見出し画像

みんな大好き100円ショップ 幻の高島屋100円ショップ?


平成3年(1991)

日本の小売業界に多大な影響を与える店が誕生しました。

それが100円ショップのダイソーです。

今の人たちはほとんど知らないと思いますが、昔の100円ショップというのは、デパート、スーパーなど期間限定で催事販売するもので、品ぞろえも質流れ品や仕入れ先が叩き売った処分品などで、あんまりパッとしない物でした。

その100円ショップをダイソー創業者の矢野博丈氏が大量生産、大量仕入れで品質の向上させ、豊富な種類の商品を安定供給を実現させ、100円ショップ常設販売を可能にしたのでした。

そしてダイソーの成功により、同業他社が

「後に続けて」

と次々に参入し、今や100円ショップは私たちの生活になくてはならない存在になったのでした

今や、石を投げれば100円ショップにあたる状態といってもいいくらい100円ショップがあちこちにありますが、

そんな感覚で旅行とかに行って、何かを忘れたり、必要になった時

「100円ショップで買えばいいや」

なんて思ったりすると、結構痛い目にあったりするので気をつけてくださいませ。

さて、そんな便利な100円ショップ、実は江戸時代後期にも似たような店が誕生していました。

「四文屋」「十九文店」という店で

「四文屋」は惣菜や腹の足しになるものを販売し

「十九文店」は櫛、笄、三ツ櫛、其外女子小道具品販売していました。

これが、結構、流行っていたようで品物などをクオリティなどをアップした「三十八文店」も登場しました。

こうして見ると人というものは、昔も今もそんなに変わらないものなのかもはれないですね。

そして、なんと戦前にも現在のの100円ショップの様な均一価格ショップが存在し、チェーン展開していたのでした!

ショップの名前は「十銭、二十銭ストア」

そして、事業展開していたのは、あのデパートの老舗・高島屋だったのです。

第一次世界大戦直後

従来の百貨店事業とは別に、均一料金チェーン店を新しい事業に取り入れよう研究、準備をしていた高島屋は、大正9年(1920年)から大正15年にかけて同社幹部を欧米に商業事業視察に出させ、チェーンストアの情報を収集しました。

そして、昭和元年(1926)に、まず大阪・長堀店の5階に

「なんでも十銭均一売場」

を開設させ、翌年に同店の2階に10銭から3円まで9種の売場を設置しました。

この間にも、東京、京都の両店にも同様の均一売り場を常設しました。

その後、昭和4年(1930)12月に、あらたにオープンした高島屋の旗艦店である大阪難波・南海店の一階正面に消費者の反応を見るための実験店舗として十銭ストアを開設しまし、大好評を博しました。

この実験の結果を得て、1931年から「高島屋十銭ストア」の名称でチェーン展開を開始。

1932年5月に20銭商品も加えて「高島屋十銭二十銭」と改称して同年8月から翌年の7月まで、僅か一年の間に

51店(大阪支店所属店20店、東京支店所属店24店、京都支店所属店7店)、

サラリーマン層や工場労働者、その家族を主な客層とする新興の商店街を中心に開店させました。

この「十銭、二十銭ストア」の顧客は中流以下の大衆層で、「大量生産できる標準的な商品」「回転の早い商品」を中心に日用衣類、化粧品から缶詰などの食料品にまで及び、昭和10年(1935)の取扱商品目は10銭の商品は約1500種、20銭の商が約1000種もありました。

商品の多様さとか、今の百円ショップと変わりませんね。

そんな高島屋の「十銭、二十銭ストア」ですが、当時、中小商店街の反百貨店活動を背景に、1932年8月に日本百貨店協会が支店・分店新設の自粛などを内容とする「自制声明」を発表すると、「十銭、二十銭ストア」の新規オープンを中止せざるえなくなりました。

そして、昭和12年に施行された「百貨店法」による百貨店の営業や拡張に対する規制が強化されると、高島屋は、同法を回避するために、昭和13年(1938年)3月、株式会社丸高均一店を新設し百貨店から独立した事業にしました。

この新体制化で、高島屋は再び新設=チェーン展開を再開し、昭和16年(1941)8月までに55店開設し、1932年までに開設した店舗とあわせて106店になりました。

しかし、毎度おなじみに大東亜戦争が始まると、配給統制の強化により均一価格での販売が困難になってしまい、1942年4月に社名から「均一」を削除して「株式会社丸高」という名前で生活必需品の供給機関へと転換したのですが、その後、応召、徴兵により従業員の激変、空襲、強制疎開によって店舗の大多数が消滅し、戦後に残っていたのは、野田阪神、足利、高崎など、わずか18店舗のみとなってしまうのでした

そして戦後、丸高は高島屋のスーパー部門として再建するも、均一料金ショップ事業から撤退しスーパー部門も平成5年に売却されたのでした。

戦前の日本では、小売店販売が主で、現在のスーパーのようなチェーン展開されている店はほとんどありませんでした。

そんな中で、現在のスーパー、コンビニのようなチェーン展開、しかも均一価格ショップで、高島屋が大規模なチェーン展開していたというのには驚きでした。

もしも戦争がなかったら、高島屋の均一ショップが全国制覇して、スーパー、コンビニなどのチェーンショップの未来も変わっていたかもしれないですね。

色々な事を知るにつれ、あの戦争は日本にとって何のメリットもなかったものだと思います。

そして、あの戦争を始めたのを全て一因は、マスコミに煽られた国民にも責任の一端があるということを忘れはいけないと思います。


参考資料・サイト

戦前期日本におけるチェーンストアの 初期的発展と限界
http://koara.lib.keio.ac.jp/xoonips/modules/xoonips/download.php?file_id=16059

芸の不思議、人の不思議
http://blog.livedoor.jp/a30a988/archives/52252898.html


いいなと思ったら応援しよう!

この記事が参加している募集