
平坂のカフェ 最終話 四季は太陽(10)
あれから2年が過ぎた。
カナは、一命を取り留めた。
右腕の腱は千切れていなかったから生活に支障はなく、絵も描ける。ただ、出血量があまりにも多かったので助かったのが奇跡だと医師から言われた。
「貴方は神様に愛されてるのですね」
医師がそう言って微笑むとカナは、首を激しく横に振って否定した。
「神様に嫌われてるから助かったんですよ。先生」
カナの言葉の意味を医師は理解出来ずに首を傾げた。
俺は、何となく意味が分かったけど口には出さなかった。
俺は、カナに支えられながら懸命に治療とリハビリに励んだ。
1年間、動かしていなかった身体はそれは酷いものだった。
痩せてプロシュートのように削り取られた筋肉は、ヴァイオリンの線よりも細く、固かった。
2分と歩くことも出来ず、立つこともままならない。
この調子じゃ包丁を握るどころか玉葱すら持てないだろう。
俺は、何とか身体を取り戻そうと躍起になってリハビリに取り組んだ。
そうじゃないとカナを幸せになんて出来ない。
料理の修業と同じだ。
続けていけば、努力すればきっと元に戻る。
そう思って痛みに耐えて取り組んだ結果、俺は身体を取り戻した。
日常生活を送るのに支障がないほどに回復した。
自分の力で立って歩いて、退院する俺の姿を見てカナは泣いた。
本当に心配をかけて申し訳ないなあと俺はカナの頭を撫でた。
次に始めたのは社会復帰だ。
正直、2年前に予定していたイタリアに戻るのは不可能だった。
身体が回復したからと言って病院通いは続けないといけない。保険だって日本のものだ。
身体は動くようにはなったが、料理の腕や味覚は別だ。修業しなおさないと足を引っ張るだけだし、俺の事情なんて料理の世界には関係ない。
そして何よりも万が一俺の身体に異変が起きた時、頼る人のいないイタリアでカナを困らせる訳にもいかなかった。
俺は、日本で働いている間だけお世話になったビストロに顔を出し、皿洗いでいいので雇ってくれないかお願いした。
事件を見て俺のことを知っていた店主は、訪れたことに驚くも快く引き受けてくれ、「皿洗いとは言わず慣れてきたら料理も手伝ってくれ。君ならすぐに腕を取り戻せるよ」と言ってくれた。
俺は、店に迷惑掛けないよう懸命に働いた。
リハビリで戻った身体は疲れやすくはなったもののしっかりと動いてくれた。
次第に皿だけを洗っていた手は料理を運べるようになり、火を付けるようになり、調味料を扱えるようになり、
そして包丁を握れるようになった。
カナも絵の仕事を再開した。
そして今年の1月に入り、店主から店を持たないか?と声を掛けられた。
何でも店主の知り合いが高齢で店を畳むことになったので空いてしまう店舗を借りてくれる人を探しているというのだ。
家賃は古いので格安。
リフォームは好きにしていい。
店が軌道に乗ってきたら買い取って正式に自分の店にすれば良いと破格の待遇だ。
しかし、俺は悩んだ。
2年前なら否応もなく飛びついたろう。
店を持つのは俺の念願の夢だから。
だが、今の俺に果たして出来るだろうか?
そう悩んでいた時、腕を引いてくれたのはカナだった。
「選択肢なんていらないから貴方の好きに"生き"なさい」
選択肢?
何のことだろう?
でも、確かに悩むことなんてないのかもしれない。
俺たちは生きてるんだ。
生きることが出来たのだ。
なら進もう。
俺は、店主の申し出を受けた。
そして今日、無事に開店することが出来る。
俺たちの結婚式と共に。
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