関東大震災の奇跡
大正12年(1923年)9月1日 午前11時58分44秒。
夏の終わりの蒸し暑いこの日、帝都・東京をマグニチュード7・9の巨大地震が襲いました。
のちに関東大震災と呼ばれる、この巨大地震によって多くの家屋が倒壊。
時は折りしも昼食時。
多くの飲食店、家庭で昼食の準備のために火を使っていたため、それが火種となり、いたる所で火災が発生。
それが、やがて大火事となり、帝都を2日2晩にわた燃やし続けた結果、人口密集地の下町を中心に市中の半分が焦土と化しました。
この関東大震災と、その後の大火災によって
死者・行方不明者14万2800人
全壊家屋 12万8千棟
被害総額は、当時の国家予算1年4ヶ月分に相当する未曾有の大災害となりました。
真っ赤に塗りつぶされた、当時の焼失図を見ても火災がいかに凄まじいものであったのかが見て取れます。
http://www.hakkou-s.co.jp/chizutokyo/tokyo_48.html
そして、この真っ赤な中に点在する白い部分が火災から免れた地区で、その数は僅か、
草観音境内、石川島、佃島、神田区和泉町 佐久間町一帯
の4箇所のみ
この4箇所の中で、ひときわ大きな白い地帯が神田区和泉町、佐久間町一帯で、なんと1630戸が火災から免れました。
あの大火災から、これだけ多くの家が火災から免れたことを当時の人々は
「関東大震災の奇跡」
と呼び賞賛しました。
関東大震災から数時間後。
最初に火が起きたのは、和泉町の三ツ輪研究所でした。
この三ツ輪研究所の火災は、隣接する内務省衛生試験所等にも移りましたが、水道の水が断たれていなかったので住民たちはバケツ注水でこれを消しとめました。
しかし、今度は、本石町方面から、神田川を隔てた地区と東龍閑町、豊島町一帯を西から東に焼き払った火が、午後4時頃に佐久間町に迫ってきました。
神田川の南側、日本橋方面は黒煙が天を覆いつくし、太陽も陰り、あたりは暗く、犬や鶏も逃げまどうほどだったそうです。
この時、一ツ橋方面を管轄する消防署の九段隊は富士見町6丁目の日本歯科医学専門学校の火災に、
神田区和泉町、佐久間町の近くにある、万世橋隊は日本橋区本町方面の大火流との戦いに全力を挙げていました。
また、隣接署の第3、第4消防署の各隊は、すべてそれぞれ神田区の外で悪戦苦闘の消防活動を行っており、神田区の火災に対して出場できる隊はありませんでした。
「このままでは町は燃えてしまう」
この危機を前にして、住民達は逃げずに、自分の町を守るために戦う決意をしたのでした。
「水を運べ!」
火を消すために、大人も子供もみな、バケツを持って神田川河岸の米の荷揚げ場に走り、神田川から水を汲み上げるとバケツリレーで水を運び、炎にさらされている家や学校の屋根に上り水をかけ消火活動にはげみました。
また、バケツリレーによる水かけ以外にも、濡れ布団や濡れむしろで叩き消したり、豆腐を投げつける、箒を濡らして掃き消す、窓を閉め飛び火を防ぐなど、ありとあらゆる方法で消火につとめました。
佐久間町の消火に努める一方で、別の隊は神田川を越えて柳原電車通りに防火線をしき、道路の南側で火流を阻止することに成功。
こうして、佐久間町を火災から守り抜くことができました。
この佐久間町を火災から守り抜いたことは、町民に勇気と自信を与えました。
しかし、まだ業火が周囲の町々を焼き尽くし続けています。
午後11時頃、今度は西方、秋葉原方面から猛火が迫り、佐久間町一丁目の一部を焼き、秋葉原駅構内をなめつくして和泉橋の袂まで燃えてしまいました。
このままでは、平河町が燃えてしまいます。
住民達、そして近くから逃げてきた人たちも、力を合わせ、怯むことも諦める事もなく消火活動にあたり2日の午前零時ごろに火を消し止めました。
だが、休む間もなく、朝の5時頃、今度は浅草左衛門町、向柳原方面から延焼してきた火が美倉橋通東側に迫ってきました。
この時も火が移らないように家屋を壊すなどして、火を消し止める事ができました。
昨日の夕方から、この時の消火まで20時間近くが過ぎていました。
不眠不休で消火活動にあたった人々は疲労困憊し、足腰が立たず座り込み人も少なくありませんでした。
しかし、休む間もなく、今度は浅草方面から東と西にかけ神田和泉町に火が迫ってきました。
神田佐久間町の人たちの応援を得て防火に努めていましたが、火は勢いは衰えを見せずに迫り、町と道路一つ隔てた印刷会社は焼け落ち、芝居小屋の市村座にも火が燃え移りました。
この時、和泉町に住む持田喜太郎という人が、近くにある帝国ポンプ会社に目黒消防署に納入する予定のガソリンポンプ車があることを思い出し借りる事を提案、
会社の快諾を得て借りたポンプ車を水道局和泉町に運び、浄水プールの水を水源にして100m近いポンプを2本延ばし放水し、ついに消火に成功しました。
だが、これで終わりではなく午後になると、今度は北の方の下谷区の方から火が迫ってきました。
この火を消し止めれば町は救われる
人々は最後の力を振り絞り消火にあたりました。
迫る炎を前に、ポンプ車を先頭に、後ろに人々が二列に並び、数百人の人々が7個の井戸から汲み上げた水を手送りしてポンプ車に供給し続けました。
また、他の人たちは手分けして、火の移りやすい看板を外したり、家々の窓を閉めて回り火が移らないようにしていきました。
年寄りも、幼い子も誰もが必死に働き続け、3日目の朝方に火をようやく消し止めることができました。
36時間に激闘の末、人々はついに町を守りきったのでした。
朝日の中に照らし出される以前と変わらない町の姿を見た瞬間、皆は抱き合ってうれし泣きし、多くの者は疲れと感激で立ち上がれなかったそうです。
人々が守った1630戸
正確にいうと神田佐久間町二丁目から四丁目、神田和泉町、神田平河町の全部と松永町の一部
人々が火を防いだおかげで、無事だった神田河岸にある神田倉庫の米1万3千表は震災後の復興に大いに役立ったのでした。
神田須田町一帯を火災から防げたのは、周りに耐火構造建物があったことや、焼けた煉瓦造りの建物が防火壁の役目を果たしたこと、神田川の水が利用できたことなどの防火に助けになる好条件があったことも要因でした。
しかし、最大の要因は、町の人々が力をあわせ消火活動を行ったからです。
関東大震災の奇跡
それは、町の人たち自らが掴み取った奇跡だったのでした。
昭和14年(1939年)1月、東京府は、この一帯を「町内協力防火守護之地(ちょうないきょうりょくぼうかしゅごのち)」としました。
その記念碑は現在の和泉小学校内にあります。
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参考資料・サイト
関東大震災のちょっといい話
神田佐久間町「防火守護の地」/町を守り抜いた人々https://www.bo-sai.co.jp/kantodaisinsaikiseki2.html
嵐の中の灯台
小柳陽太郎・石井公一郎・監修 明成社・刊
伝えたいふるさとの100話
http://www.chiiki-dukuri-hyakka.or.jp/1_all/jirei/100furusato/html/furusato027.htm
日本地震情報研究会
http://homepage2.nifty.com/quake/map-izumicyou.html
消防と医療
http://www.bousai.go.jp/jishin/chubou/kyoukun/rep/1923-kantoDAISHINSAI_2/4_chap1-1.pdf
八紘測量開発株式会社HP
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