言葉を縛る
言葉は進化していくものだ。
日本で最も有名であろう辞書である岩波書店発行の「広辞苑」は十年に一度程度、改訂が行われる。2018年に発売された第七版では 「スマホ」「ツイート」「朝ドラ」など、第六版刊行後に収集した十万語の候補項目の中から厳選し、現代生活に必須とされた新語一万語を追加で収録している。
広辞苑のホームページには以下のような文章がある。
日本語の語彙と表現は、古代から現代に至るまで、日本語を使う無数の人々によって大きく豊かに育てられてきました。この日本語という沃野を耕してきたのは人々の自由な心です。言葉は、自由な発想から芽吹き、人々の手で自由に選びとられ、愛され、そして縦横に駆使されることによって、広がり、深められ、定着していきます。
さすが広辞苑を創る出版社、僕みたいなど素人ではなかなか言語化できないことが言語化されていて感服した。
「言葉は、自由な発想から芽吹き、人々の手で自由に選びとられ、愛され、そして縦横に駆使されることによって、広がり、深められ、定着していく」。
新しい言葉が創られることもあれば、使われない言葉が消えていくこともある。それは社会の変化に伴うごく自然なことだから、そのプロセスを止める、進めるといった人工的な流れを創る必要はなく、基本的に「なるようになる」べきなのである。
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「日本語の美しさ・奥ゆかしさ」を知る方法は大きく分けて2つあると思う。ひとつは沢山の日本語に触れたとき、もうひとつは他言語と比較をしたときである。
僕が経験したのは後者である。
中学一年からこつこつ勉強をし続けて、留学までさせてもらって、やっと最近「英語できるの」と聞かれたときに「まあそこそこは」と答えられるようになった。
英語を勉強すると、日本語の文章を完全に訳して自分の意思を伝えることは不可能であることが分かるようになった。
例えば、英語ではひとこと「Thank you」で片付けられるのにも関わらず、日本語では様々な言葉を場面によって使い分けなければならない。
「宜しくお願いします」なのか「すみません」なのか「御礼申し上げます」なのか「お世話になりました」なのか。場面や話す相手などによって様々な言い方がある。
だから、英語を喋る時の思考回路と日本語を喋る時の思考回路は変えなければならない。「Thank you」を一瞬の間に適切な日本語に訳すことは無理だからだ。「Thank you」は「Thank you」として受け取るべきなのだ。一部の友達から「英語だと性格変わるよね」みたいに言われるのはその理由からだろう。
こんな独特すぎる言語を、他言語と比較して多くの人は「美しい」「奥ゆかしい」と言うが、それは同時に日本語の非母語話者からしたら日本語勉強の難易度をあげる大きな要素となっている。
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日本はそんな独特の言語を有している国であるが、この形がこのまま保たれるとは思えない。
例えば、日本語の標準語は中流階層の「山の手言葉」という方言を母体として形成されたものであり、この「山の手言葉」自体も江戸の上層武家が日常用いた言葉を基盤に、明治時代に成立したものである。
それ以前、もしくはそれ以外の地域では他の方言が喋られていたわけで、例えば江戸中期までは京都で話されていた「京言葉」が日本の共通語として理解されており、事実その話者に憧れていた江戸の町民も多かったと聞いたことがある。
江戸幕府は長年鎖国政策を行い、徹底的に外国文化の流入を防ごうとしたわけであるが、それでも上記のように言葉は変わっていたのである。
このような歴史からしても、やはり今後も言葉は変わっていくのであろう。次の広辞苑の改訂時にはきっと前回同様に新しい言葉が加わって、使われなくなった言葉が消えるのである。
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しかし、それを阻害するような動きが最近目に入ってくる。
特に日常会話など、型式ばったような場面ではない時のことである。先日も読売中高生新聞に掲載された「先輩と会話する時、間違った日本語使ってませんか」的な特集を読んだ。
それによると「OKです」とか「了解しました」とかは先輩に使う言葉として正しくないらしい。
それに加えて、こんなツイートも目にした。
「取り急ぎお礼まで」という言葉、自分自身が使ったことはないが普通に使える言葉だと思っていた。しかし、このツイートをした方によるとこの表現はどうやら失礼に当たるらしい。
実際、他にも敬語の使い方や若者言葉に違和感を持つ人は多いらしい。文化庁の2019年度「国語に関する世論調査」によると「国語が乱れている」と感じている人は約66%であった。
例えば「やばい」という言葉は若者言葉の代表的なものの一つである。最近では危ない以外にも面白い、辛いなどさまざまな意味で使われているが、そのうちには本来の意味とは異なるものも多い。
僕も「やばい」「OKです」などという言葉を使うことがある。しかしながら、それを注意してくる大人もいれば、若者同様にその言葉を使う人が増えてきているのも事実である。それでも僕ら若者が使う言葉は未だに「間違った日本語」なのだろうか。
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僕は「やばい」「OKです」「取り急ぎお礼まで」といった言葉がよく使われるようになったのも「言葉の進化」の一つだと思う。
社会情勢の変化などによって新しい言葉が入ってきたり、既存の言葉が消えたり、発音や文法、意味などが変わったりすることは止めることができない。というより、止めるべきではないと思っている。これは歴史が示しているようにごく自然なことだからだ。
それに「言葉の進化」はデメリットの塊だと断定することはできない。これによって日本語の非母語話者にとって優しい言語になったり、我々が他言語を学ぶときにはそれが助けになったりもする。また、既存の言葉では説明できないような気持ちや事柄が説明できるようになったりするなど、文学的なメリットも少なからずある。
加えて「言葉の進化」を認めても美しい、奥ゆかしい日本語を日本人が失ったことにはならないことも強調したい。人それぞれが書籍や日常会話を通して好きなようにそれらを残していけばいいのである。
例えば「やばい」という言葉は大雑把すぎて人々に場面を想像させるに相応しくないから、これが「正しい日本語」として扱われるとしても書籍などでは今後も使われにくいだろう。進化が進んでも人々が美しい、必要だと思うものは誰かによって自然と残っていくのだと思う。
僕が言いたいのは、その言葉を使うか否かは個人の選択であるべきだということだ。今まで正しいとされてきた言葉遣いを使いたいと思う人はただそのまま使っていけばいいし、新しい言葉を使いたければそちらを使えばいい。
我々が気をつけるべきところは、新しい言葉も古い言葉も「失礼だ」とか「古い」などと言って言葉を縛ることなく、人それぞれの日本語を尊重することではないだろうか。さまざまな言葉が混じるのは自然な「言葉の進化」の過程であって言葉は「なるようになる」のだから。
--profile--
2003年、東京都生まれ。小学校の時に不登校を経験。都内公立高校に入学するも高校1年に中途退学。直後からカナダ・ブリティッシュコロンビア州で約2年間の高校留学に挑戦し、2021年6月末に現地高校を卒業予定。高校1年から現在まで無料塾でボランティア講師を務めている。現在、日本で国内大学への進学を目指して受験勉強中。
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