#87 本と映画とドラマと、そして愛

 私はふだん小説を読んだり映画やドラマを観ている際に、日常的に気になった文章についてメモをしているのですが、愛について考えるようになったからか、気が付くと愛にまつわる言葉が散らばっていて、せっかくなので今回深堀をしていきます。改めて、「愛」は文学においてもひとつのテーマになっているのだなと考えさせられましたし、何かそこには作り手の人たちが考える愛についての根幹があるのではないかと思ってしまうんです。

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均一に重苦しい空のずっと向こうの、途方もないところから降りてきて地面にひたすら吸い込まれていく無数の水の線が、まるで真っ直ぐな少女のひたむきなな愛みたいだとか思う。

『Schoolgirl』九段理江 p.11

 確か1ヶ月前くらいに読んだ本なのですが、本作品は親と娘の絶妙な距離感を描いた作品となっています。あくまでひとつの文章を切り取ったのでその前後の文脈は全く読み取れなくなっていますが、私はこの重さとは正反対の心が弾んで胸の奥がツンと痛むような、そんなひたすらピュアな愛が愛おしくて仕方ないんです。

 愛って、水に似ていると思うんですよね。柔らかさだとか、透明な感じだとか、それから流れていく感じだとか。きちんと掬い取って、その存在を確かめないと不確かなもののようにも思えてくるんです。

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そのうちに僕は「存在」を愛するようになり、これを神と呼んだのです。ここに生きることの真実があると知らされました。

『ここから世界がはじまる』Truman Caporte p.135

 私の好きな作家の一人である、トルーマン・カポーティ。これはまた別の記事でも触れたいと思うのですが、神様と愛ってとても密接な関係性があると思うんですよね。尊いもので、触れるのも躊躇するもの。でも、そっとそばにいてほしい存在。自らを感じて欲しくて、必死に祈り、願う。そしてその祈りはとても美しくて、時々息がすごく、すごく詰まりそうになる。

 たぶん、愛とは崇高でいてそれでありながら身近にも感じることができるものだと思うんです。時に心が荒ぶと見えにくくなるものですが、でもそんな時でも最後人の心を救い出してくれる存在であってほしい。そんな願いも、時には思わずにいられません。

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愛は縋りつくものなの? 何かをするとかじゃ無いのよ。
元々相手に見返り求めるものじゃ無いし。
どのみち愛なんて逃げ道なんだから。

『ちょっと思い出しただけ』

 松居⼤悟監督の『ちょっと思い出しただけ』という映画にて出てくるこちらのセリフ。Amazon Primeで配信された時に見たのですが、なんとも言えない気だるい雰囲気、私はダンサーとして生きていた照夫の役柄がとても好きで、それからクリープハイプの音楽とも重なってまた見たいと思えた映画なのです。

 愛はもしかすると、その言葉があることによって救われるものでもあるし、時には苦しめるものなのかもしれないなぁと思うんです。そうなんです、人間関係をできるだけ長く持続させるための祈りと呪いを兼ね備えた便利な言葉のように思うのです。

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誰かが誰かのために走っている
私たちが思ってるより世界は愛に満ちてるのかも

『すいか』

 私が好きな脚本家の方は何人かいらっしゃるのですが、その中でも特に好きなのが木皿泉さん。実は夫婦で脚本を書かれているんですね。すいかの他にも『野ブタ。をプロデュース』などが代表作です。このすいかは特別なドラマがあるわけじゃないんですけど、妙に記憶に残りました。きっと、愛は生きている中で至る所に存在しているのかもしれません。

 日常のなんてことない時間の中でも、至る所にふわふわと愛が漂っていて、もちろんそんなものないと一蹴することもできるかもしれないけれど、いやたぶん、あると思って生きていた方が人生楽しい気がします。

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憎んでいるということは、愛してもいるということだ。

『プラナリア』山本文緒 p.31

 プラナリアは、全身に幹細胞を持つ不思議な生き物。本作品で登場する登場人物は、1つを除きすべて女性が中心となっていて、著者の観察眼というか、わかるわかると思わず頷いてしまうようなそうした普遍的な空気感みたいなものが流れています。

 その中で出てきたこちらのセリフは、私は思わずハッとして、そうだこの世のいろんな物事は実は複雑怪奇に見えながらも、表裏一体となっている場合が多いのではないかと感じるわけです。だから、愛も突き詰めてぎゅっとすると憎しみが時々顔をだす。愛憎、可愛さ余って憎さ百倍。

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人には愛する人の面影をいつまでも残しておきたいというぬきがたい願望がある

『絶対平面都市』森山大道 p.403

 写真家である森山大道さんの対話集に出てきた言葉。私は写真を撮ることが好きで、森山さんの写真集を過去に拝見したことも多く、敬愛する写真家の一人です。ざらりとしてコントラストの高めな写真。

 著書の中で出てきたこの言葉が私の中でとても印象的で、たぶん私自身が写真を撮る理由も、きっと周りの愛する人たちとの時間や面影を、きちんとした形として残しておきたいからなのかもしれないなと思います。

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自立して生きているつもりでいたけれど、実際はたくさんの愛情にベールのように守られて、ここまできたんだ。

『さようなら、私』小川糸 p.204

 妙に今でも記憶の芯に残っている小説の一つです。主人公は中学校の頃の同級生の死によって、初恋の人であるナルヤに再会します。それによって記憶の蓋が紐解かれていく。全てに嫌悪し、自分はそうしたものから距離を置いて一人で生きていると思っていた。

 私も一時期、親に頼らず自分の足で生きているみたいな、妙に斜に構えた時期があって、その頃のことを思い出すともう目も当てられなくなるくらい悲惨でした。痛々しかっただろうな。ようやく最近、いろんなことが俯瞰的に見える年頃になってきたのか(いやいや遅すぎる)、私は本当にたくさんの人から見えない愛を受けてかろうじて生きてこれたんだなと思う日々です。

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きっと私も、無自覚にあらゆる人を傷つけてきた。差別や悪意以前に、存在するだけで、誰かを愛したり、誰かを生理的に嫌悪したり、誰かに対して個人的な感情を抱くだけで、常に何かに傷つき、何かを傷つけて生きている。生きているだけで、何かに何かの感情を持っただけで、何かに傷つき、何かを傷つけてしまうその世界自体が、もはや私には許容し難い。

『パリの砂漠、東京の蜃気楼』金原ひとみ p.71

 実は恥ずかしながら私はこの本を読むまで金原ひとみさんの作品ってきちんと読んだことがなかったんです。たぶん、普通入口としては芥川賞にも選出された『蛇にピアス』からなのではと思うんですけど、でも、私は図書館で手にした赤いこのエッセイ本から入ったんです。

 金原ひとみという一人の人間の本質を見た気がしました。個人的な感情を誰かに対して抱くということは、とても、とても怖いことなのではないかと時々思ってしまうんです。それは自分に対してもそうだし、相手にとっても。だから私は時々人と関わることに恐れをなしてしまう。

 愛して、嫌悪して。その度に身を引き裂かれそうになりながら、傷つけあってお互いの傷を舐め合いながら、そして生きている。その山と谷を乗り越えながら、少しずつ体に昔の古傷を抱えて、私はきっと、呼吸をしている。

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人生でつらいことは、死ぬことじゃなくて、愛がなくなることね。

『劇場』p.373

 本作では成功した女優と、その夫である劇場支配人との関係性が中心に描かれています。でも私はこの作品を読んで思ったのは、彼女が抱える心の闇というか喪失感というか、そういったところでした。

 たぶん人生の成功って色々な定義があると思うんですけど、成功をするたびに私たちは何かを削られていって、何か美しいものを眺める感覚だとか、誰かに対して思いを寄せることだとか。

 だからきっと主人公も、自分が成功していくにつれて、自分のなかで大切にしているものがそっくりそのまま失われてしまうことを恐れたのではないかな、と後から読み返して考えるのです。

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 いかがでしたでしょうか。実はまだまだ「愛」について考えた文章についてはたくさんあるのですが、一旦ここで止めていきたいと思います。不思議とこうして文章を読んでいると、ぼんやりとですがその輪郭が掴めるような気がしてくるんですよね。

 みんながみんな、定義は違うかもしれないのですが、生きている中でたぶんはっきりとこれがそうだったんだ、と感じる瞬間があるのかもしれない。最近人との関わりの中でそう思えるようになったのは、これだけ長く「愛」について考えた結果なのかなとひっそり振り返っています。


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