傍観と中立の差
ウクライナ情勢は悪化の一途を辿っている。
専門家ですら予想できなかったプーチンの強い決意による開戦であるが、民主主義陣営の結束によるロシアに対する過去に例をみない国際的圧力の拡大もまた予想外だったことのひとつである。
その中、国連はその機能不全が問題視されているが、国連総会や安保理での各国国連代表によるロシア、ウクライナ、国際社会、そして地球市民に訴えるスピーチが話題となっている。
うち、私は国連緊急特別会合におけるオーストリア代表の言葉が非常に印象に残っている。
今回のウクライナ事変においては、いままで軍事不拡大や中立国をうたった国々が次々に経済制裁に参加、軍備拡大などの対応をとっている。オーストリアやスイス、スウェーデンなどがその例である。
私はこのスピーチの生中継を拝見し、率直な感想として「羨ましい」と感じた。
というのも、私は何人もの "中立者" と出会ったことがある。学校でいじめを受けたときの中立者、生徒会で内部対立したときの中立者、学生団体でトラブった時の中立者。それは同年代の友達であったこともあるし、先生など大人であったこともあった。
あのとき、中立者は「いじめを受けたあなたにも非はある」「大事にしたくない」と私を説得にかかった。あのとき、中立者は一方の意見を予め聞いた上でその場に立ち、私を糾弾し、役職の辞任に追い込んだ。
中立者はいつも決まって正義であることが望ましい側に付くのである。いじめを認めたくなければ、中立を盾にしていじめを傍観するし、人の失権を望むのであれば、その人の不利になるように議事を進ませる。
しかし、先述したマーレック大使によるスピーチからすれば、いじめられている人をただ傍観することは中立とは言わない。マジョリティにただ加担するのみである。正義と現状理解、またそれに伴った行動をしてこそ、中立という立場が成立するのである。このことに関連して、以下の言葉も明記したい。
私はそんな "中立者" と接する中で多くの不満を持った。しかし、当時の私はそれに異議を唱えたりすることなく、中立者による理不尽を受け入れた。
オーストリアもスイスもスウェーデンも中立の定義を正しく理解している。先述したマーレック大使によるスピーチは明快であった。これが国家に対して言うような言葉か分からないが、それが個人間ですらできなかった私にとってそれはとても格好いいことで、羨ましいことであった。
今日、私は友達とツーリングへ行った。代々木も渋谷も新宿も桜が満開だ。私は今春大学生になる。そしてまた新たな環境下できっと理不尽を経験して悩むことになる。私もいつかそういうモヤモヤを言語化する知識と度胸を得たいなと思う今日この頃だ。
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