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盆踊りがすごいわけ~『居るのはつらいよ』『手の倫理』から考察してみた

まえがき


前回、盆踊りに参加したらサウナより整ってしまった話を書きました。
※「整う」:サウナ、水風呂、休憩を繰り返して副交感神経が優位になった状態

動きの体得に没頭してトランス状態に入ったのではないかと考えていたのですが、そうなると、盆踊りで「整う」ことができたのは未経験ゆえの出来事だったといえます。
では、経験者となってしまってから、盆踊りで「整う」ことはできないのか…?

それはちょっと、さびしい。
もうあの感じは味わえないのでしょうか。

いや、まだ諦めるのは早いです。
あの時感じた盆踊りの"心地よさ"には、もっとなにか普遍的なものがあったのではないか?
盆踊りの経験値とは関係なく、心身が「整う」条件になっているものもあったのではないか?

そう考えた結果、盆踊りに潜む普遍的な魅力をみつけました。
今回はそれをご紹介したいと思います。


参考文献(2冊)の紹介


盆踊りの考察にあたって、東畑開人さんの『居るのはつらいよ』と、伊藤亜紗さんの『手の倫理』の2冊を参考にさせていただきました。

『居るのはつらいよ』は、臨床心理士の著者が沖縄のデイケアで体験したことを振り返り、「ケア」と「セラピー」の違いや関係性を纏めている本です。物語形式で進められ、最後は推理小説のように現代の"ケア"に潜む闇が炙り出されていく、大変面白い一冊となっています。

続いて『手の倫理』。こちらは、触覚に焦点づけたコミュニケーションについて考察されている一冊です。例えば、人が人に"さわる"時と"ふれる"時では何が違うのか、など、新鮮な切り口で知的好奇心が刺激される一冊です。

どちらも大変示唆に富む本なのですが、なんと、盆踊りを考察できるヒントまで含んでいました。

それでは、盆踊りの魅力、いってみましょう!


「円」であることの効能


盆踊りにはスタート地点からゴールまで直線的に歩いていくものと櫓(やぐら)の周りを円になって回るものがありますが、今回は円になって回るものに限定します。

円形に回ると、車のロータリーのように入り易く抜けやすい構造ができます。
前回の記事で流れるプールに例えましたが、誰でも参加でき、いつ抜けても構わないことが分かりやすくなるのではないでしょうか(実際に私が参加した盆踊りでも、疲れた人はするっと抜け、休憩してからするっと戻っていました)。

直線的に進む場合には”この後帰んなきゃ…””だいぶ歩いたな”など、経過や終着点を意識し易いですが、円形に回っている場合、何処へ向かっているかは意識しません。この副次作用として動作に集中しやすいことも考えられます。

また『手の倫理』では、長時間にわたって同じ動作を共有することがある種の"接続の安定"をもたらすと指摘されています。

これは、ひとことで言えば「現在」に集中しやすい、ということでしょう。日常生活においては、次何をするのかな、もうそろそろかな、と「先読み」しながら動くのが通例です。

伊藤亜紗『手の倫理』p.153より

同じ動作がひたすら続くと、人は「次」に対する予測スイッチを切ることができ、動作の中で起こる微細な変化に対する感度が高められるそうです。

盆踊りでも、同じことが起きているのではないでしょうか?

円の中で同じ動作が繰り返されることで、盆踊りの動作に没頭することが可能になる。構成員は流動しても、円という構造が保たれることで安定性が生まれていると考えられるのではないでしょうか。

ここでさらに、東畑開人さんの『居るのはつらいよ』を参照します。

東畑さんが務めていたデイケア(要介護者が日帰りで通い、生活支援を受ける為の施設)では、「円観的時間」がぐるぐると回り、「変わらない」ことに高い価値が置かれていたそうです。

デイケアでは「一日」を過ごせるようになるために、「一日」を過ごすのだ。そこでは、手段そのものが目的化する。

東畑開人『居るのはつらいよ』p.188より

現代社会では「変わる」ことが重視されていますが、居場所となるコミュニティには「変わらないこと」も重要だといいます。
デイケアでは職員が次々と入れ替わりますが、そこで1日を過ごすという構造がメンバーを支え、「ただ、いる、だけ」の状態がぐるぐると回るところに居場所が生まれるとのこと。

これ、もう、盆踊りですよね?

盆踊りの動きも大きくは変化せず、人は「盆踊り」を踊れるようになるために「盆踊り」を踊ります。そこではデイケアと同様に手段が目的化され、変わらない動作の繰り返しの中で居場所が生じるのです。

盆踊りの普遍的魅力まとめ


つまり、盆踊りは、ある種の「居場所」としても機能していると考えられます。

自分が盆踊りに参加した際も、地域の輪の中に入れてもらえた感覚や、なんとなくその場に包まれているような感覚がありました。

お互いに会話を交わしたわけではないのに、その場に即席の"コミュニティ"が生まれていたとしたら、結構すごくないですか?

盆踊りの普遍的な魅力。
それは、円になることで自由に出入りできる居場所(即時的なコミュニティ)を生み出し、その中で動作に没頭すること(ストレス発散)を可能にする、ということではないかと思いました。

盆踊り、スゲ〜〜〜!!!

おまけ:ズンドコ節のドッキリ


おまけで、先日の盆踊りで個人的にドキッとした瞬間について。

初めて盆踊りに参加した私は、幾つか曲を踊るうちにコツを掴んでいきました。
「丸の内音頭」「東京音頭」など、有名だけどちゃんと聴くのは初めてといった曲が続き、盆踊り独特の動作にも慣れてきた頃、場内にアナウンスの声が響きます。

「さあ、次は、きよしのズンドコ節です!!」

おぉ。ちゃんと知ってる曲、きた!
っていうか、ズンドコ節って振付あったんだ。

やったるで〜と、同様に町内会のおば様達の振り付けを真似ていたところ…、
突然、おば様達が手を繋いで回り出しました

えっ、手、繋ぐの!?

それまで、近くの人と手を繋ぐ振付などありませんでした。
聴いてないよ、きよし。

私の右隣にいたのは、全く面識のないメガネのお姉さん。ワンピースの私服姿で彼氏と参戦しており、同じく初心者の様子です。私は一瞬の間にどうすべきか脳内で逡巡しました。

『このお姉さん、知らない人と手繋ぐのに抵抗あるタイプだったらどうしよう。若い子だし、"いや、適当に繋がないでやり過ごすっしょ"って感じかな!?』

勝手にドギマギ。昔、学校で"皆で手を繋ぎましょう"と言われると、照れ臭さから鼻で笑ったり斜めに拒否していた同級生たちのことを想起して不安になりました。

躊躇いつつも私が両手を広げるだけ広げていると、メガネの彼女は自然にそっと手をとってくれました。

あっ…、繋いでくれるんだ!!

この時の感情はうまく言い表せませんが、なんか、存在を受け容れられた感じがありました。

私たちは人の体にふれるとき、確かにその内部にあるものを、その奥にあって動いている流れを感じ取っています。

伊藤亜紗『手の倫理』p.76より

『手の倫理』によれば、私たちは人の体に触れると同時に相手がどうしたいか/したくないかの衝動や意志にもふれているといいます。

これは、分かる。
あの時触れたお姉さんの手から少しの戸惑いも硬さも感じられなかったことで、私はとても安心したのでした。
ただ、手を繋いでいる間の不安というものもあり(手汗気にならないかな、不快に思っていないかな等)、その後手が離れた瞬間にはホッとして「あっ、また4小節後に手を繋ぐのか…」と緊張したことから、手を繋ぐという行為に自分がいかに動揺していたかも分かりました。

『居るのはつらいよ』では、心理士にとって患者の体に触れることがどれだけインパクトのあることかが描かれています。

まして、体になんか簡単に触れない。体に触れられるとき、心は暴走しやすい。〜(略)〜
だから、僕らは「何が起きているのだろう?」と一拍考え、「どうしたらいいのだろう」とさらに一拍考える。それから動く。

東畑開人『居るのはつらいよ』p.71より

心理士が面接室の中でクライエントの身体に触ることはほぼ無く、あるとしたら多分、かなりの抵抗感と共にその意味を考えます。

自分がそういう常識でいたこともあり、盆踊りでは打ち合わせもなしに他人と手を繋ぐことになって大層衝撃を受けました。

子供の頃なら、抵抗なかったかも?
社会人になってから、他人と打ち合わせなしに手を繋ぐ機会なんてないんですよね。しかしその後もお姉さんと何度も手を繋いだり離したりしていくと、段々と自分の心持ちが変化し、徐々に他者と輪になって繋がっていることに不思議な一体感や嬉しさを感じ始めることもありました

伊藤亜紗さんによれば、「ふれ合う」ことにはリスクが伴い、その上で相手を信頼することが必要になるといいます。

信頼が特に意味を持つのは、接触の瞬間でしょう。実際の接触が始まってしまえば、不確かさは減少し、「ふれるときふれられている」という確かさのなかで、緊張はむしろ安心に変わっていくことが多いからです。

伊藤亜紗『手の倫理』p.101より

こういうことじゃないでしょうか。

隣のお姉さんがどんな人か分からないで手を繋ぐのは不安だったけれど、何度か手を繋ぐうちに「この人は悪い人ではないな」と思えるようになったんでしょう。お姉さんの手は私と同じくらい熱く、踊りによって血が巡っている感じがしました。手を繋いで踊る中で、言葉を交わさずに信頼に至ることができたともいえるのです。

いや、盆踊り、深〜〜〜

まとめと後書き


長くなりましたが、盆踊りの考察は以上になります。

簡単に振り返りますと…、

①盆踊りは円であることで自由に出入りできる居場所(即時的なコミュニティ)を生み出しており、その中で動作に没頭することがストレス発散にもなる。

②突然のズンドコ節にはご注意を。他者と手を繋ぐことは不安で新鮮な体験であるが、たまには輪になって踊ってみるのも良いかもしれない。触れる中でもたらされる信頼感や一体感もある。

こんな感じでしょうか。

盆踊りの中には、色鮮やかな体験が詰まっていました。
夢中になって踊るうちに時間が過ぎ、没頭しながらも心は動き、帰り道はサウナよりも整ってしまったのだと思います。

とはいえ、盆オドラーとしては駆け出しの心理士(もう意味が分からない)ですから、まだまだ知らない盆踊りの魅力もあるかもしれません。

先日別の街でも盆踊りを見かけましたが、それは駅前の広場でやっており、また違った雰囲気がありました。

盆オドラーの皆様、お気づきの点やご助言などありましたら、ぜひご教示下さい。

盆オドラー未満の皆様も、何かご感想あれば、ぜひよろしくお願いします!

では、また。

ここまで読んでいただき、誠にありがとうございました🏮

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