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死ぬ前までに食べたい100の美菓子 赤紫蘇で巻いた菓子
昔むかし中国に華陀(かだ)という有名なお医者さんがいたとな。その華陀の手にかかってなおらない病人はいない、といわれたほどだった。
ある時、蟹を食べて食中毒になり、死にかけた子供がいて、親から「なんとかこの子の命を救ってくだされ」と頼まれた華陀は、山道に植えてある紫色した葉を潰して子どもに食べさせたところ、その子が蘇ったため、村人たちはこの草を「紫蘇」と呼ぶようになったとな。
以来、中国の医師た
死ぬまでに食べたい100の美菓 長崎の縁起菓子 桃カステラ
桃が美味しい季節になったが、昔から桃を模った菓子は多い。
「桃李成蹊(とおりせいけい)」という中国故事に由来する熟語がある。
桃や李は、人格者であることのたとえで、そのような人物は黙っていても、徳を求めて人々が集まってくるという意味を持つ。俳優の松阪桃李さんの名前ももしかしたらこの故事に由来しているかもしれない。
桃李は、「史記・李将軍列伝・賛」にある、「桃李ものを言わざれども、下自ら践を成
死ぬ前までに食べたい100の美菓 土用餅
土用丑の日といえば、うなぎを食べるのか相場になっている。しかし、丑とうなぎは直接的には何の由来もない。
うなぎ以外にも、「土用の蜆(しじみ)」もあれば「土用の卵」「土用の瓜」「土用の梅干し」など、全国にはたくさんの、土用の丑の日の食べ物や風習がある。
あらためて、夏の土用というのは7月20日頃から8月6日頃の、二十四節気の大暑に重なり、とにかく非常に暑い。
そこで、厳しい暑さを乗り切るために
死ぬ前まで食べたい100の美菓 松江の和菓子
「日本三代銘菓」と言われる落雁がある。最初は石川県金沢市の「森八」で作られている最高級品「長生殿」。紅白で、徳島県産の和三盆と北陸産のもち米で出来ている。
加賀藩3代藩主前田利常より七夕のための落雁を作ることを命じられた、三代目森下屋八左衛門(森八の前身)によって作られた和菓子で、藩主利常自ら、唐墨をまねた上品な形を考案し、文字は、茶道遠州流の始祖、小堀遠州の筆によるものだそうだ。名前の由来は、
死ぬ前まで食べたい100の美菓 飴ちゃん
年が明けると、山形市の「初市」では初飴が売られる。最上義光公の時代、山形には定期の市が立つ市日町があり、毎年1月10日に市神祭りとして、十日町から七日町にかけて多くの露店が立ち並ぶようになったのが始まりとされている。
最上義光は鶴岡でも市を奨励し、五日町、七日町、十日町、一日市町などの町を城下に整備してきたが、昭和に入り、町名変更が行われ、時の有識者とかいう郷土史の先生の一声で、最上義光由来のも
死ぬ前までに食べたい100の美菓 みつまめ、あんみつ
「ひゃっこい〜、ひゃっこい〜」
「白玉、心太、みつ豆はいかが」
「ひゃっこい〜、ひゃっこい〜」
夏になると江戸の街に白玉、心太、みつ豆売りの声が鳴り響く。
天秤棒の木桶に入っている冷たい水には、ゆらゆらと白玉や心太、みつまめが浮かび、1椀4文で売られていた。
大人は心太に醤油や酢をかけ、子どもは白玉やみつまめに砂糖やきな粉をかけて食べる。
昭和の流行語「ミーハー」の語源は、昭和のはじめ、み
死ぬ前までに食べたい100の美菓 小豆モン
講談と落語の源流とも言われるのが、御伽衆達の辻噺、つまりおとぎ話だ。戦国時代、織田信長が側に置いたのが野間藤六という御伽衆で、藤六が信長に聴かせて大笑いさせたのが、「小豆がこわい」という噺で、これが後に落語の「まんじゅう怖い」になっている。
藤六は、意地悪な城の女たちから「怖きものは何?」と問われると、「あずき餅ほど怖きものなし」と答え、まんまと好物のあずき餅をせしめたという噺が残っていて、それ
死ぬ前に食べたい100の美菓 冬の水ようかん
水ようかんが美味しい季節になりました。
鶴岡市民は 年の瀬が近づくと、無性に水ようかんが食べたくなる。鶴岡市内のお菓子屋さんの店頭にも、冬の水ようかんのPOPが貼られる。
福井にも冬の風物詩に水ようかんがある。福井の場合には、京都のお菓子屋に丁稚奉公に出た若者が、正月休みで故郷に帰る時、京都で覚えた水ようかんをお土産にしようと作ったものだと言われている。
和紙の歴史を調べていた時、福井県の越前
死ぬ前までに食べたい100の美菓 切り山椒
今年の酉の市は、11月11日(土)と11月23日(木)。浅草鷲神社の昔の酉の市は、近くの吉原の門が解放され、女子供でも吉原の街を歩けたそうで、吉原に売られた娘に会いに来たり、見張り役はいたが、遊女達も酉の市で売られる菓子を買い求めていた。
その中で、切り山椒は名物の菓子で、昔、筆者が住む山形の鶴岡から江戸見物に行ったという鶴岡の菓子組合の面々は、酉の市で売られていた切り山椒を持ち帰り、鶴岡でも七
死ぬ前までに食べたい100の美菓 番太郎菓子とさつまいもスイーツ
街頭紙芝居の生業の始めは、飴を売ることだった。飴や駄菓子のことを、江戸では番太郎菓子と呼んでいた。
その番太郎菓子の始まりは、江戸市中にあった番屋の本業で、駄菓子屋とか荒物屋は番屋を兼ねた、現代のコンビニみたいなものだった。
番屋は正しくは木戸番のことで、江戸のはじめ、多くの城下町には防犯のため木戸が設けられていた。夜は木戸を閉じるために、「番太郎」または「番太」と呼ばれる木戸番がいた。
大抵