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わたしと家族と食と
今日はセンチメンタルな気分なので、「家族と食」の思い出を書いていこうと思います。
レポート並みに長くなったので、気楽に読んでいただけたら嬉しいです。
家族と食
私は山奥のど田舎で、曾祖父母、祖父母、両親、姉、弟の四世代が共存するカオスな大家庭で育ちました。人の数だけ問題があるだけでなく、みんな強烈な個性の持ち主で、常に口喧嘩が絶えませんでした。
そんな家族に平和が訪れるのは、「美味しいものがあるとき」でした。
正月やお盆などの行事が近づくと、お餅や炭酸まんじゅうを作ったり、いつもより遠くまで買い出しに行ったりして、団結している時間がとても心地よく感じました。
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曾祖父の思い出の味
曾祖父母はどちらも料理上手でしたが、特に山間部ならではの料理をよく作っていました。
山で採れた山菜やキノコ、近くの野原で採れたイナゴ、近くの小川で採れたドジョウなど、私からすると、ただの草や虫などをご馳走に変えてしまうのは魔法のようでした。
ある日、庭に2羽のニワトリがいました。(早口言葉ではないです笑)
私は新しいペットだと思って喜んでいましたが、学校から帰ってくると姿がありません。
どこにいるのかと聞くと、曾祖父が「ここだよ」と汁物を指すのです。すべてを悟った私は、「かわいそう……でも美味しい」と泣きながら汁物をすすりました。それを見て、曾祖父は微笑んでいました。(ちなみにニワトリは、曾祖父が知り合いから食用として買ってきたものでした。)
山の食べ物だけでなく、海の食べ物も好きだった曾祖父は、たまに父と一緒に遠出して隣県の魚市場に行きました。アンコウ(台所に吊るされていてトラウマになりましたが……)やイカを買ってきては、一人でさばいて調理していました。
曾祖父が、手ねぐいでほっかむりをしながら作るイカの塩辛は絶品でした。
曾祖母の思い出の味
私が7歳のとき、曾祖母は脳梗塞を患い、その後遺症で右半身に麻痺が残りました。さらに、認知症による幻聴や幻覚の影響で、日常生活や会話も困難になりました。
ある朝、出汁と醤油の香りで目覚めると、曾祖母が台所で煮物を作っていました。
虚ろだった目がそのときばかりはキラキラと輝き、料理のときはいつもそうしていたように頭に手ぬぐいを被り、右手に麻痺があるのも忘れるくらい、しっかりとした手つきで料理していました。
この曾祖母の様子に家族は皆ただただ驚き、母に至っては「これがいつものばあちゃんだよ」と言って泣いていました。
作ってくれた、ちょっと甘い煮物を噛み締めながら、平和で幸せな朝を過ごしました。
これが曾祖母が作ってくれた最後の料理でした。
曾祖父母が亡くなって20年近く経ちますが、今でも味を覚えているのは、本当に感動しながら食べていたからだと思います。
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祖母の思い出の味
私は祖母の作るカボチャの煮物が大好物でした。
祖母は私が喜ぶからと、リウマチで常に痛みを伴う手で、硬いカボチャを切っては毎日のように作ってくれました。
祖母はせっかちでおっちょこちょいだったので、よくカボチャを煮ていることを忘れ、鍋底を真っ黒に焦がしていました。そのため、「焦げくさいカボチャの煮物」が祖母の味です。
高校3年生のとき、祖母が急死しました。
おばあちゃん子だった私は、ショックのあまり、しばらく食が喉を通らない時期がありました。
そのとき、私を心配した近所の人たちが、それぞれにカボチャの煮物を作って持ってきてくれました。
おしゃべりだった祖母が生前、近所の人たちに私の好物を話していたようです。
それぞれの家庭の思いの詰まったカボチャの煮物を食べながら、心も体も少しずつ回復することができました。
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(2010年ガラケー時代に撮影)
祖父と栄養の思い出
常に「食」が中心にあった私の家族ですが、その一方で食生活が原因で健康を損なっていました。大人たちはいつも何かしらの薬を複数服用し、毎月通院していました。
高校3年生のとき、進路を考えている最中に祖母が急死し、父が糖尿病を発症しました。 「どうすれば家族を救えるのか?」と考えたことが、「栄養」に興味をもつきっかけとなりました。
3年前に亡くなった祖父は、「もったいない」が口癖でした。食べることが大好きで、本当になんでも食べました。
私が栄養学部に進むと、祖父も栄養にとても関心を持ってくれ、一緒に地元で行われた栄養セミナーに参加したこともありました。テレビをつけてもすぐに寝てしまう祖父が、楽しそうに90分の講義を聞いていた姿が、昨日のことのように思い出されます。
私と食
小学3年生のとき、「私はいつも食べ物のことばかり考えてしまいます。」といった内容の作文を書いたところ、担任の先生が「食べるのが好きなのは、生きようとする力があるからです!」と赤字でコメントしてくれました。
そういえば、大学のスローガン(?)も「食は生命なり」でした。
今では記憶の中でしか会えない家族と、その思い出の数々をこうして記録でき、ひとりで謎の達成感と幸福感に満たされています。
改めて、「食」こそが私の生きがいなのだと再確認しました。初心に戻りたいとき、この場所に戻ってくると思います。(これぞ自己満足☆)
そんな場を作ることができたnoteに感謝です。
ここまで読んでいただき、ありがとうございます。また次の記事でお会いしましょう👋