平坂のカフェ 第4部 冬は雪(27)
それからも目まぐるしい日々は続いた。
眼帯を付けるのを止めた3日後に私達は区役所に婚姻届を出した。
私としてはもっと早く出したかったのだが彼が「こういうのを出すのは大安がいいんだ」とイタリアを拠点に働いている癖に実に日本人らしい頑固な意見を言って来たので思わず苦笑してしまった。
無事に入籍をした後に再度、お互いの両親に報告。
父親は、最後まで海外に住む事を認めようとしていなかったが入籍までしてしまうと流石に折れた。そして彼に向かって「なるべく早く日本で仕事見つけてくれよ」と泣きつく始末だ。
彼は、「わかってます!」と張り切って頷いていた。
その後、結婚式はどうするのか?と聞かれたが、正直そこまで考えてなかった。
彼も考えてなかったと,青ざめる。
その後、散々話し合った結果、イタリアでの生活が落ち着いてから身内だけを呼んでの小さな式をしようということでまとまった。
その話しを友達と友人に話すとみんな共通して剣呑な表情をし、「絶対行くからね」と無言の圧力をかけられ、身内と友達と友人を呼んでの小さな結婚式へと修正した。
個展も無事に成功し、Tシャツも期待の売り上げ枚数に到達した。
アパレル会社は、大変気を良くし、私の絵のTシャツを定期購買することを検討していると告げられ、胃が冷える思いがした。友人は、「イタリアに行っても忙しいな」と笑ってくる。そして「だからと言って描きたくない絵は描かなくて良いからな」とも言ってくれた。
そして次の個展準備をしながら新しい絵も描き、イタリアへの転居の準備をし、彼との逢瀬を送っているとあっという間に世間で言う夏休みの期間に入り、私と彼は今、次の個展会場のある〇〇県に行く電車の中にいた。
「新婚旅行が国内かあ」
電車の背もたれに寄りかかり少しがっかりしたように彼は言う。
文句を言う割には売店で食い入るように見て選んだ日本で1番有名なシュウマイ弁当を大事そうに抱えている。
電車の中は夏休みと言うこともあり、カップルや親子連れが多く、エアコンが効いていると言うのに少し蒸し暑く感じた。
私達の少し前に座っている母親と2人の子ども連れも「暑い暑い」と言いながらスポーツドリンクを飲んでいる。
「どうせ1ヶ月後にはイタリアに行くでしょ。それに旅行じゃなくて仕事よ」
そう言って彼が今朝焼いてきてくれたマドレーヌを食べる。
しっとり柔らかく、舌の熱で溶けて甘さが広がっていく。
マドレーヌって確かイタリアでなくフランスのお菓子のはずだけど、彼に言わせると美味しい物に国境はないから別に構わないらしい。
そう私の仕事・・・〇〇県での個展を終えたらイタリアに旅立つ予定だ。彼のあちらでの友人を通して新居を決め、荷物を運ぶ準備やパスポート、飛行機のチケットも押さえてある。個展を終えたら3日ほど、お互いの実家で過ごし、イタリアに出発する。
「イタリアだって仕事があるから戻るので旅行じゃないですよー」
そう言って彼は、拗ねたように唇を尖らす。
「あー温泉入ってゆっくりしよ」
文句言いながらも少し楽しみにしている様子が何とも可愛らしく私は思わず笑みを浮かべてしまう。
「もうこの町に戻ってくる事はないけど思い残す事はないかい?」
「思い残すこと?」
私は、首を傾げる。
「行ってみたかった服や小物の店とかレストランとか。あと、会っておきたい人とかだよ」
「えー何それ?」
私は、苦笑を浮かべて肩を竦める。
確かに個展の為に初めて訪れた町ではあるが特に特質した店がある訳でも友達が住んでいる訳でもない。昨日の帰り道のコンビニの前であの結局、名前を名乗ってもらえなかった男の子にあって"さようなら"を言うことも出来たのだからとくに思い残すこともない。
強いて言うなら・・・。
「貴方と再会出来た思い出の町だよ」
私がそう言って笑うと彼は、頬を赤く染めた。
唇を上に吊り上げ、シウマイ弁当と私の顔を交互に見る。
恐らく照れているのを隠しているつもりなのだろう。
あまりの可愛さに私はコロコロと笑う。
唇に甘い熱が灯る。
唐突に彼が私の唇にキスをしてきたのだ。
何が起きたの一瞬わからなかった私は、数秒経ってから全てを理解し、破裂するように頬を赤く染める。
「甘い・・・」
彼は、頬を赤く染めたままボソッと言う。
「・・・マドレーヌのせいだよ」
私は、あまりの恥ずかしさに顔を俯かせる。
「・・・トイレ行ってくる」
彼は、シートから立ち上がり、トイレに向かおうとする。
私は、手を伸ばして彼の服の裾を掴む。
「早く戻ってきてね」
彼は、一瞬、びっくりした顔をし、そして微笑を浮かべると、私の頭にポンッと手を乗っける。
「ho capito」
そう言ってトイレへと向かっていく。
私は、彼の背を見送るとタブレットを開き、個展で展示する絵のデータのチェックを始めた。
車窓の窓から入る光りがとても眩しく、心地よかった。