平坂のカフェ 第4部 冬は雪(23)
お互いの休みの日程を合わせ、私達は会う約束をした。
当日、彼は白い国産のスポーツカーに乗って私の家の前にやってきた。
あの日みたいに。
しかし、車から降りてきた彼はもう少年ではなかった。
仕立ての良さそうな紺色のジャケットとスラックスにストライプの線の入った白いシャツ、波を打ったような癖のある髪は癖を残しながらも清潔に切り整えられている。高校生の頃より痩せたような印象があるがそれは身体が引き締まったからで服越しにも線が綺麗なことが分かる。顔つきも18代特有の柔らかみが消えて綺麗に磨がれたナイフのように細く、美しい輪郭を浮き立たせている。唯一、赤みがかったような目と柔らかい笑みだけが変わっていなかった。
男になったのだ。
私は、心臓が昂るのを感じた。
しかし、なぜか赤くなっているのは彼だった。
彼は、車を降りてから何故か視線を合わせようとしない。ジャケットの襟を指先で擦るように弄り、小さく身を揺らす。
「・・・どうしたの?」
「いや・・・」
彼は、困ったように唇をモゴモゴ動かす。
「先輩・・・綺麗だなって・・・」
私は、心臓の爆発が髪から何まで逆立つような錯覚に囚われた。自分の身体が爆発してないから確かめるほどに。
「な・・・何言い出すのよ!」
「だって先輩、本当に綺麗になってんすもん!何ですか⁉︎何でたった5年でそんなに女らしく、色っぽくなってるんですか⁉︎詐欺ですよ詐欺!」
「誰が詐欺よ!あんただってほとんど面影ないじゃない!」
「俺は良いんですよ!中身変わってないので!」
それは良いことなのか?と私の頭に疑問が浮かぶ。
「先輩は変わりすぎて逆に不安ですよ!こんな先輩が5年間も無防備で、しかもたくさんの人の目に晒されてたなんて!」
「あんたは要庇護対象の姫を構いすぎて嫌われる執事か!」
「例えがマニアック過ぎてわからない!」
彼は、相変わらず喧しかった。
喧しいのが・・・嬉しかった。
私達の子どものじゃれ合いのような言い合いはしばらく続いた。
ようやく車に乗ると私が行き先を聞く間もなく「場所は秘密です」と告げてきた。
なんかあの時と似てるな、と思わず口元を綻ばす。
車中では会っていなかった間のことに付いて報告しあった。
イタリアに渡ってからミラノの小さなリストランテで働き、その後、武者修行として地方のリストランテはバルを転々としたこと。
料理をする上で食材の事を学びたいからと思い牧場で働き、パルメザンチーズは生ハムの製造に関わったこと。
嘘か本当かシチリアのマフィアに頼まれてパニーニを作った事をきっかけに抗争に巻き込まれたことなどを面白おかしく話してくれた。
私が知らない間の彼の話しはとても・・とても面白かった。イタリアになんて行ったこともないけど彼が生活している姿を思い浮かべるだけで身近なことのように思える。
私も両親や友達のこと、デザイン系の専門学校に通って友人とはそこで知り合ったこと、投稿サイトに"KAnA"名義で樹木の絵を投稿し、いつの間にか樹木アーティストと呼ばれるようになっていたこと、個展を行うきっかけになっなことを話した。彼のように面白おかしく話すことは出来ないけど、彼は楽しそうに聞いてくれた。
通りすがりに見つけた水車のあるお蕎麦屋さんで遅い昼食を取る。
彼曰く、日本食に飢えていて仕事以外は毎日食べているらしい。ここの出汁は美味いとしっかりと小さなメモ帳に記入し、帰り際には店主を捕まえて何で出汁を取っているのかとしつこく聞いていた。
まあ、かくゆう私も「背の近くにとても良い形をした椎の木が生えていたので彼の許可も取らずにデッサンを始めてしまったのだが・・・。
車を走らせ、景色を見ていると彼が私をどこに連れてきたがってるのか何となく想像がついた。
そしてその想像は当たった。
彼が連れてきたのはあの桜の木だった。
景観はあの時と変わらない。
違うのは葉の色が黄緑色で若々しく、触れるだけで生命の水が溢れそうに潤っていること、熱い夕日ではなく、暗くてなり始めた空に白い月が薄ぼんやりと浮かんでいることだった。
「中々、桜の咲いてる時期に来ることが出来ないっすね」
彼は、小さく笑う。
「ううんっ。とっても綺麗」
私が描いた桜の木なんて及びも付かない、ただの落書きとしか程に生命力の溢れた桜の木にあの時と同じように私の左目から涙が出る。
そして、それに気づいた彼が私にハンカチを渡す。
あの時のように。
「先輩・・・聞いていいですか?」
「なに?」
聞き返したけど、ここに連れてきてもらってから何を聞かれるかはもう分かっていた。
「あの時・・・俺、死ぬ思いで告白したんです」
「うん」
「何日も悩んで悩んでどうやったらカッコいいかとか、フラれた時どう言えば誤魔化せるのかとか、成功した時はした時でどうしたらいいのかとかいっぱい考えて寝れなかったんです」
「うんっ」
「結局、見事にフラれた。フラれたんですけど・・」
彼は、私と向かい合う。
あの時と変わらない真摯な眼差しで私を見る。
「教えてください。何であの時、オレを振ったのか。あの時はショック過ぎて頭も回ってなかったですけど、今なら聞けます。いや、聞かないとイタリアに戻れないです」
私の心に小さな衝撃が撃たれる。
そうだった。
彼のいる場所はここではないのだ。
彼の世界はもっと輝いた世界なのだ。
「そっか・・・」
そうだよね。
勝手に色々と舞い上がってた自分が馬鹿みたいに思えた。
なら、彼を縛り付けるなんて事をしちゃいけない。
私は、薄い月に照らされた桜を見る。
「幸せ・・・だったから」
「えっ?」
私は、彼にとって話した。
もう両親以外に知る人のない、私の過去を。
誤魔化す事なく、記憶に残る部分は全て、残っていない部分は両親から聞いた部分を糸で繋ぎ合わせるように話した。
彼の表情が見る見る青ざめていくことが分かる。
「そんなだったから高校でもほとんど自暴自棄で何事にも無関心だった。自分がどうなろうと知ったことではないと他人事だった」
私は、左目で彼の顔を見る。
彼の赤みがかった瞳に私の顔が映る。
涙でくしゃくしゃになった私の顔が。
「それを変えてくれたのが貴方だった。貴方に出会ってから全てが変わった。私の世界に色が付いたの。
それからの私の人生は大きく変わった。
友達が出来た。
生きがいとやりがいが出来た。
師として導いてくれる人が出来た。
両親と本当の親子になることが出来た。
そして貴方に告白された。
幸せだった。
幸せで幸せで幸せで・・・怖くなった」
「怖く・・・なった?」
私は、頷く。
「こんな私が幸せでいられる訳がない。いつかどこかで崩れ落ちるに決まっている」
そうあの日見た夕日みたいに。
いつか必ず沈む
「私が崩れるならいい。不幸には慣れてるから。無関心な私に戻るだけ。でも・・でも」
私は、彼の手を握る。
私が自分から人の手を握るなんて初めてだった。
彼の表情に動揺が走る。
「貴方を失うことだけは耐えられない・・」
私の声は震えていた。
息が絶え絶えで呼吸が出来ない。
「だったら最初から手にしなければいい。なかったことにすればいい。そうすれば貴方が側にいなくても失うことはないから・・・だから私は・・・」
「先輩・・・」
彼は、私をそっと自分の胸に引き寄せた。
初めて感じる両親以外の人の温もり・・・。
香辛料と甘い香りが鼻腔に入り込む。
彼は、私の耳元に唇を近づける。
そして"あの言葉"を言った。
私が生涯、決して忘れることのないあの言葉を。
それは彼の渾身のプロポーズだった。