#98 銀河鉄道の夜
嵐のような静けさの最中で、私はひとり何かにせき立てられるかのようにゆらゆら揺れている。なんてことはない日常なんて、遠い出来事のように思えた。ジョバンニは、銀河鉄道に乗って心の底から感動したのだろうか。露となって消える、数々の思い出。夢から醒めて目覚めたときに、川のまわりに集まるたくさんの人たち。いじめっ子のザネリを助けに川へ入った、カンパネルラ。
何かに狂ったように、何かに縛られる。自由とは反対側。でもきっとそれは反対語ではない。目の前のことに囚われ、身動きができなくなる。悩ませる何かがある。それは時には人を狂わせもするし、時には霰もないどうしようもない行動に掻き立てる。過去、罪のない人たちを何人も殺傷した犯罪者たちは、心の奥に闇を抱えていたことだろう。
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昨日、記事を書いていて思い出したことがある。自由は孤独と隣り合わせかもしれないとついと思ってそれをそのまま卒業論文にしたけれど、今思えばそもそも私は自由を愛する側の人間だった。誰かが私のことをこういう人間だと思っている。あなたって、ちょっと変わっているよね、それに抗いたくなる。誰かが決めた自分のイメージなんて、一旦くしゃっと潰してポイっとコミ箱に捨てたい。私は、私しか自分のことを決めることはできない。(コミ箱? コミュニケーションで忘れたいものをポイっと捨てる場所です)
なんか、最近ちっともうまくいくことがない。基本私はポジティブにポジティブをつけたした、まるで鰻屋さんに代々引き継がれているタレを濃縮したような人間なのですが、行動しても行動してもうまく自分の気持ちの馬力が上がらないのにはさて困った。ついこの間まで見ていた『こっち向いてよ向井くん』と『VIVANT』が終わってしまったからかもしれない。ちなみに、VIVANTは周りでザワザワするくらい、ドツボにハマっておりました。堺雅人さん、さすがです。
最近は奇妙礼太郎の「散る 散る 満ちる」ばかりを時間がある時はダラダラと見て、いいなぁ杉咲花さんの花を持ちながら東京駅近くを颯爽と歩くあたり、こんなふうに爽やかさを伴って歩いたら気持ちいいだろうなということを考えて、人々の雑踏の中をかっちりビジネス用の服を着て歩いている。
もう街ではマスクをつけている人もほとんど見かけないし、何かに怯えるように生きている人の姿も見かけない。昨日久しぶりに見た祖母は、以前会った時よりも「生きた瞳の光」を宿していてホッとした。半年前くらいに転んで足腰を痛めた祖母は、それまでずっと習慣のようにしていた農作物を育てることをやめてしまった。
その時彼女はゾッとするほど暗い目をしていて、側から見たときに体のどこかを痛めることで、気力を失うことによって、こんなにも人は見た感じが変わってしまうのかと悲しくなった。私は、彼女の作るスイカがとても、とても好きだったのだ。母の兄が祖母の代わりにスイカを作ろうとしたのだが、うまくいかなかったらしい。愛情の注ぎ方の違いかな、と祖母は言ったそうな。
その祖母が、「私は最近はもう食べて寝るだけだよ」としょぼしょぼした目で言うのだ。その姿がとても哀しくて、愛しくて。そんなことないよ、生きているだけで尊い。私たちは彼女を励ました。祖母は少し寂しそうに笑い、そして私が持参した生どら焼きを勧めてくる。自分で買ったものなのにな……と思いながら思わず手に取る。私は昔から甘いものには目がないのだ。コーヒー味のどら焼きは甘ったるくて、ほんの少し苦かった。できれば長く生きてほしいと優しい気持ちが芽生えている。
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「世界中の人々が幸福でなければ、自分の幸せはない」と考えていた宮沢賢治は、私には偉大すぎて雲の上のような存在に感じる。「雨ニモマケズ 風ニモマケズ」と言っていた彼は、自然と共に生きる人だった。私はスピリチュアルなんてものを元々信じる方ではないものの、何かの因果というか、巡り合わせのようなものは時々感じる。
こうして、不意に長い道筋の途中途中で出会った人たち。銀河鉄道に乗りながら、ジョバンニが遭遇した人たちは、どの人たちも浮世離れした人たちばかりだった。私は、時折『銀河鉄道の夜』を読みたくなる。ひっそりと、時々孤独に押しつぶされそうになる夜に。カンパリウーロンを手元にあるグラスで飲みながら、カムパネルラのことを考える。カンパリで赤く染まった液体が、トロリと喉元を過ぎ去っていった。
いくつもの命を奪ってしまった蠍は、イタチに追われて井戸へ落ち、そしてそこで逃げ場がないと悟った時に、どうせ死ぬならこの命、イタチに食べられた方が幸せだった、と嘆いた。自己犠牲的な相手の幸せを願う気持ちは、これはややすると一つの愛情の形とも言えるのではないだろうか。
どうして、彼は死んでしまったのだろう。どうして、彼らは、彼女は消えてしまったのだろう。きちんと、綺麗な星へと変わったのだろうか。輝く、人の目印となるものに。サウザンクロスの縁を模った十字架を、ベトナムの教会で一度だけ見た。少しだけ項垂れたようなイエス・キリストは、確かに厳かなもののように思えたし、不思議なことに神の子というのもなんとなく頷いてしまうような納得感があった。
奇妙なことに、文字を書いていると全てが愛おしく感じてくる。ジョバンニもカムパネルラもザネリも尼さんも旅人も助手たちも赤ひげも。ついで、林檎を思わず齧りたくなる。人間が知恵をつけ、地上の楽園から追放されるきっかけとなったものを。
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ちょっと取り止めのない感じになってしまった。昔の作家の作品を読んでいるときに、やっぱり宮沢賢治の物語は私の心の襞をくすぐる。注文の多い料理店だとか、ユーモア半分教訓半分、みたいな。それでいてどの作品においても、彼の登場人物に対する愛が垣間見ることができて、その中にある温かさというのが、ささくれだった私の心を時折救うのです。
故にわたしは真摯に愛を語る
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