牛乳は砂の味
私は小さい頃から、あまり胃が強くなかった。
母親もそうらしいから、遺伝なのかもしれない。
胃が弱いだけでなく、私は偏食家で少食でもあった。
小さい頃、「残さず食べなきゃ大きくなれないよ。」と言われる時期に
父親は私に「残してもいいんだよ。」とよく言った。
私が無理をして食べて、調子を崩しやすいことを知っていたからだ。
食事自体に恐怖を感じ、食事を楽しめないことが一番良くないと父は感じていた。
そもそも、私は生まれた時から体は大きく、身長はクラスで一番後ろだった。
よく食べなくても、スクスク育つのだ。
小学校に入学し、学校は給食を残してはいけないことを知った。
残してはいけないが、あげることは自由だ。
私は食べっぷりのいい男子に、給食を毎日あげた。基本的にはご飯を半分減らし、肉中心のおかず等は半分減らした。
育ち盛りで食べることが大好きな男子は、私から給食を分けられると喜んだし
私は給食ノルマが減って喜んだ。
持ちつ持たれつだ。
時折、仲良し給食といって、1~6年生合同で班を作り、給食を食べるというイベントがあった時は心底困った。
私の小学校にはランチルームという部屋が6部屋あり、仲良し給食の際は、いつも給食をあげていた男子が別部屋に行ってしまう。
さすがに部屋をまたいで給食をあげにいくわけにはいかない。
だから私は仲良し給食の際、年下だろうが年上だろうが男子に声をかけ、食べてくれそうな人を見つけなければいけない。
そうでなければ、生き残れない。
「学校給食を残してはいけない」というルールはそういうことだ。
そんな風に男子に分けることで私は給食生活を乗り切っていたが、異変が起きたのは小学校四年生の時だ。
先に飲み物を飲むとお腹がいっぱいになり、固体物が食べきれない私は、食事中に牛乳をあまり飲まず、最後に一気飲みのような形で消費していた。
ある日、私はご飯やおかずを食べきって最後に牛乳をすすった瞬間に、違和感を感じた。
え…何これ………砂?
牛乳が古いとか、そういう味の違いではない。
実際、クラスのみんなは美味しく飲んでいたし、私も一口、二口は牛乳の味が確かにした。
私は顔をしかめながら、再び牛乳をすすった。
やっぱり変だ。
砂の味がする。
なんで。
牛乳なのに。いつもと同じように白く、にごりがないのに。
美味しくない、というより、飲めるものじゃない。
残してはいけないルールだ。
まして、周りは普通に飲んでいる。
私は誰にも何も言わず、その日は我慢して飲んだ。
ところがその日を境に、私は給食が食べられなくなった。
それ以降、牛乳が砂の味になることはなかったが
給食を1/5も食べられなくなった。
無理矢理食べる感じだ。
そして苦しくなるし、気持ち悪くなる。
今まで普通に食べられていたものが、ある日突然食べられなくなった。
どうしたら前みたいに食べられるか、私には分からなかった。
いくら私が少食で偏食家といっても、私は給食が大好きな子どもで、給食が好き過ぎる故に、将来は給食目当てで学校の先生になりたいとさえ願っていた。
多少好き嫌いがあるだけで、あくまで問題は量だったはずなのだ。
それなのに私は、給食が食べられなくなり、憂鬱になった。
成長期だ。
身長は一年に約10cm伸びた。
その給食が食べられない時期、体重はみるみる落ちていった。
皮肉なことに、私が人生で一番スタイルがよかったのがこの時期だ。
のちに親は、「あの時は相当ストレスがかかっていたんだろうね。」と言った。
「だから“学校では”食べられなくなったんだろうね。」と。
大人になった私は「当時はそう思ってなかったし、あの日に特別何もなかったけど…そうかもしれないね。」と苦笑した。
私の小学校三、四年生の時の担任の先生は、今なら体罰と呼ばれるかもしれないことを、日常的に行っていた。
①忘れ物をしたら、廊下を往復5回雑巾がけをしなければいけない。
②宿題を忘れたら床に正座をして、椅子を机代わりにしなければいけない。
③指示に従えなかったり、不適切な行動をとった人達は教室の後ろ一列、もしくは教室の前に一列に並んで正座。
連帯責任制で、グループの誰かが何かをした場合、全員が正座。
④問題行動があった場合、公開処刑。みんなの前で怒鳴る、生徒に手を上げる。
⑤体育の授業は半分が、腕立て伏せ、腹筋、校庭を走る等の筋トレ。
⑥一授業中に、テスト複数枚。
⑦一日中算数の日など、時間割を無視した授業。
⑧インフルエンザ等でクラスに欠席者がたくさんいても、各教室分の残食はクラス総数分で作られる。
その為、全員が強制的にお代わりをして、容器を空にしなければならない。
等のルールがあり、学校生活で緊張していたのは確かだ。
更に、宿題量が多かった。
私は当時習い事を週4日でしていた。
土曜日は半日授業があり、午後は習い事を二つ掛け持ちしていた。
進研ゼミもやっていた。
毎週私は日曜日に10:00~18:00まで宿題をしていた。
私は勉強が得意な方だったが、その私でさえ、こうである。
毎日休まる時間はなかった。
社会人は大変だなんて言うが、私からしたら学生の頃の方が完全な休みはなかった。
宿題が終わらなければ、正座で授業だ。
私はいつもクラスメートのその姿を見ながら、授業を受けていた。
自分で言うのもなんだが、私は内向的で真面目な生徒の一人であったと思うが
その私でさえ、見せしめのように正座をさせられたことがある。
名指しで問題児の名前が読み上げられ、先生から説教され、みんなが椅子から私達正座組を見下す。
私も姉も年上の従姉妹も、全員がその先生が担任だったことがあり、恐怖を分かち合った。
絶対に逆らってはいけない先生だということは、私は人生の先輩方から言われていたし、言われるまでもなく、身を持って知っていた。
更に私はタイミングが悪かった。
その先生は、私の担任の時に不倫をしていた。
これは推測だが、別れる別れないで揉めていて
私達は八つ当たりもされていたと思う。
不倫相手も、不倫相手のパートナーも、その夫婦に子どもがいることも、私達は知っていた。
私が人生で初めて不倫を知った時はこの時だ。
子持ち夫婦の幸せを壊すことを躊躇わない先生に、9~10歳の子ども達が、集まったところで何ができるだろう。
不倫がいけないことくらいは分かっていた。
不倫が何かを考えると、心に影がかかった。
ちょうどその時、クラスメートが自殺した。
私の人生初めての死、人生初めてのお葬式は小学生のクラスメートの死という、私にとってはショックなことだった。
当時、学生の自殺が至るところであったことと、遺書に明確な理由が書いていなかったことからうやむやにされたが
恐らく理由は、複雑な家庭環境と、いじめ、先生の恐怖、だと私は思っている。
これもあくまで推測だが、生徒が担任からまるで弱い者いじめのような扱いをされていたことで、転校生だった子がいじめのターゲットになったのだと思う。
私が給食を食べられなかったように、他の子達はストレスのはけ口として、その子を利用したのではなかろうか。
その子は先生から叩かれてもいた。
私達は何もできなかった。見ているだけしかできなかった。
これがきっかけで、私は将来スクールカウンセラーを目指すようになったし
学校の在り方に疑問を抱いたし
マスコミが嫌いになった。
学校側は先生の問題行動やいじめはなかったことにしたし
クラスメートが自殺したことで
私達は通学途中にマスコミから待ち伏せされ、追いかけられ
自宅にも電話がかかってきた。
学校でもお葬式でも容赦なく、フラッシュがたかれた。
五年生になり、担任は変わった。
それまでの担任は異動になり、新しい担任は他の学校からやってきた。
学年側も配慮したのかもしれないが、これらの動きは私からしたら、自殺者が出た厄介なクラスを、新しい担任に押しつけたような印象を受けた。
ますます学校制度に対して不信感を抱いた。
担任の先生は若く明るい先生で、五、六年生の最上級学年の時の方が、学校生活は伸び伸びした。
そのせいもあってか、五年生になり、私は給食を再び食べられるようになった。
給食を元のように食べられるようになるまで半年以上かかった。
体重は夏休み中に5kg太り、今までの遅れを取り戻すかのように、家では食欲が凄まじかった。
痩せていた私はなんだったのかと思うくらい、あっという間に太い体になっていった。
中学校からは給食を残してもよいことになり、心底私はホッとした。
次に異変が起きたのは、大学一年生の春休みだ。
私は食欲が止まらず、日に日に体重が増え、人生で一番体重があったのがこの時だ。
顔がパンパンでまん丸、体もドッシリしていた。
うわぁ…なんでこんなに太っちゃったかな…
でもご飯美味しいんだよな……
と、呑気に構えていた私が、またもある日いきなり、ご飯が食べられなくなった。
小学生の時は給食が普通に食べられるようになった次の月に暴食気味だったが、今回は暴食気味の次の月にこの異変が始まった。
湯豆腐、もやし炒め、ミカンゼリー。
これしか私は食べる気が起きなかった。
ちょうど学校が休みの期間だったので、これらをローテーションにして、ちょこちょこ食べた。
体重がピークの次の月、私は一ヶ月で体重が6kg減った。
念の為、いくつかの病院に行き、胃カメラもやったが、身体的な異常は見当たらなかった。
「ストレスじゃないでしょうか?」と医者は告げた。
検査して異常がなければ、大抵原因はストレスにされる。
小学校四年生の時と同じように、食べられなくなった日に何かがあったわけではない。
私は蚤の心臓だ。
例えば試験の日とか遠足の日等いつもとは違う動きがある日、食欲が沸かないことはよくあった。
緊張や興奮からだ。
でもそれは一時的なことで、それらが終わりさえすれば食欲は自然にその日のうちに、または次の日には戻る。
食べられない理由も明確だ。
だが、小学校四年生の時と大学一年生の時は、直前に大きな事件も何もなく、突如として起きた。
十年に一度の周期で来るなぁ、私の体は。
二回目なので、私も多少は余裕があった。
あの時は半年で治ったし、まぁそのうち治るだろう。
ちょうど太っていたし、痩せていいや、くらいに最初は軽く考えていた。
もし、医者の見立て通りにストレスだとしたら、私は思い当たる節があった。
大切な人を一年前に私は失っていたのだ。
おそらく、悲しみを乗り越えようと前向きに頑張ってはいたが、「もうどうしようもないんだな。戻らないんだ。」と心身が実感したのだろう。
記念日反応、というらしい。
何年前であろうと、何年経っても
自分にとって衝撃的な何かが起きた場合
それはトラウマとなり
意識的だろうと無意識的だろうと
その日や時期が近づくと、体は反応するようになっているらしい。
もしそうだとしたら、もうどうしようもなかった。
摂食障害といったら、拒食症、過食症、または複合型のイメージが強かったが
皮肉にも、臨床心理学を専攻していたことで
私は講義で摂食障害についてより詳しく学ぶことになる。
どうやら私も摂食障害の一種に含まれるらしい。
外食恐怖症
というものがあることを知ったのはこの時だ。
小学校四年生の時と今回は、だいぶ勝手が違かった。
春休みが終わり、学校が始まってからも、私は上手くご飯が食べられない日々が続いた。
嘔吐はしないが、食事は義務感があり、決められたものしか食べられない。
大学の時の私は、こんな症状が見られた。
①朝、昼、晩なら、一番昼食が食べられない。
②家族の手料理や既製品のパンやお菓子なら、比較的食べられる。特に18:00以降。
③食欲があり、お腹が空いていても、外食が食べられない。
④外食が恐い。
楽しみにしていても、いざ食べ物を注文すると、動悸が激しくなり、一口食べただけで胃もたれを感じ、思ったほど食べられない。
⑤家族や親友と一緒なら、外食を食べられる。
ただし、以前ほどは食べられないし、時折、気持ち悪くなる。
⑥一人での食事が一番量が食べられる。
⑦誰かとの食事が恐い。
特に複数人との食事や緊張を伴う人(初対面、飲み会、好きな人)との食事は、気持ち悪くなりやすい。
学校が始まってから、少しずつ、母親のお弁当や夕飯なら食べられるようになってきたが
今回は半年で治る、という単純さではなかった。
とにかく、吐き気と動悸が激しい。
何かを食べてしまうと嘔吐したり、体調不良になるのではないかという恐怖心が常にあり
誰かといる時は食べず、誰かと別れてから菓子パンを貪り食う
ということが続いた。
自宅から大学までが遠かった為、大学付近で体調不良になることをとても恐れていた。
家族と親友以外との食事は戦いだった。
大学生だ。
食事会や飲み会、集まりはたくさんある。
一年生の時は一気飲み常習犯で、飲み会大好きだったのに
私は毎回、食事のたびに緊張した。
今日はまだ食べられた、今日はあまり食べられなかった、今日は吐かなかった、周りからは変な目で見られているだろうな
そんな思いがつきまとった。
大学二年生の夏休みに、家族と台湾旅行に行く予定だった。
家族との食事なら比較的食べられたし、きっと夏までには戻る、と期待していた。
だが、現実は逆だった。
夏休みに入ると、自宅だろうが家族と一緒だろうが、吐き気が止まらなくなった。
動悸が激しい。
初めての海外旅行で楽しさと緊張を同時に感じた故…
というわけでもなさそうだった。
やむなく、キャンセル料が派生する前に私だけキャンセルしたが
毎日毎日具合が悪かった。
成人式の前撮りを夏休みにやったが、それもひどいものだった。
私は撮影場所で真っ青になり、メイクも撮影もしている場合ではなく、しばらく横にならざるを得ない状態だった。
動悸息切れが止まらない。
周りに迷惑をかけているのが申し訳なくて、勝手に目から涙がポロポロこぼれた。
大学生活は大人の青春のはずだった。
バイトをして、サークル活動をして、飲み会をして、旅行やライブに行って
楽しく遊びまくるはずだった。
だけど私はこんな調子だったので、社会人の時よりも学生の時の方が地味に過ごした。
とは言っても
大学一年生の春休み、大学二年生の夏休みが特別ひどかっただけで、食事にさえ気をつければ
外出はできたし、遊びにも行けた。
とにかく胃に負担のかかるものや食べ慣れないものは食べない。
残してもいい、無理はしない、と自分に強く言い聞かせた。
大学も休まずに通っていたし、バイトやサークル活動もしていた。
友だちとも遊んだし、国内旅行なら行けた。
無事大学を留年することなく、卒業もできた。
私の外食恐怖症が治ったのは、23歳の時だった。
段々と症状は緩和したものの、まだまだ波はあった。
外食や他者との食事に恐怖を感じないように回復するまでに、実に四年もかかった。
私の外食恐怖症を治したのは、彼氏だった。
その人は食べることが大好きで、実に美味しそうにご飯を食べた。好き嫌いはなかった。
私が外食時に上手く食べられなくても
「それしか食べないの?」
「もう食べないの?」
「また具合悪いの?」
「残したら勿体ないよ。」
「食べられないなら、最初から言ってよ(頼まなきゃいいじゃん)。」
そういった台詞を一切言わなかったし、顔にも全く出さなかった。
私が普通と違うことを責めたり、変な目で見ず、「普通の人」として接してくれた。
「俺、ともかの食べていい?」
彼は目をキラキラさせて、私の残食を全て平らげた。
私の目の前に置かれた、きれいなお皿。
傍目には私がきちんとご飯を食べているように見えるだろう。
いつもいつも、ご飯を残してしまうことが申し訳なかった。
いつもいつも、ご飯を食べられないことが申し訳なかった。
だけど彼は気を遣うわけでもなく、「ただ食べたいから」私の残食を食べた。
「俺のも、好きなだけ食べていいよ~。残った分は俺が食べるから任せて。」
彼はそうも言った。
彼は本当に、食事が好きだった。
気持ちの良いくらい嬉しそうに楽しそうに食べた。
こんな出来損ないの、ご飯さえまともに食べられない彼女なのに
「ともかと一緒のご飯はいつもより美味しいなぁ。いつも楽しいなぁ。」
と、おおらかに口にしてくれた。
その笑顔が嬉しくて、思わず涙ぐんでしまう。
言われてから気づいたが、私は多分誰かにずっとそう言ってほしかったんだ、そういう風に接して欲しかったんだ、と思った。
通常の少食の時は「残していいよ。」でよかったのだろうが
この外食恐怖症の時は、普通でいられないことに自信をかなり失っていた。
だから私は「俺が食べていい?」「残した分は俺が食べるね。」と言ってほしかったんだと
その時ハッとしたのだ。
彼は出会った時に、医大生だった。
多分安心したのは、それが要因でもあった。
私は貧血や偏頭痛等体調を崩しやすかったが、嫌な顔一つせず、いつも親身になってくれた。
的確な処置をしてくれた。
仮にご飯を食べて気持ち悪くなっても、彼なら大丈夫、彼といる時は大丈夫と
私は安心し、信頼していた。
私は回数を重ねるうちに、家族や親友だけでなく、彼との外食も普通に食べられ、それどころか外食が楽しみになった。
自宅でも一緒にご飯を食べたが、デートの時に色んなお店に行き、色々なものを食べた。
元に戻ったのだ。
それがきっかけで、他の人とも今までのように食べられるようになった。
彼は私を治す気で言ったり、行動したわけではないだろうが
私は彼に感謝している。
食事の楽しさを改めて教えてくれたのは
間違いなく、彼だった。
私が社会人として福祉施設で働いていた時のことだ。
外食恐怖症が治ってから、もう何年も経っていた。
ある日突然、担当利用者の嘔吐が始まった。
それまでも時折吐いてしまうことはあったが
そういったレベルではなく
とにかく食べる物は全て戻してしまった。
体重は増加傾向にあり、標準よりやや体重は上だった。
家庭からの要望で施設では運動を強化したり、食事に気をつけてはいたが
そんな日々が懐かしく思うほど
急激に痩せていった。
食べることが好きな方だったが、食べることに警戒するようになっていった。
複数の病院にかかって検査をしても、ハッキリとした原因は分からず
処方された薬は効果がなかったり、副作用で別の苦しみがあった。
その姿は、かつての私と同じだった。
私は自分を重ねた。
嘔吐が始まる日に何かがあったわけではなくて、食あたりとかでもなくて
自分でも訳が分からなくて
今まで当たり前のようにできたことができなくなって
楽しかったはずの食事が怖くなって。
あぁ……と思った。
背中をさすりながら、過去の私の背中をさすっているような気分になった。
その利用者の方がもしストレスからだとしたら
思い当たる節が一つあった。
大切な人を一年前に亡くしていた。
…何もかもが私と同じだと思った。
私は嘔吐はほとんどなかったけど、一日の内何時間も気持ち悪い思いをして過ごしていたのは同じだ。
私の小学校と大学の時の経験を活かす時が
今こそ来たのだと思った。
この日の為だったのだ、と。
病院には病院の役割が
家族には家族の役割が
そして職員には職員の役割がある。
それぞれにできることがある。
彼がかつてしてくれたように、今度は私の番だ。
私は職員として利用者の心の支えになろう。
大丈夫。
嘔吐は普通ではないけど、例え嘔吐をしていても、あなたはあくまで普通の人、だ。
少し繊細なだけで、今まで何かに耐えて頑張ってきただけの
あなたは普通の人だ。
その利用者の方はまだ完治はしていないし、食事に制限はあるが、嘔吐の回数は減った。
食事がまた前のように摂れることが嬉しそうだった。
もちろん警戒は0にはならない。
一度体験した者は完全に元には戻れない。
それでも今日、ご飯が美味しく食べられる喜びや奇跡を、私達は日々噛みしめていた。
今日もご飯が食べられる。
ご飯が美味しく感じる。
そばには誰かがいる。
その食事の時間が楽しくて、笑い声や笑顔に溢れている。
それは決して当たり前じゃない。
それはとても幸せなことなんだ。
今日の朝ごはんが美味しかった。
それだけでもう、今日はいい一日だ。