旧約聖書の御伽噺「ノアの方舟」が着いたとされるアララト山を拝んだ, ドグバヤジッド(トルコ), イランとの国境の街にて 〜 1983年11月12-15日
因みにアララト山を「拝んだ」のは聖書を信じているからでは全くなく, 自然を畏怖しているから。
1983年4月26日に日本を発って, 半年かけてソ連・ヨーロッパ諸国・トルコ・シリア・ヨルダン・パレスチナ/イスラエル・エジプトを旅した後, 同年10月26日より再びのトルコ
1983年4月26日に横浜港を発って, まずは半年間かけたソ連・ヨーロッパ諸国・トルコ・シリア・ヨルダン・パレスチナ/イスラエル・エジプトの旅については, 以下 note *1(イスタンブール再訪記)の第1章 1983年4月26日に日本を発ってから 6ヶ月 〜 ソ連・ヨーロッパ諸国・トルコ・シリア・ヨルダン・パレスチナ/イスラエル・エジプト, ここまでの振り返り に, その各国各都市・旅 note リンクへの案内がある。note *2 は, 2度目のトルコでの初めてのアンカラ滞在記。
note *1 イスタンブール再訪(1983年10月26日-11月8日)
note *2 2度目のトルコ, 初めての首都アンカラ 〜 1983年11月9-11日
さて 次章以降は, 行ってみよう, いや登ってはいない, 見てみよう, アララト山。
ユダヤ教の聖書つまりキリスト教の旧約聖書の御伽噺「ノアの方舟」が着いたとされるアララト山を拝んだ, 現代では「政教分離」ということになっているトルコ共和国のイスラームの信徒の街ドグバヤジッド 〜 1983年11月14日(写真, たったの4枚!)
スマホなど無い時代, そのうえ「貧乏旅行」バックパッカーだったのです, 写真は, フィルムは, コダクロームは, 時に節約しなければなりません。あの旅で持っていったのはカメラは「ナイコン」(ニコン)でなくコニカだったけれど, フィルムはコダクローム ♫
さてさて, さっそく, アララト山。あ, これはウィキペディア。
アララト山(アララトさん、アルメニア語: Արարատ、ペルシア語: کوه آرارات)またはアール山(トルコ語: Ağrı Dağı、クルド語: Çiyayê Agirî/چیایێئا گری)は、トルコ共和国の東端にある標高5,137mの山であり成層火山である。主峰の東南にあたる標高3,896mの頂上を小アララト山(Küçük Ağrı Dağı、Փոքր Մասիս)と呼んでおり、それに対して標高5,137mの主峰は公式には大アララト山(Büyük Ağrı Dağı、Մեծ Մասիս)という。アルメニアとの国境から32km、イランとの国境から16kmである。
『旧約聖書』にでてくるノアの箱舟が大洪水の後、流れ着いたとされる山と目されて、12世紀以降にヨーロッパ人により命名された。
ノアの方舟(ノアのはこぶね、英語: Noah's Ark)は、旧約聖書の『創世記』(6章-9章)に登場する、大洪水にまつわる、ノアの方舟物語の事である。もしくは、その物語中の主人公ノアとその家族、多種の動物を乗せた方舟自体を指す。「はこぶね」は「方舟」のほか、「箱舟」「箱船」などとも記される。
『クルアーン』にも類似の記述があり、「ヌーフの方舟」と呼ばれる(11章 フード)。
というわけで, 「ノアの方舟」はユダヤ教の聖書すなわちキリスト教でいうところの旧約聖書, そしてイスラームのクルアーン(コーラン)全てに関わってくるわけで, 要するに アブラハムの宗教の御伽噺 なのでした!
写真 1/4 まだ見えません, いや実はちょっとだけ見えてる, アララト山。
写真 2/4 見えません, いや何気に, ってか, さりげなく姿を見せてるアララト山。
写真 3/4 カメラを右に向けてみた(特に意味ない)。これだとサタン, じゃないぞ, 左端(さたん, ひだりはし!)が写らずして, 下の方の右側だけが見えてる アララト山。
写真 4/4 だいぶ見えてきた アララト山, だけど申し訳ない, 雲が多かったのだ, 拙者のドグバヤジッド滞在中!
そう, 雲が多かったのです。
Cloudy 〜 from Simon & Garfunkel's third studio album "Parsley, Sage, Rosemary and Thyme", released on October 24, 1966 ♫
*一般社団法人日本音楽著作権協会(JASRAC)より「著作権を有する音楽著作物の著作権を侵害している」旨, 指摘を受けた為, 当初 私の誤認識によりここに掲載していた英語歌詞を削除しました。歌詞に関心のある方は, 公式サイト等に掲載されているものを確認してください(2022.9.1 加筆/削除/編集)。
街を歩く女性はほぼゼロだった, ユダヤ教の聖書つまりキリスト教の旧約聖書の御伽噺「ノアの方舟」が着いたとされるアララト山を拝んだ, 現代ではイスラームの信徒の街ドグバヤジッド 〜 旅日記(1983年11月12-15日), 8ページ
でも, うち 2ページ程度(旅日記 4/8, 5/8)は, その後の旅のプラン思案メモ(プランシアンメモ, 何処の国の言葉だ? 笑)だったようで。あ, それと, 旅日記 1/8 はまだ 1983年11月11日で, その日はアンカラを発つ日, アンカラからドグバヤジッドに向かっているところ。それと, そうだった, 旅日記 7/8 の最後の方からは, 既にトルコ共和国を出て, イラン・イスラム共和国に入ってる。
旅日記 1/8 この頁に関しては前回の旅 note(本 note 第1章の note *2, 2度目のトルコ, 初めての首都アンカラ 〜 1983年11月9-11日)の第5章 アンカラ, 1983年11月9-11日 〜 「現代トルコの国父」「建国の父」 アタテュルク逝去45周年の日を挟んで, 2泊3日(旅日記) でも載せている(旅日記 5/5 として)。以下, まずはそれを再録。
アンカラを発って, イランとの国境の街で キリスト教の御伽噺の「ノアの方舟」が行き着いたとされる(一部の人たちからそう信じられている!)アララト山が見える街ドグバヤジッドに向かった日, 1983年11月11日から 11月12日にかけての旅日記。
まわりにいた おっさんたちや おばさんたちが 親切にしてくれた。
あのですね, どこの国にも親切な人はいるんだけど, トルコって親切な人が多かったなぁという印象は強い。まぁよく言われる通り「親日」的な人が多い(理由はいくつか有名ですね)という背景もあるだろうけれど, 実感としては, 別に相手が日本人だからってわけでもなく, 基本, 親切な人が多かったと思う。
バスを待つ間に 大学浪人中(しかしバスに乗って働いてるらしい)のトルコ少年と知り合った。わりと英語をしゃべる。(とオレに言われるようではそう大したことないが ...... しかし, しゃべる。) モスレム。ホメイニは嫌い。アタチュルク没の行事のときは 眠ってたという。「死んでるんだ。オレに何ができる?」
彼のこの態度, 大袈裟に表現すると英語で言うところのアティチュード, これは気に入ったなぁ。いいと思う!(直接関係しないけれど「モスレム」とはムスリムつまりイスラム教徒, 当時の日本語カタカナ書きは「モスレム」が多かったような朧げな記憶あり, それと「ホメイニ」はもちろん隣国イラン, 当時イラン・イスラム革命からまだ4年目だったイラン・イスラム共和国のあのおっさん, ってか爺さん(1983年11月当時で既に81歳だった), アーヤトッラー・ルーホッラー・ホメイニー爺さんのこと)
さて, 21時間の夜行バスの旅で, ドグバヤジッドへ。以下, 翌 1983年11月12日付 旅日記の冒頭にかけて。
バスは 2時間遅れて 5時発になった。21時間 バスの旅。たまに見る街の灯。岩山ばかりの広大な自然。半月に近い月。月が沈んだあと見えた オリオン座。
東へ東へ 進むうちに 自然の姿は厳しくなる。当然 人間の生活環境も厳しくなる。土と石で造った家々。テント。羊の群れ。西とは別の世界がある。
さてさて,
旅日記 2/8
そんなこんなで「日付変更線」を越え(笑), 夜を越え..
.. 数人のクルド人(自分で言った)が しきりに声かけてきた。1人はフランス語しゃべるらしい。イランに行くと言うと, 「ホメイニ !」と言いながら 首を切られる まね をした。
そして 1983年11月12日の午後,
2時頃 ドグバヤジッドに着いた。
Doğubayazıt (Kurdish: Bazîd, Armenian: Դարոյնք, romanized: Daruynk') is a district of Ağrı Province of Turkey, and it is the easternmost district of Turkey, lying near the border with Iran. Its elevation is 1625m and its area is 2,383 km2. Doğubayazıt's population in 2010 was 115,354 (up from 73,794 in 1980) of which 69,447 live in the town of Doğubayazıt, the remainder in the surrounding countryside. Also known as Kurdava, the town was the capital of the self-declared Republic of Ararat, an independent Kurdish state centered in the Ağrı Province.
Mount Ararat - 15 km from Doğubayazıt, and the best views of the mountain are from here.
「シングル 1泊 600TL」, 600トルコ・リラは, 当時のレート(1USドルが250円ぐらいだった時代!)では 日本円にして 600円程度。
当時, イランを旅するバックパッカーの間では, 同国の通貨の公定レートが経済の実態に合わない無茶苦茶に「法外」な, 要するに常軌を逸したレートだったので, トルコから陸路 イランに入る場合はトルコ側の国境の街ドグバヤジッドでいわゆる「闇両替」をするというのが常識だった。つまり, イランの公定レートがあまりに非常識なものだった為に「闇両替」が常識になってしまっていたという逆転の世界!
その様子が以下の旅日記に書かれている。因みにイラン・イスラム共和国の紙幣には,
ホメイニの写真を掲げて行進する人々の絵。
... 嘆息。
さて, ドグバヤジッドの街で見た, "SILK ROAD, NHK" の文字。
※ Hotel アララトのレストランのドアにたくさん貼ってあったステッカーの中に, "SILK ROAD, NHK" があった。
あの「シルクロード」です。アンコール!
また聴いてしまった ♫
さて, 1983年11月13日, 今日も今日とて 闇なく, 違った, やむなく「闇両替」。
1000リアル札には 1000トマン(10000リアル)札のような ホメイニ はなかったが, イスラミック・リパブリック・オブ・イラン とあるし, モスクの絵もあって それらしい。大丈夫だろう。
「大丈夫だろう」とはもちろん, 偽札ではないだろう, との意。実際, イランに入ってから使ってみて, 「大丈夫」だった。
旅日記 3/8 ドグバヤジッドの「町」の部分はかなり小さかった。
ドグバヤジッドは ホントに小さな町。小さな店で みんなで TV を見ている人たち。日本でならマージャンに当るであろうゲームをしてるおっさんたち。ビリヤードやるところもあります。モスクはもちろんある。アッサラーム アレイクム。ワアレイクムッサラーム。(やみドルの相手も言ってました)
カセット売りの店。相変わらず, 兵士は多く見る。軍の施設のようなのもある。
ここに登場する人間は 皆, 男。男, 男, 男 ばかり。 ... そして,
... 町を歩いてて 女と会うことは ほとんどない。たまに小さな女の子を見ても, 10代後半以上の女は ほとんど全く見ない。つまり, 女はみんな家にいるのだ。めし屋だって 男ばかり。働いてるのも 男ばかり。めし屋で, TV が西洋ポピュラーを歌う女性グループ(たぶん西洋人)を映していた。ここの人たちには どう映っているのか。
※ かなりの人に(アンカラ, ULUS のバス停でも)アフガンかと きかれた。オレ, アフガンに見えるかな? ちなみに, この町で, 日本人にかなり近い顔をしてる男を見ました。
「ちなみに」と言えば, 因みに, トルコの次のイランの次, パキスタンを旅していた時も, 地元の人間から「アフガンか」と訊かれたことが何度かあった(そもそもパキスタンには当時のソ連の軍事侵攻から逃れた難民を含めて, アフガニスタン人が結構な数いたけれど)。
最初にやみドルの声をかけてきた少年, 初め, 「マルク 持ってるか」と言ってきた。「ドル」でなく「マルク」と。これ, 西ドイツとトルコの経済関係の反映ですかね。
今や, あの頃は勿論なかった EU通貨「ユーロ」ばかり耳にして, 目にして, あの有名な通貨「マルク」は歴史の彼方にいって忘れられつつあるかもしれないけれど, 当時は ベルリンに壁があった時代, まだドイツが東西に分断されていた時代,
既に「西ドイツ」はトルコからの移民をかなり受け入れてたし(それにまつわる様々なことを含む「移民問題」も話題になっていた), 両国の経済関係は強かった。切っ掛けは何だったのかな。トルコ国内のバスもベンツ製のものが多かった。
旅日記 4/8 ここから 2ページ分(旅日記 4/8, 5/8)は, その後の旅のプラン思案メモ(プランシアンメモ, 何処の国の言葉だ? 笑; 上にも書いた! 再笑)で, 旅日記 6/8 から, また普通に ドグバヤジッド滞在記(1983年11月14日以降)に戻ります。
さて, この頁の右上部に書いてあること, つまり,
今年, パキで 女を写真にとってたアメリカ人が 1人, 問答無用で射殺されたとのこと。要注意!
という注意書きについては, 前の方の旅日記の頁にも書かれていて, 前々回の旅 note(本 note 第1章でリンクを付した note *1, イスタンブール再訪(1983年10月26日-11月8日))の第7章 余談: 旅日記にちょっとギョッとすることが書いてあった 〜 トルコの次(イラン)の次の目的地パキスタンで旅人が射殺されたという事件 でも取り上げていた。以下, そこで書いたことを再録。
「パキ」はパキスタン。まぁ残念ながら, この種のことは, 時としてある。注意に越したことはない。一般に, イスラーム圏の国で 無造作に 例えば街を歩く女性を写真に撮ったりする行為は(それは撮り方次第で他の文化圏においても非礼ではあるけれど), 極めて非礼な行為, というか彼らの価値観からしたら思い切りアウトローな行為であって, 危ない目に遭う危険性が高いのは確か。だからこの被害者の行為が軽率だった可能性は高い。しかし, だからといって被害者の責を言うだけで終わったら, それはいくらなんでも無茶苦茶だろう。一般論として言って, それぞれの文化は尊重されるべき(何故わざわざ「一般論として言って」と書いたかと言うと, 一例を挙げれば, 例えば一部のイスラーム圏の国で女性がヒジャブを被らずに外を歩いたからと逮捕したり牢獄に入れたり鞭打ちの刑にしたりするようなことを是とするような特定の国に固有の価値観は, もはや人類としての普遍的な価値観のもとで排除されるべき考え方だから)ではあるが, だからと言って殺していいはずはないだろう。そんな「報い」があっていいはずがない。
文字通り残念なことだが, パキスタンでは当時, 他にもこの種のこと(要するに要注意マークが付けられるような悪評となること)があった。これもバックパッカー仲間の間で有名な話だったけれど, ラホールの宿であるバックパッカーが部屋を出て街を散策した後, 部屋に戻ってくると, 地元のおまわりがいて, 「お前, コカインを隠し持っていただろ?」。そのバックパッカーには全く身に覚えがないことだったのだが, どうやらその "おまわり" は宿側の誰かと悪の繋がりがあったのか, 彼の部屋に忍び込んで彼がコカインを保持していたかのように仕掛けていたようで, しかしそれで即お縄, 牢屋にぶち込まれた挙句, 日本円にして(被害者はヨーロッパの何処かの国のバックパッカーだったと記憶)数十万円の持ち金を罰金として強奪されたと。たまりませんね。もちろんパキスタン全体からしたらごく一部のこと(人)であって, いい人, やさしい人, 親切な人は他の国同様にいるのだが(いたのだが), パキスタンがバックパッカーの間でそういう名高い, 悪名高い, 評判よろしくない(ところがある)国であったのは事実。少なくとも当時。
因みに, 上に引用した件は人の命を奪うというこの上なく残忍な行為であるが, パキスタン・イスラム共和国では, 近年も, イスラームの預言者ムハンマドに関連してたった一言疑問を呈した Asia Bibi という名のパキスタンでは宗教的少数派であるクリスチャンの女性が, その一件で blasphemy(宗教上の冒瀆, ぼうとく)の罪に問われて死刑宣告を受け, 何年も収監された後に減刑されて牢獄から出た後も, 今度は数千人規模の原理主義者たちが「Asia Bibi に死を」と叫びながら街をデモ行進する, などということが起きている。あの国に宗教的な(イスラームの) hard-liner, つまり強硬主義者, 極めて頑固者で石頭の強硬派, 原理主義者が今も多いのは確か。この話, 長くなったなぁ!
そんな話は, 例えばこの note にも書いてます(パキスタン一国の件ではない)。
話が, 今日の note のタイトルからだいぶ遠くに行ってしまったような。いや, そうでもないような気はする。
旅日記のこの頁は, 見ての通りで, トルコの次のイランの次のパキスタン以降の旅に関わるメモが中心(2ページ後, 旅日記 6/8 から再び ドグバヤジッド滞在記に)。
旅日記 5/8 ここからの旅日記は, 次の(別の)日記帳に移行。
この頁は, ドグバヤジッドから陸路, トルコ・イラン間の国境を越えて以降の, イランからパキスタンにかけての旅についての思案メモ(次頁, 旅日記 6/8 から再び ドグバヤジッド滞在記)。
旅日記 6/8
1983年11月14日,
ここに来て 初めて晴れ間が見え, アララト山 が ある程度 見えた。山すそのみに陽が当っているときがあった。きれいだった。
「アララト山 が ある程度 見えた」ときに撮った写真は, 本 note 前章にて掲載。あの写真の通りで(確かに「晴れ間が見え」たものの), 雲が多かったのでありました!
町を歩いていると, 洋服屋があって, そこにはごく普通の洋服を着たマネキン女性がある。そうした洋服が売っている。誰が買う? 町では子どもの他には, ほとんど全く女を見ない。もちろん 洋服を着る必要などない。しかし とにかく 女は外に出ない。外は 男の世界だ。男ばかり。いったい 女は 家で 何をしているのだろう。
こんな小さな町にも なぜか 銀行がいくつか(1つや 2つでない)あって, 外から のぞいてみると, そこには 男に混じって, 見なれたかんじの女が 1人いた。イスラム圏は 男の世界だ。他の宗教圏でも 大勢としては 今だ 女は男のうしろにあるだろうが, 程度が全然ちがうんじゃないか。たとえば, 中世のキリスト教圏も 今のイスラム圏のように, 同じ程度に, 男の世界だったとする。しかし, だとしても, それは, それだけイスラム圏の方が おくれている ということになりはしないか。
むろん その宗教の理想と現実を混同してはならない。現実に問題があるとしても, それは即 その宗教そのものの後進性の証左とはなり得ない。しかし, より大切なことが, 現実にどう反映してるか, であることも確かだろう。めし屋も かし屋も 服屋も 雑貨屋も 路上も 男ばかり。
上掲の旅日記は掲載の通りで, 更に続いてちょっとした補足があり(「イスタン」はイスタンブール, 「ダマス」はシリアの首都ダマスカス),
ここが 田舎の小さな町であるせいも あろう。アンカラ, イスタン, ダマス などは なかなか 女も外にいたね。特にアンカラ, イスタンは ごく普通だった。
そして,
何はともあれ 明日は イランへ。
旅日記 7/8
ここでまた, 「一人宗教談義」が(「談義」という言葉は 仏教用語でもあるようだけど, 笑)。ちょっと文明論混じりの「一人談義」, まぁ殴り書きメモだけど!
※ 西洋の「近代化」の原動力は キリスト教でなかった。(ここでは「近代化」というより「中世からの脱出」か) ルネサンス, 近代ヒューマニズム 等だろう。しかし, そこには 宗教改革 もあった。
もちろん
(女を外に出したのは キリスト教だ なんてことは全然ない。)
けれど。
ハッキリ言って, イスラム圏も 宗教の重みから脱する方がいいんじゃないか。イスラムが キリスト教と違う性格のものであるにしても。(「イスラームの心」は読んだけれども) 現実は厳しい。
「イスラムが キリスト教と違う性格のものである」ところからくる難しさはあるのだけれど。というのは, イスラームは 世俗世界, 平たく言えば日常生活の隅々まで宗教で縛るところがあるから(単なる一例を言えば, 日常生活の中にある細かい決まり事の多さ!), 世俗そのものが宗教化していて(何だか矛盾した語感があって, 世俗がもはや世俗でないとも言え), 結果として イスラームを信仰する人々のそれぞれ, あるいは国よりもっと小さなコミュニティの単位が 擬似「神政国家」化していて, そこから脱するのは容易でないような気がする。とにかく, 「現実は厳しい」。
*上掲の日記に書いてある「イスラームの心」とは, 黒田壽郎(1933年8月27日生まれ - 2018年5月6日他界, 日本のイスラーム学者で自身もムスリム, 国際大学中東研究所初代所長)の著書「イスラームの心」(中公新書, 1980年)。
宗教, そしてイスラームについて更に,
※ 女が 外に出ないこと, それを即 宗教に結びつけるわけにはいかないかもしれない。宗教とは別レベルの伝統とか社会慣習とかいったものもある。しかし, 何らかの関係はあるはずだし, とりわけイスラムの場合 それは密接であるように思われる。
若い頃の旅日記の殴り書きメモではあるものの, この考えの大筋は今も変わらない。
1983年11月15日,
いよいよ, 国境を越えて, イラン・イスラム共和国へ。「DM」とあるのは, 当時の西ドイツの通貨ドイツ・マルクのこと。
旅日記 8/8 ちょっと次の頁にまたがってるけれど!
前頁(旅日記 7/8)の終盤から既に, イラン・イスラム共和国 に入っている。
そのあたりでも, やみ両替の声が かかった。イラン人。チェックの役人のすぐ横で。
この辺り, 思い切り「本音と建前」「非公式と公式」が同居した領域。
マクの町で テヘラン行きのバスに乗った。
マクの町は 小さい。女はみんな 黒い布 かぶってる。ホメイニ の写真。明るいかんじ なし。
夜の砂漠, 街を走るバス。
でも「異邦人」の久保田早紀さんも, ここを通る時は ヒジャブの類を被っていないと, 通らしてくれません(笑)。
上掲の旅日記にある, 思い出し記。
※ イラン側ボーダー。(建物内には 女は布をかぶってかなくちゃならん。) 外側は, ホメイニの絵の上に「イスラム」の文字。両サイドに「ノー ウェスタン」と「ノー イースタン」の文字。ボーダー建物内も 反米ポスター(自由の女神が人間を, 頭のトゲで刺して 上に「デモクラシー」の文字)などあり。
女性が「布をかぶって」かないと通れない, なんて話はそれはそれとして, 当時のイラン, 思いっきり反米, なのであった(2021年の今のイラン・イスラム共和国の体制よりもっともっと「反米」だった, まぁイスラーム革命からまだ4年, ホメイニ爺さんも健在だったしなぁ!)。
旅日記, 最後の3行。
※ マクからのバス出発のとき, 乗客がいっせいに アラーがどうした こうした と叫んだ, ナンダアリャ?
"アッラーフ アクバル"(「神は偉大なり」)とかだったのかな。それだけじゃなかっただろうけど。
兎にも角にも兎に角が生えて(後半は例によって意味不明, 笑), おお, いよいよ, イラン・イスラム革命からたった4年後の イラン・イスラム共和国に入っていたのだ, ではでは, この続きは 次回の旅 note にて!
「ノアの方舟」御伽噺は ユダヤ教の聖書すなわちキリスト教でいうところの旧約聖書が出典, 類似の噺はイスラームのクルアーンにも 〜 アブラハムの宗教の噺なんだなぁ要するに!
本章, note リンクだけでなく少しは新たにテキスト書こうかと思っていたけれど, もう疲れてしまった(笑)。とりあえず, 適当に集めた過去 note のリンクだけ!
フィレンツェ, ヴァチカンで想起するガリレオ・ガリレイ, ヨハネ・パウロ2世 〜 シネイド・オコナー, 結局「宗教」
自然災害の犠牲者を「彼らは神を信じてないからその報いだ」と語る(一部)宗教信者の愚劣さ
3.11 と、そしてこの日に絡む 「宗教」 に関わる思い出と
クリスマスの日のイスラエル空軍によるツイートのばかばかしさと、「知の巨人」ならぬ「知の怠慢」 ユヴァル・ノア・ハラリ
クリスマスの真実 〜 イエス・キリストのこと知ってる?
無神論者が好きな クリスマス・ソング 〜 7時のニュース/きよしこの夜, ハッピー・クリスマス(戦争は終った)
宗教と表現の自由に関するメモ 〜 フランス文化・宗教学者によるフランス「斬首事件」論考の読後感想と私見
この後はもう,
宗教ってより, 音楽に宗教が絡んだ話。
クリスチャンでない者が、クワイアの一員としてブラック・ゴスペルを歌うことは可能か? 〜 前説
クリスチャンでない者が、クワイアの一員としてブラック・ゴスペルを歌うことは可能か? 〜 本篇
えーい, 最初の方の note リンクから, 話題がどんどん離れる ♫
無神論者の一家が キリスト教会で ブルーズをやった日 〜 2001年11月11日
キリない, もうこの辺にすっか .. というわけで, 音楽方面に移ってきたところで, 今日も今日とて note の締めは音楽で!
God 〜 John Lennon ♫
*一般社団法人日本音楽著作権協会(JASRAC)より「著作権を有する音楽著作物の著作権を侵害している」旨, 指摘を受けた為, 当初 私の誤認識によりここに掲載していた英語歌詞・全編を削除し, 冒頭部分のみの掲載に改めました。歌詞に関心のある方は, 公式サイト等に掲載されているものを確認してください(2022.9.1 加筆/削除/編集)。
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God is a concept by which we measure our pain
I'll say it again
God is a concept by which we measure our pain, yeah
Pain, yeah..
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貼ってあった YouTube 上の動画へのリンクももはや役に立たず(2022.9.1 加筆/編集!)