である程度稽古を積まれた方という状態になってしまうのでしょうか(苦笑)
稽古茶事・稽古茶会の必要性にご賛同いただけます方が居られましたら、是非、茶会体験教室「お茶会へ行こう」・茶事体験教室「お茶事へ行こう」を開いていただきたいと思います。
月桑庵でも、欠かさず「お茶会へ行こう」「お茶事へ行こう」を開いて参りたいと存じます。