見出し画像

リーツェンの桜2・黒マントの赤ひげ

こちらの続きです。

リーツェンの桜2・黒マントの赤ひげ


1945年(昭和二十年)3月18日

日本大使館の職員や在留邦人たちと共にベルリンを脱出しなかった肥沼信次。彼はベルリンで知り合ったと思われる、ドイツ軍人の夫を戦場で亡くしたシュナイダー夫人と、その娘クリステルと共に、彼女の妹が暮らす北方の都市エーデスバレデに逃れました。

肥沼が脱出した後、5月7日、ヒトラーが自殺し、後を継いだカール・デーニッツ提督が無条件降伏し、ヨーロッパでの戦いは終了しました。

肥沼たちが逃れていったエーデスバレデは、ソ連軍が侵攻していた街で、そこで彼が何をしていたのかは不明ですが、ここでソ連軍地区司令部のシュバリング司令官にリーツェンに来るように命じられ、リーツェンに行き、自宅に診察室を設け診療活動を始めました。

そして、9月。

彼はリーツェンに開設された伝染病医療センターの室長に任命されました。

当時、人口5000人ほどの街だったリーツェン。

そこにソ連軍地区司令部の基地ができ、人口は数倍に膨れ上がり、さらに夥しい数の病人や負傷者が押し寄せており、衛生状況は最悪で、様々な伝染病が蔓延し、まさに伝染病のデパート状態でした。

その中でも特に発疹チフスが猛威を振るっていました。

発疹チフスとは、日本では法定伝染病に指定されている病気の一つで、衣虱(ころもじらみ)によって伝染し、重症者は死に至ることもある病気です。ペスト、マラリアと共に、人類史に重大な影響をもたらした三大昆虫媒介病の一つでもあります。

当時、リーツェンにはドイツ人医師が全て戦争に駆り出され、1人も残っていませんでした。

そこで、肥沼がベルリン大学医学部の研究者であることを知っていたシュバリング司令官が、彼をリーツェンに呼び、責任者にしたのでした。

センターの医師は肥沼1人、赤十字社から派遣された助手1人、7人の看護婦と3人の調理職員という構成でした。

少ない人員、そして薬や治療器具、食料が圧倒的に不足する中で、肥沼は三大昆虫媒介病の一つ、発疹チフスとの戦いに挑んだのでした。

センターには次々と患者が押し寄せ、ベッドは常に足りない状況で、患者は床に横たわるしかなく、室内は入院患者と通院患者であふれかえり、足の踏み場もない修羅場でした。

そんな中、肥沼は職員に仕事内容を具体的かつ丁寧に説明、教育し、伝染病の症状やその重篤さ、衛生対策、患者への接し方について指導しながら、医療活動に励みました。

彼はセンターでの入院患者の治療だけでなく、週に2回、外来患者の診療を行い、さらに医師もおらず困窮を極めていた隣接する村々へも往診に出かけていました。

リーツェンから5キロほど離れた小さな村に開設された緊急避難民収容所にも、幾度か治療に赴きました。

この収容所は、大半の者が発疹チフス、マラリア、赤痢にかかっており、大人でも足がすくむ地獄のような惨状だったそうです。

その惨状を目にして恐怖で足がすくみ、収容所に入ることができなかった当時17歳で同行した看護婦のヨハンナ・フィードラーさんは、次のように語っています。

「肥沼先生はまるで兵士のように収容所内に入っていき、身の危険も全く顧みず、最も病状のひどい患者のところに行って、持ってきた貴重な薬をせっせと与えるんです。

そして、次々と患者を診て回るんです。こんな無私無欲の行いを目にして、気が遠くなるような感動に打たれました。」

また、肥沼は、診療以外にも薬や医療器具を調達するために、ベルリンやポーツマスをはじめ、バルト海方面の遠く離れたところまで、汽車、あるいは自分で馬車を操り出かけていきました。

出かける時は、いつも黒マントを身に纏っていたそうです。

治療中、患者一人ひとりに優しい言葉と励ましの声をかけ続け、治療の効果が出て患者が回復するたびに、

「また一つの生命が救われた。よかった」

と、つぶやいていた肥沼は、決して診療代のことを口にしませんでした。

朝から晩までセンターに寝泊まりして戦い続けた肥沼の唯一の安らぎの時間は、センターから歩いて10分の所にある自宅での朝・昼・晩の食事の時だけでした。

一人で何役もこなし、不眠不休で治療活動を続けた肥沼でしたが、1946年の2月頃、ついに自身も発疹チフスにかかってしまいました。

しかし、肥沼はその様子を微塵にも見せることなく、治療活動、薬や医療器具の調達を続けながら、センターの職員を激励し、患者に暖かな声をかけ続けました。

しかし、3月2日、ついに肥沼は自宅で寝込み、入院。

1946年(昭和二十一年)3月8日、シュナイダー夫人やセンターの職員たちに見守られながら還らぬ人となりました。

37歳5ヶ月の短い生涯でした。

彼は生前、望郷の念が募っていたのでしょう。周囲の人々に、

「日本に帰りたい。日本の桜は美しい。桜祭りは素晴らしい。日本の山、日本の川、日本の森を見せてあげたい」

と語り、シュナイダー母子にもこう言っていたそうです。

「一緒に日本へ行こう」

と…。

しかし、彼の願いは叶えられることはありませんでした。

亡くなった日は、小雨の降る肌寒い日だったそうです。

シュナイダー夫人は、肥沼の遺体を埋葬し、墓を建て、彼のアパートの遺品を整理・処分した後、娘を連れ妹の住むエーデスバレデに戻りました。

それから数年後、シュナイダー夫人の妹も亡くなり、夫人もエーデスバレデからいずこかへと引っ越し、それ以後、彼女の消息は分からなくなりました。

そして、1961年(昭和三十六年)8月13日。

東西ドイツを分断するベルリンの壁が登場し、冷戦時代に突入。

シュナイダー夫人もいなくなり、リーツェンの人々は肥沼信次のことを、

「リーツェンを救った日本人」

という以外の事を知る術を失い、日本に住む肥沼の親族や大学時代の友人たちも彼の消息を知ることはできなくなったのでした。

=)つづきます


参考資料・サイト

『大戦秘史・リーツェンの桜』館澤貢次著 ぱる出版

この記事が参加している募集

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?