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だいきの自己紹介(というか生い立ち)
僕の自己紹介記事、というか生い立ち記事です。
思いつくことをひたすら書いていたらめっちゃ長くなってしまったので、目次だけ見てなんとなく僕という人間を掴んでくれれば嬉しいなと思います。
基本情報
2002年5月7日生まれ、執筆時18歳。
好きなことは、ギター(まだ弾けない)と読書(1ヶ月10冊程度は読んでいます)。
ハリーポッターとハンターハンターが好きです。
西野亮廣エンタメ研究所に所属して、西野さんの記事を毎日ニヤニヤしながら読んでいます(僕のnoteも西野さんの影響を受けまくっています)。
特技は泳ぐことと走ること、苦手なことは球技です。
2002年5月7日 爆誕
僕は、北海道の札幌市に生まれました。
泣くときはアホみたいに声がでかかったそうです。
そのくせ、写真を取るときはおとなしく座っていたそうで、お利口な子供でした。
3歳〜 水泳を始める
僕は食いしん坊だったので、ブクブク成長していきました。
それを見かねた母が、僕をスイミングスクールに突っ込みました。
最初はプールがいやでいやで仕方なくて、毎回スクールにつくたびに泣きじゃくってしまい、コーチに慰められていました。
そんな僕が、いつしか水泳選手を目指すなんて言ったから驚きです。
幼稚園 ポケモンくじ引きを作りまくる
僕はいつも中心にいた気がします。
毎日がめちゃめちゃ楽しくて、特にプールの時間は僕の得意分野だったので大好きでした。
幼稚園は2階建てで、年長さんになるまでは2階に上がることは禁止されていたのですが、なぜか僕たちは階段でじゃんけんして勝ったら1段上がれるみたいな遊びをしていて、こっぴどく怒られました。
でもやっぱりお利口さんに変わりはなく、何人かで先生に怒られたあと、僕ともうひとりが呼ばれて、「君たちはしっかりしてるんだから。」みたいなことを言われた記憶があります。
当時はポケモンにハマっていて、自分でA4の印刷用紙にポケモンの絵を描いて(小癪にも透かして写すとうまくかけるっていうテクニックを使っていました)、同じくA4の印刷用紙を折ってドラえもんのポケットにして、その中にくじを大量につめこみました。
先生や友達にくじを引いてもらって、でたポケモンの絵をあげる。
こんなことを何回も何回もしていました。
幼稚園の思い出は、先生に絵を見せるために列に並んでいるときに漏らしたこと、お泊り会のときに女の子と二人で外に出て、手をつないで星を見たことです。
甘酸っぱい、なんとも恥ずかしい思い出です。
小学生① クラスでパーティーを企画する
そんな僕でも7歳になったらランドセルを背負って小学生デビューをしました。
入学した当初、なぜか鮮明に残っているのは、和式のトイレで用を足すレクチャーを受けているときの記憶です(笑)。
一番僕が生き生きしていたのは3年生のときです。
担任の先生が、毎日学級日誌を書いて配ってくれるような熱心な先生でした。
僕が動き出したのは、12月。
クラスでクリスマスパーティーをしたいと思って、先生に相談に言ったら、「昼休みでやんなさい」と言われました。
僕は、友達と二人で計画を進めました。
昼休みは全部で20分あって、最初の10分程度はレクリエーションです。
教室内でできるレク(かごめかごめとか?)をしていました。
で、残り10分になったら僕とその相棒がサンタとトナカイの変装をしてでてきます。
だいきサンタの袋の中には、前もって折っておいた折り紙がたくさん入っていて、皆に1枚ずつ配っていきました。
時間は計画通り。
みんなも喜んでくれて、最高のクリスマスパーティーでした。
クリスマスパーティーを経て勢いづいた僕は、次に「新年会をやろう!」と思いつきました。
先生は、クリスマスパーティーの成功を経て、今度は時間をとってくれると言われ、めっちゃ張り切りました!
思いついたときにはもう冬休みでしたが、すぐに手伝ってくれそうな人に片っ端から電話をかけ(10人くらい)、景品用の折り紙を作ってくれるように頼みました。
集まった折り紙はウン百枚。
それらをすべて使って「新年会〜折り紙たくさんもらおう会〜」を企画しました。
コマ、けん玉、射的などの個人競技から、レクリエーションなどの対抗競技もあり、クリアしたり勝ったりしたら折り紙がもらえます。
で、最終的に一番折り紙を持っていた上位3人が表彰されます。(メダルすら折り紙で作って、拙い賞状も作りました)
みんなたのしんでくれました。
それ以外でも、お誕生日会が毎月あるのですが、そのときは「サプライズ」といって、ネタを披露したり、女装をして笑わせたり、そんなことをしていました。
自分で企画して人を楽しませることが本当に好きでした。
小学生② 児童会長になる
そんなこんなで結構目立っていたこともあり、勉強もかなりできていたので、4年生のときに先生から「児童会に立候補しないか?」と声がかかりました。
児童会とは、中学、高校で言う「生徒会」のようなもので、生徒を代表して学校を動かす(といってもできることは限られているが・・・)役職です。
僕は少し迷ったものの引受け、晴れて児童会副会長になり、5年生になると児童会長になりました。
毎月学級委員や委員会の委員長が集まって話し合う場(名前はわすれた)があり、個人的には結構大変でした。
一方的に話して終わりのこともあるのですが、その場で話し合ってもらって案を出してもらい、多数決までやることもありました。
うまくいかずに、先生に怒られて、めちゃめちゃ泣いたときもありました。
楽しかったのは、やはりイベントの企画です。
音楽集会や1年生を迎える会、6年生を送る会などの企画も全部自分たちでやります。
自分が担当して、アナウンスした学年の発表を見ていると、なんだか自分もその学年の一員になれている気がしてとても感慨深かったです。
やりたいことをやらせてくれて、学校全体を巻き込んだイベントもできて、めちゃめちゃ充実した小学校生活でした。
卒業式は泣きました。
小学生③ 水泳ガチる
いかにも充実している小学校生活の裏で、水泳もガチっていました。
3歳から通っていたスイミングスクールではものたりず、東京のそこそこ強豪のクラブチームに移籍しました。
学校が終わるとほぼ毎日練習に行っていました。
当時の記録は、50mの自由形が29秒、50mのバタフライが30秒でした。(わかるかな?)
実はそこそこ速かったんです。
しかし、好きかといえばそうでもありませんでした。
練習が毎日億劫でしたし、大会でいいタイム出しちゃったら練習が辛くなっちゃう、なんて思ってもいました。
結局9年間続けた水泳は小6でやめました。
中学生① マンモス中学校に飲まれる
楽しかった小学校生活を終え、中学校に入学しました。
一学年300人ほどのマンモス学校です。
地元の中学校なので、同じ小学校の出身者も3分の1くらいはいましたが、にしても小学校とは全く違う環境でのスタートでした。
小学校では当たり前のように自分の周りに人が集まっていました。
しかし、中学になると、待っていても全然友達ができません。
そんなの当たり前ですが、当時の僕は真剣に悩んでいました。
「友達ができない」と。
1年生が半分以上すぎて同じ班になった人とようやく仲良くなり、4人で遊びに行ったりはしました。
ただ、小学校のときのような、僕が中心にいる感覚はすっかりなくなりました。
中学校② 生徒会長になる
小学校の時の児童会長はたしかにいい経験になりました。
でも、正直疲れました。
僕は中学になったら生徒会はもちろん、代表委員(学級委員)に対しても消極的でした。
中1の最初の委員会は、「広報委員会」。
せっせと学校の掲示物を作っていました(笑)。
こんな感じであまり目立つことなく中学校を終えようと思っていましたが、まぁ先生方がしつこいしつこい。
小学校から噂が届いていたのか知りませんが、生徒会長にめちゃめちゃ推されます。
しかも、生徒会長の立候補者はちゃんといました。
僕の小学校時代の児童会仲間です。
立候補しているんだからそれでいいじゃないと思っていましたが、学年副主任の先生は「学校の顔なんだから、男じゃないと」とか、「あのこには任せられない」とか、今思い出すと性差別的な発言や侮辱するような発言ばかりしていました。
とはいえあまりにしつこく、「こんなに必要とされているんだ!」とか思っちゃった僕は引き受けることを決意します。
学年主任(対抗馬のクラスの担任)に、「生徒会長に立候補することに"なりました"」と報告しに行くと、その先生はイラッとした表情を見せて、「そうじゃねえんだよな」とぼやきました。
はじめは、「なんだよ、あんなにしつこく頼んどいて」と思って、悔しくて泣きました。
でも、今思い返すと、自分が受け持っているクラスの子の意思を尊重してあげたい主任と、なにがなんでも僕にやらせたい副主任(陣営)の間で亀裂があったんだろうなと感じて、主任に心から同情します。
そんな大人の闇を見てしまいました。
生徒会長になってからも、生徒会の担当の先生の言動にイラッとした態度を見せると、その先生は機嫌を取り戻そうとしたのか、ちょっとしたことでどんどん褒めるようになります。
しかもあからさまに。僕だけ。
子供を道具としか見ていない先生たちの態度に、大人への不信感が生まれました。
結局生徒会長はそれなりにやりきって、卒業式の答辞はいろいろな人に「感動した」と言ってもらえました。
仲の良かった後輩のクラスでは、「会長すげーだろーー!」と自慢しまくっていたみたいですし、他の後輩からLINEで長文の感謝のメッセージが送られて来たりと、なんだかんだ会長やってよかったなとは思っています。
中学校③ 陸上部長距離
水泳をやめた僕は、小学校から得意だった陸上部の長距離をはじめました。
トラックでいいタイムを出して県大会に行ったり、駅伝で地元を走ったりと、楽しいこともたくさんありました。
しかし、またまた嫌なことがありました。
顧問の先生です。
僕は受験勉強を頑張りたくて、3年生の夏で引退を決めました。
つまり、駅伝には出られません。
僕も最後までやりたいという気がなかったわけではありませんが、塾も相当厳しく、かつ生徒会長もやっていたので、時間に本当に余裕がありませんでした。
宿題が終わらなすぎて、授業中や休み時間も必死になってやっているくらいです。
しかし、僕がやめてから、その先生は影で僕の悪口を言っていたそうです。
もう悪口の内容は記憶から抹消できましたが、生徒会の友達から僕に伝えられました。(いや伝えんなよわざわざとも思ったが)
大人って、ほんとになんなんだろう。
自分が上で、子供は下だから、何をやっても許されると思っているのかなと、心から大人が嫌いになりました。
中学校④ 挫折も栄光も味わった高校受験
中学校時代の僕にとって最大のイベントが「受験」でした。
1年生の頃から塾には通っていて、3年生になると週5日も塾に行っていました。
休みの日も自習室に行っていたので、実質毎日です。
一番思い出深いのは、高2の夏期講習ですね。
数学の先生が毎回の小テストのランキングを掲示しだして、負けず嫌いの僕は1つのプリントを5周くらい復習していました。
結果、僕はクラス内ランキングでずっと1位でした。
この勢いが、数学はもちろん、他の科目にまで及びました。
塾内模試(難関校を目指す人のみがうける模試)で、2年生の4月は5科目の偏差値が50程度でしたが、3年生の4月には74まで上がりました。
このときは、全校舎ランキング11位で、謎のキーホルダーをもらいました(笑)。
当時の数学の先生には感謝しきれないほど感謝しているし、この経験を通してかなりの自信がつきました。
僕が目指していたのは、5科最難関の、開成・渋谷幕張・筑波大付属です。
中でも第一志望は「渋谷幕張」で、僕の大好きな先輩が行っていて楽しそうにしていたので、僕も行きたいと思うようになりました。
迎えた当日。
僕は落ちました。
実は3年生になってからというもの、成績が伸び悩み、周りにどんどん抜かれていきました。
妥当な結果だと思います。
志望校別対策講座の昼休憩の時間に結果を見て、階段ですぐさま担当の数学の先生に電話をかけました。
いざ声に出すと悔しさがこみ上げてきて、泣きわめきました。
階段だったので、結構声も響いていたと思いますが、そんなこと気にしている余裕はありませんでした。
それから、死にものぐるいで過去問をやりまくりました。
もう何が何でも受からないと、滑り止めのところに行くことになってしまう、と危機感がとてつもなかったです。
結果、開成は受かりました。
幻を見ているかのような高揚感がありました。
しかし、あまりに疲れました(笑)。
もう勉強はしたくないと思ったし、開成の対策講座に参加していた人のレベルの高さに毎回死にそうな思いをしていたので、開成は蹴りました。
代わりに、慶応の付属校に入学することを決めて、今に至ります。
僕にとって受験は、第一志望不合格という大きな挫折と同時に、大きな成功体験をくれた、すばらしい体験でした。
中学校⑤ 僕を支えてくれた後輩の存在
受験・生徒会長・部活・受験・生徒会長・部活・・・で毎日楽しいことも特にない日々を過ごしていた僕が、唯一楽しいと思えたのが、後輩と喋っているときです。
当時僕が3年生だったときに1年生だったあいつらは、いつも僕の周りによってきてくれました。
給食を取りに食堂に行くときや、食堂から帰ってくるときなど、後輩をみつけたら僕はいつもちょっかいを出していて、後輩にもやり返されていました(笑)。
あいつらと話しているときには、今ある辛いこともすべて忘れられました。
特に仲の良かった後輩とは、一緒にお寿司を食べに行ったこともありますし、今度またご飯を食べに行こうと約束しました。
中学校⑥ 初めて友人に裏切られる
と、ここまではハートフルなお話でしたが、僕は中学時代に、人生で初めて友達に裏切られる経験をしました。
卒業したあとにUSJに行こうと2人の友人を誘っていたのですが、気づいたら僕を外した4人でUSJに行っていました。
僕にも悪いところはあります。
最初に誘ったのが3年の春で、いざ行こうと言い出したのが2月頃だったので、「本当に行くのかな?」という疑問を抱かせてしまいました。
その間に他の友人と話がまとまってしまったなら、仕方ない部分もあります。
でも、当時の僕は結構落ち込みました。
結局自分には友達なんてできなかったのか、と自己嫌悪に陥りました。
彼らとはもう連絡をとっていません。
同様に、中学の友人で連絡をとっている人もほとんどいません。
なんだか、たった二人に裏切られただけで、学年全体から自分がハブられているような感覚になってしまい、他の人に対しても今まで通り接することができなくなっていきました。
常に相手の目を気にするようになりました。
高校生① はじめての親友
過酷すぎた受験を終えて、僕は慶応の付属校に進学しました。
僕のクラスは最初から結構活気づいていて、仲も良かったです。
研修旅行でも、一つの部屋に集まってみんなでゲームをしていました。
でも、僕はその中に入れませんでした。
友達がいなかったわけではありません。
前後の席の人、同じ部活の見学に行った人、と4人は友達がいました。
でも、みんなでワイワイ遊んでいるところにはどうしても入れませんでした。
中学のいろいろな経験を通じて、やけに人の顔色や、自分の見え方を気にするようになってしまったのだと思います。
自分からは話しかけられないし、話しかけてくれてもうまく答えられません。
ただの陰キャに成り下がっていました。
そんなこんなで、1学期が終わり、席替えをすることになりました。
僕はとてつもなく嫌でした。
数少ない仲いい奴らと席が離されるなんて、どう自分は生きていくんだと思っていました。
結果、僕が毎日昼ごはんを一緒に食べていた3人全員が、僕とはぜんぜん違う席になり、僕の前の席はクラスを代表するイキり(以下T)です。
パーティーグッズみたいな星のサングラスをつけてうえいうえいやってるやつです。
席が前後になって最初の一言が「おれ、サッカー部のやつの近くになりたかったんだよなー」(彼はサッカー部)です。
絶対僕はこいつとは仲良くなれないと思っていました。
しかし、この偶然が、僕を変えます。
Tは、授業中いつも後ろを向いてきて喋ってきます。
最初のうちは「うるせーな」としか思っていましたが、だんだん授業中Tと話すのが楽しくなってきて、共通点もどんどん見えてきました。
まず、一人っ子ということ。
僕の学校はぼっちゃんが多いので、ほとんどの人は兄弟姉妹がいます。
クラスで一人っ子だったのは、おそらく僕とTともうひとりだけでした。
そして、極めつけは5科受験をしていたことです。
僕の第一志望は渋谷幕張で、僕は落ちましたがTは受かっていました。
Tの第一志望は開成で、Tは落ちましたが僕は受かりました。
逆だったらよかったのに、とはじめ聞いたときはめちゃめちゃ笑いました。
結局僕はTと意気投合して、授業中はずっと喋っていたし、Tの家に泊まりに行ったりもしました。
このとき一緒に泊まった5人でグループができて、毎年どっかしらに遊びに行っています。
今年は卒業旅行で大阪に行く予定です!
で、Tはクラスの人気者だったので、彼を経由して友達が一気に広がりました。
今までは4〜5人程度だったのが、一気に30人近くまで増えました。
今では1年生のクラスメイトとは仲良しで、廊下であったら「うえーーい」って言うくらいです。
あと、Tの影響で、僕の「真面目にやらなきゃ精神」が崩されました。
だって、毎回授業中後ろ向いてくるんだからしょうがないですよね(笑)。
でも僕にとってはものすごくいい影響でした。
脳死で真面目に授業を受けるのではなく、自分にとって必要な授業だけ受ける、という今につながる価値観をもらいました。
3年になって、僕はほとんどの授業を聞けなくなりました(笑)。
でもその代わりに、経済の授業、思想の授業など、自分が心から興味を持っている授業は、誰よりも熱心に聴いていました。
Tとの出会いが、僕の交友関係を広げ、価値観を変え、今も続く仲良しグループの形成にまで繋がりました。
心から感謝しているし、逆にTと出会っていなければ今頃どうなっていたんだろうとさえ思います。
ありがとう!!
高校② 二人目の親友
僕は正直満足していました。
もう親友と呼べるやつもできたし、仲良しグループもあるし、友達も40人くらいはいたので、あまり友達作りに積極的ではありませんでした。
で、結局2年生に進級してクラス替えをすると、また孤立しました。
1年生のとき仲が良かったやつが二人いましたが、一人は気づいたら他の人と喋っていて、もう一人のやつとずっと一緒にいました。
研修旅行は、またしてもきつかったです。
喋ったことがほぼないような人たちが僕の部屋に詰め寄っていて、あまりにしんどくて畳の部屋でストレッチをしていました(笑)。
みんながお菓子食って、喋ってるのガン無視でストレッチしているんですよ。
こんなんじゃ友達なんかできるわけないと今だから思います(笑)。
新しい友達も多少はできましたが、1年のときのような仲にまでは深まりませんでした。
つまらないなーと思いつつも、まぁ1年のときの友だちがいるしなーーと言い訳を心のなかで自分をまくしたてていました。
と、そんなあるとき。
2学期の最後の頃のことです。
いつもどおり家に帰ろうと山手線のホームに行くと、同じクラスのやつ(以下G)が電車を待っていました。
僕の乗っている方面で知っている人を見るのが初めてで、思わず声をかけました。
今思うと、なんで声をかけられたんだろうと思います。
話したことはありましたが、世界史の授業の発表グループが一緒になっただけで、しかも話したのは一度きり。
発表中にぼそっと一言交わしただけです。
でも、なぜか体が先に動きました。
いざ話しかけると、Gはあたかも仲のいい友人かのように、早口でどんどん会話をリードしていきました。
僕は、「話しかけてよかった」とほっとしました。
次の日、Gは僕の席に喋りに来ました。
期末試験のあとに行われる「球技大会」でも、僕のところにきて、一緒に喋ってくれました。
こうして徐々に仲が深まっていき、なんと3年生のクラスも一緒になりました。
GからインスタのDMで、「俺、だいきと仲良くなれるかも(笑)」て送って来たのを機に、僕はこいつとなら一生仲良くやっていける、いやいきたいと心から思いました。
それからというもの、コロナで休校になると、週2回くらいのペースで、1回2時間以上電話をしていました。
宿題も相談しながらやりました。
学校が始まってからも、夏休みには毎週のように会って、喋っていました。
僕の家にも来ました。
Gの家にも行きました。
テスト期間になると、毎日Gの近所の図書館に行って、一緒に勉強していました。
疲れたら公園のベンチに行き、休憩と題して1時間以上は喋っていました。
Gといると、なんだか素の自分を出せます。
他の人には話さないようなことでもGには話せます。
もともと自分のことを積極的に話そうとしない僕にとって、初めてできた、僕の話を聴いてくれる、心から信頼できる親友です。
もちろん今でも仲良しで、一緒に学校に行ったり、たまに二人でどこかにいって、ただひたすら喋っています。
僕とGが共通で仲のいい友達がいないので、いつも二人です(笑)。
でも僕はGとは二人のほうが落ち着くし、二人の時間のほうが好きです。
こんなこというのは恥ずかしいけど、僕にとってはかけがえのない親友だし、一生今みたいに仲良くいたいなと思っています!
高校③ 自分の弱さを知った部活動
僕は、高校でも陸上部の長距離に所属していました。
一番伸びたのは二年生のときです。
めちゃめちゃやる気のある後輩が入学してきて、僕がキャプテンとして負けるわけにはいかないと思い、毎日毎日陸上のことを考えていました。
長距離に必要なのは、
・練習
・食事
・睡眠
で、どれか一つでも欠けると、本番でもろにタイムとして現れます。
まず、練習はとにかく積極的に取り組みました。
ある程度練習に余裕を持てるようになってきたら、追加の練習もさせてもらいました。
また、毎日の自分のコンディションを把握するために、陸上ノートを書き始めました。
最初は、日付・練習メニュー・タイム・感想と簡単なものだけでしたが、徐々に、走行距離、心拍数、その日の調子(↑→↓)など、必要な情報を少しずつ増やしていきました。
僕が大会でベストパフォーマンスをいつも出せるようになったのは、自分がどうやったらコンディションが上がるかを常に記録していたからだと思います。
先生にも、「お前は絶対に失敗しない」とお墨付きをもらっていました。
次に、食事に関しては、毎回の練習の後に、タンパク質と炭水化物がちょうどいい割合で入っているゼリー型の飲料を飲んでいました。
1本300円と高額でしたが、親に頼んで買ってもらっていました。
ここで妥協してはいけないと思っていました。
最後に、一番意識していたのが「睡眠」です。
毎日10時にはベッドに入り、6時に起きていたので、8時間睡眠時間をとっていました。
睡眠の質を上げるために、寝る1時間前からはスマホを見ず、照明も暗くしていました。
おかげで、毎日ベストパフォーマンスで練習に取り組めていました。
他にも、本を読んだり、YouTubeを見たりして、情報を集めまくりました。
で、すぐに自分の体をつかって実験していきました。
半年ほどで僕は一気に成長し、顧問の先生には「今年はだれも県でれないかもな」と言われていましたが、9月の県新人大会に2種目通過し、2月の県駅伝ではエース区間で区間6位の快走を魅せました。
顧問の先生にはめちゃめちゃ褒めちぎられました。
関東も狙えると言われていました。
しかし、4月、コロナがやってきました。
僕はもともと大学で続けるつもりがなかったこともあり、あるかもわからない大会に向けてモチベーションを保つことができませんでした。
試合のない陸上競技は本当に辛く、一人でjogに行こうと外に出ても、途中で体が止まってしまいます。
やらなきゃという思いがある反面、やる意味がないという思いがどうしても湧き上がってしまい、僕の足が動かなくなってしまいました。
それからというもの、2年生のときのように陸上に身が入らず、月間走行距離も100kmほど落ちました。
でも試合になると、今までためてきた物が残っていたからなのか、いい感じに走れました。
支部大会の5000mでは、準優勝を飾りました。
で、なんだかんだ俺っていけるんじゃね?と思ってしまった僕は、11月の全国高校駅伝県予選もハイペースで飛ばすことを決めます。
年間で1番大事な大会なので、失敗は許されません。
でも僕は「俺ならいけるだろ」という根拠のない自信を持っていました。
結果は散々でした。
1区をせめて10番台でもってくる予定だった僕は、34番と大きく出遅れました。
後続の後輩たちが素晴らしい走りを魅せてくれて、なんとか20番までのしあげましたが、それでも目標の学校歴代新記録は達成できませんでした。
あまりにつらすぎて、泣きまくりました。
今まで信じてついてきてくれたチームメイトに心から申し訳ない気持ちになりました。
その後1週間は、立ち直れませんでした。
最後の最大の大会だったので、リベンジはできません。
でも、こんなつらい経験を通して大きな学びを得ました。
「根拠のない自信は自信じゃない」
それから僕は、自分の現在位置を過剰評価せず、謙虚に客観的に見定め、その上で成長していこうと思いました。
今の僕の価値観につながる、大きな体験でした。
高校④ ビジネスに興味を持つ
高1の3月、友達のすすめでメルカリをはじめました。
最初は家の不用品を売っていただけだったのですが、いつからか友達と一緒にポケモンカードの転売をはじめました。
ヤフオクで仕入れてメルカリで売る、というモデルです。
本当は逆か、Amazonで売りたかったのですが、年齢制限があり無理でした。
このビジネスモデルは、
・価値が正しくわからない人やめんどくさがりな人(まとめ売りとか)から安く買い、適正価格で転売する
・高額なポケモンカードを買いたいと思う人はコレクターなので、少しの状態の違いで値段が何倍にも変わる→価格差が生じやすい
というものです。
結果、元手が少なかったこともあり、稼いだのは5000円ほどでした。
これが僕が初めて手を出したビジネスでした。
その後は、アフィリエイト、起業、ホリエモン、DaiGoさん、箕輪さん、いろんな起業家・・・と興味が拡大していき、今に至ります。
道中で「Buzz Video」という動画プラットフォームに動画投稿をして、1ヶ月で3万円を稼ぎました。(そのあと放置して+3万円)
最初はただひたすらお金が欲しかったです。
僕の家は貧乏まではいきませんが、僕の高校の中だと下から数えて何番目かくらいだと思います。
友達が海外旅行に行こうと言い出して、「え、そんな金ないんだけど」って言ったら、「一人っ子なんだからあるよ」って言われたこともあります。
SFCに自宅から通うと言ったら、友達に「一人っ子なんだから一人暮らしするくらいのお金はあるって」と言われたこともあります。
いや、ないんです。
これ以上は本当に出せない、と言われました。
お金を周りと比べて持っていないことへのコンプレックスが全開でした。
特に、2年のころはまさにそうでした。
しかし、コロナがやってきて、考え方が変わりました。
コロナのおかげで、家から出る機会が少なくなり、擬似的に「お金も時間もある生活」を体験できました。
めーーーーちゃめちゃつまんなかったです。
お金だけを望んでいた僕は、それだけじゃ幸せになんかなれないと確信しました。
もちろんお金は必要です。
でもそれ以上に、挑戦し続けて成長し続ける人生を送りたいという気持ちが強くなりました。
今はそんな生き方ができる「起業」を目指しています。
進学する大学
大学は慶応のSFCに進学します。
きっかけは、ホリエモンがSFCで講演していた動画を見たことでした。
高2の3月ごろですね。
はじめは親に、「SFCなんか行かなくても、いくらでもビジネスのスクールはあるよ」と言いくるめられていました。
親としても、せっかく本キャンパスに行けるのに、むざむざ湘南のど田舎のキャンパスに子供を行かせるのがもったいないと思っていたのでしょう。
一時は、通学時間が長いこともあり、学費が4年で100万くらい上がってしまうこともあり、僕も諦めました。
しかし、いざ進路の最終提出日が迫ると、「これでいいのか?」という迷いが出てきました。
先程紹介したGは、法学部にも経済学部にも行く学力がありながら、文学部を選びました。
Gは趣味で純文学を読むようなやつなので、周りからの見られ方よりも、自分の好きなことを優先させたのだと思います。
Gにも相談しました。
そうしたら、「頭いい人ってなんかSFC行く感じあるよね〜」って言われて、これはもう頭いい人になるしかないと思って、意思を固めました(笑)。
相変わらず、僕が一番言ってほしい言葉を言ってくれるいいやつです。
とはいえ、親は断固反対なはず。
僕は、SFCの特徴や学びたいことをレポートにしてまとめました。
12月30日、僕は母にレポートとSFCのパンフレットを手渡して、「SFCにいきたい」と打ち明けました。
母の回答は、
「無理。」
粘りました。
まじで。まじで。
「SFCに行くなんて、がっかりだわ」
「あーあ。何のために今まで育ててきたんだろう」
なんて言葉もかけられました。
でも引くに引けない僕は、31日、父と実際にSFCに行ってみて、通学時間の長さにも耐えられると証明して、なんとかSFC進学が決まりました。
僕は、なにかやりたいことがある、というわけではありません。
でも、作り出す側か、作られているものを成長させる側かどちらに進みたいか考えたら間違いなく前者だし、それができるのはSFCの強みだと思いました。
また、何かの分野でずば抜けた人たちが入学してくるので、僕もかなり影響を受けると思うし、そこで人生を一歩すすめるきっかけがつかめるんじゃないかとも思いました。
環境は本当に大事です。
その人の周りの平均値がその人だという言葉も聞きます。
僕は具体的ではなくてもなりたい姿、人生像があって、それに一歩でも近づける可能性が高いのはどちらかっていうと、SFCだと思いました。
環境情報学部にしたのは、正直適当です(笑)。
数学がそんな得意じゃないけど言い訳にしたくないな、という気持ちと、変態がいっぱいいそうだな、というのと、学部長がおもろいっていう、そんな理由です。
自分で選んだ道だし、親にはもちろん、周りの友人にも多少馬鹿にされたので、本気で頑張って、本気で楽しもうと思います!
これからの僕
それでは最後に、2021年3月2日時点で、これからどうしたいか考えていることを書いていきます。
まず、今僕は進学塾の講師バイトをしています。
子供が好きで、子供と関わる事業を将来したいなと考えているので、ほんまに好きなのかを確認する意味と、僕はわかりやすく自分の話をすることが苦手なので、子供相手にでも伝わるような話し方ができるようになれば誰にでも伝わるようになるのでは?と思い、このバイトを決めました。
今のところまだ授業は持っていませんが、質問対応をしてあげたときの子供の反応が気持ちよすぎました。
「おおーー!ありがとうございます!」
と言って去っていきました。
まだ研修生の僕に、「こんばんは」「さようなら」と挨拶をしてくれる生徒さんもいるし、「○○(僕の名字)先生」という引き出しもできているし、なんだかバイトに行くのが楽しいです(笑)。
4年間ずっと続ける気はないのですが、2年くらいは頑張ろうと思っています!
あとは、起業の勉強会に参加したとき、講師の方にとある起業スクールを紹介されて、書類選考は通ったので、まずはここで起業に必要な骨格を身に着けていきます。
で、SFCに行ったら何かしらの分野でずば抜けている人がたくさんいると思うし、先生も変な人ばかりなので、影響をもらいつつやりたいことを固めていきます。
全力で学んで、全力で行動して、誰よりも成長して、これからの人生を全力で楽しもうと思います!!