タイピングしている時間はあまりなかった。あと5分ほどで中浦さんがドアを開けて部屋に入ってくる。中浦さんはもの静かな女性で、周囲を良く観察するタイプの人だった。始業前に私が自席でタイピングしていることを、彼女は知っていたのだと思う。
毎朝8時25分に出勤してくる中浦さんは、ドアを開けて部屋に入ってくると、いつも小さな声で「おはようございます」と言って自席に向かう。それを合図にして、私は「おはようございます」と言いながら、タイピングを止めて閉じたポメラをデスクの抽斗にしまう。鞄を置いてから私の席にやってくる中浦さんに資料の並びをチェックしてもらい、仕事の準備を二人ですすめるのが毎朝の流れだった。
私は画面から視線を動かして腕時計をみた。8時30分を過ぎていたが、中浦さんはやってこなかった。今朝はドアが開かない。
ドアが開いた。入ってきたのは中浦さんではなく、4月異動で配属になった高尾さんだった。彼女が「おはようございます」と小さく言うので、私も小さめの声で「おはようございます」と言った。タイピングを止めて閉じたポメラをデスクの抽斗にしまった。