死ぬ前までに食べたい100の美菓 美味しい梅の菓子・標野(しめの)
滋賀県大津市に本店がある「叶 匠寿庵」の梅酒の銘菓「標野」は、古くから素材の梅の栽培と梅酒の漬け込み、お菓子にするまでを自社内で行ってきた。
最近、果皮も果肉も赤い希少品種の「露茜(つゆあかね)」に品種を変え、また菓子の色・形・味の全てを一新している。
大津といえば、天智天皇の大津京がある。天智2年(663)、日本は百済を救援するため朝鮮半島に出兵した。しかし、白村江の戦いで大敗し、日本はその後も、唐と新羅の連合軍との緊張関係が続く。
そんな中、天智6年、中大兄皇子は飛鳥から近江へ遷都し、翌年即位した。天智天皇による近江大津宮が誕生している。
天智天皇は大胆な政治改革を進め、大津は日本の政治の中枢を握る地となった。高校時代、日本史で年号の暗記に夢中となったが、「虫も殺さぬ(645)大化の改新」は、天智天皇によるものだった。
その後、天智10年(671)、天智天皇が崩御すると、翌年大友皇子と大海人皇子との間で皇位継承を争う壬申の乱がおこり、再び飛鳥へ遷都され、近江大津宮はわずか5年余で閉じてしまう。
再び、菓子の標野の話に戻るが、同社のホームページによれば、名前の由来は、
あかねさす紫野行き標野行き野守は見ずや君が袖振る
という、万葉集にも収められた和歌からきているという。
この歌の歌人は、絶世の美女と言われた額田王だが、ここにもまた、天智天皇が登場する。
額田王の歌は日本最古の和歌集『万葉集』に収められている。この歌に登場する「君」は、額田王のかつての夫、大海人皇子(天武天皇)で、天智天皇の弟だが、後に額田王は大海人皇子の兄である天智天皇と結ばれている。
額田王は、中大兄皇子・大海人皇子兄弟の母であった斉明天皇に詩の才能を見出され、天皇に成り代わって歌を詠む女官として、天皇に仕えていた女性と考えられている。
しかし、大海人皇子と結ばれ、娘も産んだ彼女が、いつ大海人皇子の元を離れ、どのような経緯で兄・天智天皇(中大兄皇子)の後宮に入ることになったのか、記録には残っていない。
当時は一夫一婦制ではなく、婚姻に対する考え方も現代とはまったく違うのは、今のNHK大河ドラマ「光る君へ」をみれば、わかるだろう。
さて、再び、標野だが、1974年(昭和49年)に誕生した時の赤色は着色料を使用していたという。また梅の色素で赤を表現することは長年の課題だったともいう。
職人でもある3代目社長が、果皮も果肉も赤い希少な新品種「露茜」に辿り着き、創業者が生み出した標野の背景や歴史を大切にしながらも、露茜を生かした新しい色と形、味わいを開発している。
本社工場で育てた「城州白」の梅を1年熟成させた梅酒に、露茜の赤い梅酒を加えることで、額田王の「あかねさす」恋歌に詠まれた近江の情景を、美しい色の階調で表現したとされている。
同じ梅の菓子で、山形県東根市の壽屋寿香蔵さんもまた食品添加物を一切使わない食品開発をコンセプトにして、標野と同じく、「茜姫」を作っている。
最近、私は都々逸にハマっているが、♪梅は咲いたか、桜はまだかいな、の時期だ。
梅の菓子でも食べながら、万葉の時代に想いを寄せながら、一節、都々逸でも唸ってみるか。
物語性のある、美しい菓子、美味しい菓子
美菓の古道を旅してみたい。
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