『栗の木』に寄せて――幸福への手がかり 澤田孝平 ~小林秀雄『栗の樹』を読んで~
信州は広い。小林秀雄の妻・喜代美が生まれたのは松本。私の生まれたのは同じ信州とはいえど、車で3時間程離れた、ほとんど県外と言っても変わらない南信の一寒村である。その松本には、その街の象徴的な松本城があり、今も城下町の風情を保ちながら、人々の賑わいが溢れている。かたや我が故郷は、これといった風物もなく、人口は減少を続け、日々の買い物にも難儀する老人ばかりが、だだっぴろい田畑を頑なに守っている。
今、故郷と松本との様子を述べたのは、松本の持つ堂々たる歴史への信頼に比して、我が故郷の空洞的荒廃を、自嘲的に語ろうとしたためである。自嘲的——実際そうなのだ。あの街にいったい何があろう。私が私の故郷を語る時、いくつもの否定的言辞が待機している。地方文化が途切れ、現代的繁栄からもこぼれ落ちた空疎、もっと言えば伝統やら、文化やら、その片鱗さえも植え付けえぬ家で育ったということが、背骨を抜かれたような落ち着きのなさを私に与えるのだ。
しかし、こういう卑屈な感情でうずくまっている私の奥底には、何か熱いものがあると、はっきり感じる。一言でいえば愛である。具体的にいえば、自分の生まれた場所がどれだけ貧かろうと、そこでしか成長し得なかったという事実に対する、あるいはその場所全体を背中に負った自分自身に対する、肯定の感情である。街の風景も私の姿もいかにもみすぼらしいが、それらを受け入れることによって初めて、私は私自身のうちに安らぎを見出し、不安な未来へ出発することができる。
人はよく、他人を比較しては、何か別の人間でありえた自分というのを想像する。どうして自分は彼ではないのか、なぜ彼の持っている何ものかが、自分にはないのか。こういう問いの形をとった不満を生み出す比較は、何によってなされるか。物体ならば物差しを当てたり、秤を使って測れば事はすむが、こういうやり方が人間間の比較にも使われるのであれば、大変な間違いを引き起こす。比較のためにはある視点から取られた尺度がいるわけだが、刻まれた目盛りのそれぞれに位置付けられた個人は、尺の先端を目指した醜い闘争に巻き込まれよう。ここには二重の不幸がある。第一に、最後の一人になるまで決して人は安らげないこと。第二に、その尺度はある視点から取られたものに過ぎないので、他の面においての勝利までも保障するものでは決してないこと。ここに、幸福を自らを十分に生かすことに安らぎを覚える状態と定義するならば、他者との比較から生じる闘争から身を引いて、自分のうちに帰り、自分を自分たらしめているものを見つめ直すこと、そこにしか幸福への手がかりはないのではないか。
私が「栗の木」に感じるのは、こういう幸福への、あるいは安らぎへの手がかりである。(それが事実かどうかは別として)妻の家と学校の間にある「栗の木」とは、こう言ってよければ、過去から来たり、未来の無数の可能性を前に逡巡する人間にとっての、ある道標である。妻本人にこういう意識があったわけではないと思うが、少なくとも「西洋近代文学の毒」を指摘し、文学をやることの不快を告白する小林自身は、「栗の木」に、雑然とした世間に自己を見失いがちな人間の一貫性を蘇らせる手がかりを仮託したのだろう。
さて、現代を生きる我々の周囲には、多分小林の生きた時代よりも多くの、自己喪失を招く誘惑がある。外面的な成功に囚われて、自己を殺す不幸に陥る者のなんと多いことか。だが、殺された自己は亡霊のようについて回り、不安と孤独をもって報いることだろう。ちょうど人参を追って走り出した馬が、ついに自分の元いた場所を忘却し、不安と孤独に陥るように。もしも自己を殺して得られた成功よりも、自己を生かす安らぎに見出される幸福を望むのであれば、我々もたまには、それぞれの「栗の木」を探しにいかなければならない。我々の心を離れない、どこへ行くのかという問いの鍵は、どこから来たのかという事実の内にしかありえないのだから。
今後も執筆者の紹介が続きます! 乞う、ご期待!
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