自分の足で立つこと 〜河合隼雄著『無意識の構造』 再読(前編)
今年に入りnoteの投稿ができていなかったことを反省しつつ、四月から夏にかけて就活関係で忙しくなるため再び投稿頻度が激下がりすることを見越し、それを補うべく三月中に投稿しまくれば仲間たちも許してくれるだろうという浅はかな考えの持ち主・雑誌『ダフネ』広報担当の二ツ池(ふたついけ)です。日本を代表する心理学者・河合隼雄の著作『無意識の構造』を再読し、色々と考え浮かんだことがありますので今回から前編と後編に分けて記述させていただきたいと思います🖊
河合は自身について無意識の心理学の中でも「ユング派に属している〈フロイトの考えに批判的な側面多々あり〉」(河合, 1977, p.12 〈 〉内、筆者)と自己規定をした上で、本書において無意識の構造に関する様々な持論を展開していくわけですが、彼の敬愛する一派の創始者が発案した「元型」という重要な概念については、以下のように記述をしています。
私は初っ端から「元型」という耳慣れない概念を持ち出して、読者に無意識の構造について説くつもりはありませんのでご安心を。私がこれを引用したのは上記の内「ユング」の部分を「河合」に、「元型」の部分を「無意識」に変えてみれば、本書の特徴をよく示す一文になるのではないかと考えたからです。河合は京大を卒業後、ユング研究所でユング派精神分析家の資格を取得した一人前の学者といえる人物ですが、本作における彼の文章はペダンティックな臭いがまるでしません。それは河合が大衆向けの文章を心掛けたからということもありましょうが、彼こそが正に、大学に籍を置きながらも臨床体験を重ねた実践の人だったからという側面も私はあると思います。
本書の第一の特徴は伝える力の強さ、有り体に言えば文章のわかりやすさにあります。それは本書が、NHKの大学講座を元にしたものであるからという理由も恐らくあるでしょうが「……話すことと書くことでは異なるし、もう少し新しいことも伝えたかったので、まったく始めから書き下ろすことになった」(河合, 1977, p.188)そうなので、これは河合の筆力の賜物といって間違いないでしょう。
例えば、自我とコンプレックスの関係について綴られた以下のような文章を見てみましょう。
今年は自民党の裏金問題により「派閥」という言葉が記憶に新しいですが、問題はそれよりも、作中に時より出現するこうした喩え話のわかりやすさです。私も論考を書く際はメタファーをよく用いますが、ここまで鮮やかに読者へ伝わるような形で書くことのできている自信は全くありません📚
コンプレックス……、皆さんには何か思い当たるものがありますか? 負の印象ばかりが付きまとうこの言葉ですが、コンプレックスを持つということは、必ずしも悪いことばかりではないようです。理由については是非、本書を実際に手にして読者ご自身でお確かめください(Amazon.co.jp: 無意識の構造 (中公新書 481) )。
前回の投稿で(僕ら若者が文学をやることについて|ダフネ )私は、若者が文学をやる上で何よりも大切なのは「自分の足で立つ」ことだなどと偉そうなことを書きました。しかし執筆活動に限らず、日々繰り返される実生活においてもその「自分の足で立つ」こと自体が非常に困難を極めるということについて、本書では夢を例にとりつつ解説が施されています。
皆さんは昨晩、どのような夢をご覧になりましたか? 私はつい先ほどまで覚えていたのですが、noteを書いているうちに綺麗さっぱり忘れてしまいました(笑)。しかし少なくとも、玄関でキョロキョロ自分の白黒スニーカーを探し回るような夢でなかったことは確かです。皆さんも「『はきもの』を探しても見あたらない」といった夢を見た際は要注意です⚠ それは過度に生き急ぎ過ぎたり、外的自己へ囚われたりしている証跡かもしれませんから……。
次に、河合隼雄から文学を行う我々に向けて発せられているともとれる警句をお示しし、少しずつ前編のまとめに入りたいと思います。
昨年、我々は小林秀雄の随筆「栗の樹」を題材としたリレーエッセイ(故郷再考 二ツ池七葉 ――小林秀雄「栗の樹」リレーエッセイを終えて|ダフネ )を行いましたが、そこでテーマとなった「故郷」はイメージやシンボルと呼べるような非常に抽象性の高い言葉の代表格です。自分は『ダフネ』の執筆者の一人である澤田氏が、このリレーエッセイの内容も含めた雑誌第三号の合評会で漏らした次のような発言が頭から離れません。
「体裁の良い文章を心掛けるあまり、今回は変に丸まった文章になってしまったような気がする」
純文学を志すのであれば、洗練された文体こそが命であることは、まず間違いのないことでしょう。しかしながら、美文を心掛けるあまり内容を失するということは、文章世界においてあり得るのではないかと私は考えております。澤田氏の発言も、そうした観点からの反省から来ているものと勝手に解釈しています。
「言語化を焦り過ぎて、それらのもつ生命力を奪ってしまう」、こうした問題と我々は、如何にして折り合いをつけていくべきなのでしょうか? 実はもう、澤田氏は自身で書いたエッセイにおいて既に答へとたどり着いているようにも感じています(『栗の木』に寄せて――幸福への手がかり 澤田孝平 ~小林秀雄『栗の樹』を読んで~|ダフネ )。彼にとっては決して満足のいく文章ではなかったのかもしれませんが、やはり私が戻って来る結論は、ときどき帰る実家と同様にいつも同じところにあります。
これは最近撮影した、親父が庭にブドウの苗を植えている際の写真です。ブドウの苗だけに限らず植物一般は、根から栄養を吸い上げ太陽の光を浴びることで立派に成長し、枝先に美しい花や芳醇な実をつけます。もし仮に、もぎ取られてもなお新鮮さを失わない魔法のブドウがこの世界に存在するのだとすれば、その木の根元は実に掘り起こせないほど地中の奥深くに埋まっていたものと推定されます。少なくとも私は、所謂”古典”と目される作品群をそういうものとして考えています。
前編は以上になります。
【参考】
河合隼雄『無意識の構造』, 中公新書, 昭和五十二年九月二十五日発行
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