日常こそすべて──小説家・庄野潤三の魅力
昨年、2023年、色々と小説を読みましたが、
「この作家さんの本を読めて心からよかったな」と、心底思ったのが、庄野潤三さん(以下、敬称略)。
文壇では有名な方だと思うのですが、まだ読んだことがなかった。
知らない、未読――そういう方も多くいるではないかと思い、noteに書き留めることにしました。
すでにお亡くなりになられているのですが、庄野潤三の小説は、今の私の“感覚”にドンピシャにハマった。
今の私の“感覚”というのは、『暇と退屈の倫理学』に書かれている考えをもとにしている。
「暇と退屈とどのように向き合うか?」
ハイデガーなどを引用して、解き明かしていく、非常におもしろい一冊でした。
私はこの本に、とても影響を受けた。ここに書かれていることを実践したいなと思った。
そんな中で出会ったのが、庄野潤三の小説。
「まさにこれだ」、と思った。
読み終えた2冊の感想をのせておきます。
少しでも紹介になれば幸い。
『夕べの雲』
まず前提として、本書は“純文学”であるということを分かっていなければならない。
決してエンタメ小説ではない。
基本、“退屈でつまらない”、それが純文学である。人を楽しませるために書かれた本ではない。
前情報なく、本書を読み始めると、「何だこの退屈な小説は」と思い、途中で投げ出してしまうかもしれない。なので、巻末の解説を最初に読むことをおすすめする。
「幸せとは何でもない日常にこそあるのだ」
確かにそうだろう。そう思って読んでいた。
退屈を愛でること、それこそが幸福であると。
しかし、どうやらそんな単純な話ではないことに途中気づいた。
当たり前の日常は、当たり前“だけ”ではない。
退屈な日常は、実は、退屈ばかりではない。
そこには必ず、“危うさ”が潜んでいる。
当たり前も、退屈も、いつそれが消えてなくなってもおかしくない。実はとても不安定で、危ういものである。
夕べの雲のように、いまの形は次の瞬間には変わっている、言い換えれば、いまの形は次の瞬間には“消えている”のである。
そう考えると、いまの平凡な日常が、“いま”であるはずなのに、どこか懐かしく思われてくる。
ただただ退屈を愛でるだけでは、退屈な日常を真に理解しているとはいえない。
「幸せとは何でもない日常にこそある」
確かにそうであるが、その裏側に潜む“危うさ”もセットにして日常を捉えること。
「懐かしい」には、「哀しい」が含まれている。
懐かしいと思うとき、そこにはどこか哀しい気持ちも含まれている。
そのような、懐かしくて哀しい気持ちをもって、今を、日常を、見つめる。
ありふれた日常がまた違って見えてくる。私は退屈を愛でるだろう。
私の幸福は、不幸と表裏一体であることで存在している。常にそういった気持ちでありたい。
『プールサイド小景・静物』
一年後、どんな内容の本だったか思い出せるか。
もしかすると、すっかり忘れてしまっているかもしれない。
それはそうで、これはあまりにも“日常”である。
三日前の晩ご飯を思い出せないように、“日常”とは過ぎ去っていくもの、忘れ去られていくものである。
そのような“日常”を克明に描写している。
一つ一つの出来事を丁寧に、ありのまま描くことで、些細な“日常”の裏に深刻な何かが見え隠れする。急に、“日常”が重大に思われてくる。
その深刻な何か、日常の裏にある“危うさ”みたいなもの、それは一体何なのか、どういうことなのか、はっきりと書かれてはいない。しかしそれが結果的に、読後の絶妙な余韻へと繋がっている。
本書収録の中では、『舞踏』が最も私の好みで、冒頭からやられてしまった。
庄野潤三の作品を読んで。
以上、簡単ではありますが、感想を書いてみました。
ここまで書いたように、ありふれた“日常”が主なテーマとなっている。
しかし、そのありふれた“日常”の深さを、私はどれだけ知っているだろうか。
庄野潤三の作品には、私が知っている“日常”の表と、私が見過ごしている“日常”の裏が描かれている。
“日常”。それは決して“ありふれた”ものではなく、大げさにいえば、奇跡の連続なのかもしれない。
いや、それはやはり大げさすぎるか――。
しかし、私は思う。
日常こそ人生のすべてなのではないか。
初めて庄野潤三の小説を読んで。
この衝撃は、初めて志賀直哉を読んだときのそれと似ていた。
小説なのだが、どこか詩的な感じ。詩を読んでいるような気持ちになった。
また、読んでる途中で、「梶井基次郎の作品っぽいな」とも思った。『夕べの雲』の巻末の作家案内にもあったように、影響を受けているのかなと思った。
なので、志賀直哉や梶井基次郎が好きな方は、きっと庄野潤三の作品を楽しめると思う。
少しでも気になった方は、『プールサイドの小景』から読むことを個人的にはおすすめします。
以上です。